閑話4 雪空のおとしもの(2)
一息付くと、ようやくヴィタはこれまで目を背けてきた問題に向き合う覚悟を決めました。
「それで、さっきの話だけど」
「さっきの……あぁ、私が落ちてきた理由ですね」
出された湯を小さな両手で包み込むようにして飲んでいたヴィーラが、にこりと微笑みます。その笑顔にはこんな山奥に住むものにはない上品さが漂っていました。
ディーは先程から目を輝かせて可愛らしい客人を眺めています。色々と聞きたいのを兄に視線で牽制され、必死に堪えているようです。
「お話した通りです。私は上から来ました。その、ちょっと着地を誤って、空から降ることになってしまって」
「だから、そんな話、信じられるわけがないだろ」
もう何度も同じ押し問答を繰り返した気分になります。理解できない事を主張されると、年下の子ども相手でもさすがにイライラしてくるというものです。
だから、少し困らせてやろうと思っただけでした。
「空でも飛べるっていうのかよ。証拠は?」
自分でも意地悪なセリフだとヴィタは感じていました。きっと彼女は本当のことが言えない事情があって、こんな作り話をしているのだと。
「証拠……」
予想通り、ヴィーラは逡巡を見せました。
「もう、お兄ちゃん! この子困ってるみたいだよ。聞いちゃ悪いよ」
「……そうだな」
別に、自分より幼い女の子を虐めたいわけではありません。ヴィーラのおろおろした様子に罪悪感を覚えた彼は妹に同意し、話題を逸らそうとしました。ところが、
「証拠ならあります。今、お見せします」
意を決したように立ち上がった少女は、深呼吸して両手を軽く開きました。
家の中に光が生まれたのかと思いました。眩しさを感じたはずなのに、数秒の間、瞬きを忘れていました。
「う、うそー!」
ディーの甲高い声がヴィタを現実に引き戻します。反応を示した分、妹の方が冷静なのかもしれないと思いました。
「それ、ほ……本物か?」
吸い寄せられるように、おそるおそる手を伸ばします。指先はヴィーラの髪を擦り抜け、「それ」に触れました。
ふわっとした感触。何にも染められていない白さ。なにより確かな温もりのある――翼。少女の背には一対の美しい羽が生えていました。
軽く掴むと、ヴィーラがぴくりと震えます。痛いのかかゆいのかは分かりませんが、確かに触れられたのを感じているのです。
「すごいすごい! ねぇ、もしかして天使さまなの!?」
ヴィタはその言葉に弾かれるようにして手を放しました。
「天使……」
白い肌に水面色の髪と瞳。改めてヴィーラをまじまじと見詰めると、雪の中で観察したはずの容姿が、とても希有なものに映りました。
しばらくの間、静けさが漂います。まるで家の中の音を雪が全て吸収してしまったかのようです。
「行くところはあるのか?」
やがてヴィタの口から零れたのは、そんなセリフでした。
羽の生えた少女の正体が「天使」だろうと鳥か何かの化身だろうと、いずれにしても人の目を引くことに変わりはありません。
そして、両親を失ってから妹とたった二人だけで生きてきた彼は、世の中の暗い部分をよく知っていました。
たとえば珍しい生き物を捕まえて見せ物に、あるいは研究と称して酷い扱いをする輩達です。
たとえヴィーラが「人でない」ことをひた隠しにしても、親の庇護のない子どもというだけでさらう人間だっています。
目の前の幼い少女が男達に蹂躙される様を想像して、ヴィタは顔をしかめました。
「地上を生きる者たちを知るよう、私は遣わされました。そのみ言葉に従い、色々なところを巡ってみようと思っています」
言って微笑みます。雪の下から懸命に芽を出して咲く小さな花のように、可愛らしく儚い笑顔でした。
「えーっ、ひとりで?」
ディーが上げた驚きの声に、なんとも呑気な話だと同調します。仮に遣わしたのが「神様」なら、とんでもないと彼は思いました。
まだ自分でエサもとれない鳥のヒナを、獣の群れに落とすような行為です。
「つまり、あてはないんだな」
のほほんと言ってのけるヴィーラにいよいよ腹が立って、その肩を掴んで揺すりました。
「わっ、ど、どうしたんですか?」
大人になりきっていない自分の手でさえ容易く押されているのに、どうやって己を脅かす者の手から逃れられるというのでしょうか。
ヴィタは厳しい声音で一気に吐き出します。
「お前みたいな奴が生きていけるほど、世の中甘くねーんだよ!」
『お兄ちゃん……あの子が……』
耳元にこびりついていた泣き声が、質感を伴って脳裏に蘇ります。
人さらいは遠くの町から聞こえてくる噂話ではありませんでした。実際、すぐ近くの木材を売りに行く村でだって起きていたのです。
『あの子が、いなくなったって……』
「そうだよ。あぶないよ!」
ヴィタがはっとして妹を見遣ると、彼女も必死に止めようと声を張っていました。
外に出て遊びたいとウズウズしているにも関わらず、兄が出掛けている間は言いつけを守ってじっと家にこもっているディー。
その理由が激しく胸に去来しているのを、表情が物語っています。
『じゃあね、バイバイ』
『また明日ね』
近くの村の「犠牲者」は、彼女の大切な友達でした。
「あの子は悪いやつに連れていかれちゃった。ヴィーラも……そんなの絶対に駄目!」
昨日まで仲良く遊んでいたのに、翌日にはもういませんでした。探し回る村の大人達の焦りと怒声、なにより親の泣き崩れる姿が記憶に未だ生々しく刻まれています。
あんな虚ろな思いは二度としたくありません。
「ウチにいろよ」
「えっ?」
突然の申し出にきょとんとするヴィーラに、なおも続けます。
「要するに人間観察? ……に来たんだろ。だったらウチにいて、俺とディーを見ていればいいじゃないか」
いくら心配で同情したとしても、出会ってまだ数時間と経っていない少女に、どうしてここまで心を砕いてしまうのか、ヴィタ自身にも分かりませんでした。
もしかすると、妹の友達がいなくなって間がなく、ここでヴィーラを放り出せば妹の心に更に傷を負わせることになるからかもしれません。
ただ、彼もこのまま「それじゃあ」と言って手をはなすことなど出来ないのだけは事実でした。
ヴィーラは本当に驚きましたが、気持ちが嬉しくて好意を素直に受けることにしました。それに、二人と一緒にいれば何かが見付かるような気もしたのです。
小さな家には新しい家族を受け入れるべき部屋はありませんでした。
ですからヴィーラはディーのベッドで共に眠り、ヴィタのカップを使い、そうして兄妹の持ち物を少しずつ借りながらの生活を始めました。
「うわっ、なんだこれ」
一緒に暮らすと決めた翌日の朝、ヴィタがトトトという小刻みに鳴る音に誘われて台所を訪れると、美味しそうな匂いに満ちていました。
彼の驚きに気づき、ヴィーラがにこりと微笑みます。ディーから借りたエプロンを身につけ、ちょうどカップを棚から出しているところでした。
「あ、おはようございます。朝食を作ってみました」
テーブルに並んでいるのは焼いたパンと豆のスープ、そしてドレッシングがかかったサラダ。
どれも質素な具材ばかりですが、親を失って以来食べるだけで精一杯だったヴィタには、まるでお店で出されるもののように輝いて見えました。
「お前、料理が出来るんだな」
目の前の少女が普通ではないと頭で分かってはいても、ヴィタは驚かずにはいられません。
「出来る、なんてほどのものではありません。それより、冷めてしまう前にディーさんを起こしてきて頂けますか?」
「あ、あぁ……」
むろん、ディーが大喜びしたのは言うまでもないことです。
「すっごーい! これ、ヴィーラが作ったの? うん、おいしー!」
「おい、そんなに急いで食べるとのどに詰まらせるぞ」
「へーきへーき。こんなに美味しいんだから、ヴィーラも食べられたら良かったのにね」
わきあいあいと食べる兄妹を微笑ましげに見詰めるヴィーラの手元には、今日もお湯が入ったカップが一つ。
その小さな両手からどんなに美味しい料理を生み出しても、「人でない」彼女が口にすることはありません。食べる必要も意味もないからです。
それを知った時、二人は疑う眼差しを向けましが、たしかに昨晩から何も口にしていないにも関わらず、空腹を感じている素振りはありませんでした。
「喜んでもらえただけで十分です」
ひとしきり食事を楽しんだあとは、仕事に出掛けようとするヴィタに弁当を渡すことも忘れません。
「行ってらっしゃい。お気を付けて」
二人の日常は、こうして少しずつ、そして明らかに変わっていきました。
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