閑話4 雪空のおとしもの(3)
「ほら、こうすると……」
「あっ、染みが消えた! すごーい! よかったぁ~」
ヴィーラが服の染みをまるで魔法みたいに消してしまったのを見て、ディーが歓声を上げました。
家の裏に木のタライを並べて、一心に洗濯物と格闘する小さな背中が二つ。シャツにシーツ、白いものがさらに白い泡にまみれて、溢れんばかりに膨らんでいます。
未だ雪がとける季節には早かったけれど、ディーにとってその光景は春の訪れにも似ていました。
山から流れてくる川の水が指先を痺れさせるほどに冷たくても、誰かが隣にいてくれることがこんなに暖かいものなのだと、気づきました。
「これが終わったら次は掃除に取りかかりましょう」
「うん!」
一人では気重だった家事も二人でやると楽しく、あっという間に終わってしまいます。
それというのも、ヴィーラの腕前が料理だけに留まらず、掃除や洗濯においても発揮されたおかげです。
どの作業にだって体力や知識が必要であり、彼女はその両方を持ち合わせていました。はたきで棚の埃を落としながら、ディーがしみじみと言います。
「ヴィーラってほんと凄いよね。見た目はいかにも儚げって感じで、風に吹かれたら折れちゃいそうなのに、重いものも軽々と持ち上げちゃうし、色んなこと知ってるしさ」
お母さんみたい。そう思ったけれど、同い年くらいの女の子に言うのはいけない気がして、心の中だけで呟きます。ヴィーラは箒を動かす手を止めて微笑みました。
「自分の身を守り、そしていつかは使命を果たすために授けられた力ですから、そんなに凄いものではありませんよ」
「ふうん」
返事をしつつも、幼いディーにはピンときません。彼女の言う「使命」についても想像するだけで追求はしませんでした。
あまり深く訊ねて困らせたくはありませんでしたし、聞くことで新しい家族を失ってしまいそうな気がして怖かったのです。
ヴィタも、当初はハラハラしながら様子を窺っていたのが、生活がスムーズに回り始め、妹の屈託のない笑顔を見るにつけ、口元が綻ぶ回数が次第に増えていきました。
「こらっ、いつまで起きてるんだ。早く寝ろ!」
「だってお喋りするの楽しいんだもん。まだいいでしょー」
「ロウソクだってタダじゃないんだぞ!」
「えー」
夜にやり合うこんな喧嘩も、傍らで笑うヴィーラがいるだけで空気が和らぎます。
そのうちに雪深い季節が過ぎ、鳥の声や冬眠から目覚めた動物たちの足音がするようになり、台所の食器棚にヴィタが作った丸みのあるカップが並ぶ頃。
――この秘密めいていて幸せなひとときは、唐突に軋みを上げました。
「やっ、やめてくださいっ」
聞こえた悲鳴に、ヴィタははっとして外へ目を走らせました。視線の先にあるのは、家の脇、以前は何もなかった空間です。
今は春が訪れる少し前に妹達が手入れをし始めた、ささやかな花壇がある方向でした。
つい昨日も、そろそろ気の早い花から咲きそうだと、楽しみに囁きあっていました。
「お兄ちゃん!」
自室にいたディーも耳にしたらしく飛び出してきます。ただごとではない気配にヴィタは妹へ注意を促し、外へ向かいました。
「大人しくしろ! 騒がなけりゃ、痛い目に遭わずに済むぜ」
目にしたのは信じられない光景でした。今にも咲こうとしていた花は踏み荒らされて、水の零れた器が転がっています。
その上で繰り広げられているのは、少女を掴まえようとする二人の男共の姿でした。どちらも日に焼けた黒い肌をして、目にはどう猛な光を宿しています。
「ヴィーラ!!」
おそるおそる後ろに続いたディーが、のどに痛みが走るほどに叫びました。家の中に隠れているように言ったのですが、やはり我慢しきれなかったようです。
「お前ら何なんだ、小さな女の子を二人がかりでよってたかって……放せよっ」
セリフが終わる前には拳を握りしめて大地を蹴っていました。
「邪魔するな!」
「うわっ」
ですが、手慣れているのか男の一人がヴィタの攻撃をかわして突き飛ばします。
よろけながらも怯まず再度立ち向かおうとした彼は、ヴィーラを押さえた男の言葉に耳を疑いました。
「おい、本物だ。こりゃあ儲かるぜ。これまでのガキ共とは段違いにな」
脳裏を巡るのは、賊が人さらいであることだけではありません。まさかという思いが過ぎります。後ろでディーが息を飲む気配を感じました。
「い、いやっ」
「ふん、あんまり暴れるとせっかくのキレイな顔に傷がついちまうだろ」
言って男が取り出したのは、ひやりと冷たく閃くナイフと紙切れでした。
刃物に一瞬ヴィーラが身を固くしたのを見逃さず、その紙切れを額にぺたりと貼ると――少女の体がビクリと震えました。
「あ……」
抵抗していた体からゆるゆると力が抜け、敵を睨み付けていた瞳から怒気が失せていきます。
「ヴィーラに何をしたんだ!」
「この札は優れ物でな。この嬢ちゃんの変な力を封じてくれるのさ」
満足そうに笑み、軽々と担ぎ上げた男が得意そうに喋りました。
疑いが確信に変わります。何故かは不明ですが、人さらい達はヴィーラの正体を知っていて掴まえに来たのです。それも、対策まで用意して、こんな森の奧にまで。
「……」
慌てていて何も持ってこなかったのが悔やまれます。子ども二人では到底叶いそうにない相手です。それでも少しでも時間を稼ごうと強く睨み付けました。
「どうするつもりだ」
「へっ、さっきも言ったろ、儲かるってな。競りに出すなんてまだるっこしい真似しなくても、金持ちに持ちかけりゃあ簡単に大金が手に入るだろうぜ」
お前らが見た事ないくらいのな、とにやけた笑いで付け足します。
顔を隠すこともせず、ぺらぺらと喋ることから、もしかしたら口封じするつもりなのかもしれないと、ヴィタは唇を噛みました。じっとりと汗が滲みます。
混乱の中にありながら、一体どこから知れたのかを必死に考えていました。
ヴィーラはほとんど家にいて、近くの村へ買い物に出る以外は家事やディーの相手をしていたはずです。
「案外、簡単だったじゃないか」
別の方向から聞こえてきたのは、露出の激しい格好の女が発した、粘着質のある声でした。木の間から現れ、けばけばしい化粧を施した顔を笑みの形に歪めています。
あっ、とディーが口から声を漏らします。見覚えのあるものに出会った時の反応です。
「知ってるやつなのか?」
背中越しに確かめるも、妹の耳には届いていないようで、「あなたは」と呟くばかり。その呟きも心なしか震えているみたいでした。
しゃなり、と女が身に付けたネックレスや腕輪が鳴ります。外見も浮かべた表情も、まともな生活を送る者とは到底思えない雰囲気が漂っていました。
口紅を厚く塗った唇から、愉悦を含んだ笑いが零れます。
「お嬢ちゃん、良かったねぇ。これで安心できるだろう?」
「……っ!」
ヴィタが咄嗟に振り返ります。ディーの顔は青ざめており、何かを知っているのは明らかです。
肩を掴んで「おい、どういうことだよ」と問いただすと、少女の瞳にみるみる涙が溢れました。
「ちがう……。違うの」
「おや、何が違うんだい? お嬢ちゃんが教えてくれたんじゃないか」
びくり。ディーの体が一瞬ひどく震え、恐ろしいことに怯える小さな子どものようにいやいやと首を振りました。
「どういうことだって聞いてるんだ!」
兄が怒鳴ると、溜まりに溜まっていた雫が決壊し、滝のように頬を伝い落ちていきます。とても何かを話せる状態ではなく、ヴィタは矛先を女へと向けました。
「お前、ディーに何吹き込んだ!?」
今はぐったりとして男に体を預けているヴィーラを、しげしげと見詰めて品定めをしていた女が、いかにも楽しげに笑います。
遊びがいのある玩具を手に入れたかのようでした。
「一人で買い物にきていたから、ちょっと声をかけただけさ。悩み事はないかいってね」




