閑話4 雪空のおとしもの(5)
木こりの兄妹の前に突然現れた天使が、唐突さに消えてしまってから数ヶ月。
二人の口数は目に見えて減り、やっと暖かくなってきた外の世界とは逆に、家には寒々しい空気が流れていました。
「……」
当初はわんわんと泣き、謝罪の言葉を何度も何度も絞り出していたディーは、カーテンを閉め切った部屋にこもって虚ろに日々をやり過ごしています。
ヴィタはそんな妹にかける言葉が見付からないまま、ドアに視線を投げては仕事に出掛ける毎日が続きました。
はぁと溜め息を吐き出し、一時だけ息を詰めて斧を振り下ろす。規則正しいその音も心の穴を擦り抜けるみたいにむなしさを際立たせました。
「……」
妹への怒りはすぐに去り、代わりに胸を占めたのは自分のふがいなさに対する怒りでした。
守れなかった。そして、今も守れずにいる。闇に沈んだディーの瞳を目の当たりにすると、手にしている斧で己を切り裂いてしまいたい衝動に駆られました。
時間が解決してくれるでしょうか。両親を失ったあとに慰めてくれた「時」が、今度も心にあいた穴を薄ぼんやりしたものへと変えてくれるでしょうか。
そんな想いにとらわれ、不確かなものに頼って何もせずにいる自分が更に腹立たしくて、苦々しく唇を噛んだ瞬間――何かが耳を掠めました。
「……!」
はっとして顔を上げ、首を振り回すようにして辺りを窺い、視界の内に現れたものに目を疑いました。
「ディー!!」
もうずっと長い間家から出るどころか、部屋からさえほとんど足を向けなかった妹が、凄まじい勢いで走っていました。
痩せてしまった体を叱咤し、何かに焦っているような様は、尋常のこととも思えません。
「お兄ちゃん!」
呼ぶ声に顔を向けたディーが叫びます。泣き疲れて掠れてしまっていましたが、久しぶりに聞く妹の力強い声でした。
「ヴィーラがっ、ヴィーラが呼んだの! 行かなきゃ!」
『ヴィタさん』
夏に移り始めた風が、懐かしい響きを運んできました。ヴィタは自分で顔色が変わるのを感じ、大切な仕事道具も放り出して妹に続きました。
あそこだと直感が示したのは、彼女と初めて出会った場所です。どこか抜けた天使が誤って落ちてしまった、あの頃はまだ雪深かった林の中です。
記憶の場所へと全力で走りました。けれど、肩で息をしながらようやく辿り着いたそこは、春の日差しを受けて伸びた雑草があるばかりです。
探し求めた微笑みはどこにもありません。
「ヴィーラ、どこ!? ねぇ、来たよ! もう絶対に手放さないから、罰だって何だって受けるから、だから、お願いだよ……!」
最後の方は土で汚れるのも鋭い葉で切れるのも構わず、髪を振り乱して崩れ落ちました。
たった一度の、けれど少女にはあまりに重い罪を許されたくて、でも許しを与えられる唯一の相手はいなくて、泣く事しかできません。
空耳だったのでしょうか。思い続け過ぎて、幻聴でも聞こえたと?
ヴィタは、目の前で狂ったように雑草を引きちぎっている妹を見て、激しい怒りがわきあがってくるのを感じました。
「神様なんて嘘っぱちだ! 俺達をこんなにして……天使が『いる』っていくら言っても、俺は認めない! 絶対認めないからな!!」
子どものように地団駄を踏みながら、天に向かって吠えます。叫び終わったあとも、しばらく空を睨み付けていました。
――何かが、閃きました。
「……え」
気の抜けた呟きに、ディーもはっとして立ち上がります。
「雪?」
いえ、雪ではありません。白くて、もっと柔らかいものです。そっと手を出し出すと、狙い澄ましたようにそれは降りてきました。
「羽根だ……」
指で摘んで眺めてみます。見とれるほどの、何ものにも染まらない純白の羽根。こんなに美しい翼を持つ鳥は、この森には棲んでいないはずだと木こりは思いました。
『ヴィタさん、ディーさん』
「ヴィーラなの!?」
今度こそ聞き間違いではありません。はっきりとした声が手にした羽根から聞こえてきます。記憶にあるものと同じで、優しく語りかけるような話し方でした。
「ごめん、ごめんね……。私があんなことしたばっかりに」
もう何度となく繰り返したであろう謝罪をディーが呟くと、声は「そんなにご自分を責めないで」と言いました。
『ディーさんは何も悪いことなんてしていないのですから』
「したよ! だって、だって」
ずっと秘密を守っていれば、今でもみんなで楽しく暮らしていられたはずです。あんな恐ろしい事件に遭う事も、突然の別れも経験せずに済んだでしょう。
『謝らなければならないのは私の方です。私がいたばかりに、お二人を巻き込んでしまいました』
そのセリフが、まるで出会わなければ良かったと断じているふうに聞こえて、ヴィタは羽根を強く握りしめる。
「何言ってるんだよ。うちにいろって言ったのは俺だ。お前は身勝手な人間の我が儘を受け入れて、一緒にいてくれたんじゃないか」
忽然と消えてしまってから、引き留めるべきではなかったのかもしれないと何度思ったか知れません。
「またみんなで暮らそうよ。ヴィーラの持ち物、あのまんまなんだよ、ね?」
カップを始め、何一つ処分していません。捨てられるわけがありませんでした。埃を被らないように綺麗に保ちながら、いつか戻ってくることを信じていました。
『ありがとうございます。そのお気持ちだけで、私は幸せです。……きちんとお別れが出来てよかった』
言いたいことが山ほどあるように聞こえました。謝罪や説明やお礼といった全てを飲み込んで、泣きそうな顔で笑っているみたいな響きです。
「っ、行かないで!」
淡い光が力を失うように、羽根から「何か」が消えていくのを感じました。繋がりが薄く細く切れていくのが手のひらから伝わります。
『お二人は私にとって大切な……家族です』
それを最後に、ヴィーラの声も気配も永遠に途切れました。しばらくは胸が詰まってしまい、呼吸がうまくできませんでした。
◇◇◇
「お前は、それで良かったのか?」
不安げに見上げてくる瞳に、ヴィーラは微笑みかけました。ベッドに横たわっていた少女――ネディエが、海の色をした髪を揺らして起き上がります。
傍に腰掛けて視線を交わす二人の間には一本の蝋燭の灯りがあるだけで、周囲には闇が広がっていました。
「はい。お二人を助けることが出来たのですから」
優しげな表情で囁く言葉に、ネディエがゆるゆると首を振って「本当は」と続けました。
「本当はもっと――」
先を告げようとする唇を、天使が白い指先でそっと触れて制します。
「もうずっと昔のことです」
目が冴えて眠れないという主のために天使が語って聞かせたのは、まだ幼かった頃の記憶でした。
「……眠りをかえって妨げてしまいましたね」
少女は首を振り、「お前が」と呟きかけて飲み込みました。
いつも優しく微笑んで傍らにありつづける彼女が過去を話すのは珍しく、続きを言えばもう二度とこんな機会は得られないように思えました。
「その兄妹とはそれきりなのか?」
代わりに訊ねた問いに美しい細面は微笑みを濃くし、「信じていますから」と返します。
ヴィーラは闇へ一瞬視線を移して遠くを見詰める仕草をして、それからおもむろに振り返りました。吹っ切れたような、清々しい表情でした。
終
お読みくださってありがとうございました。




