閑話4 雪空のおとしもの(1)
ヴィーラが語る幼かった頃の昔話。やや長めのお話になります。
人里離れた森の奧で、カーンカーンと規則正しく響く音があります。まだ大人になりきれていない両腕が精一杯振るわれるたびに鳴る、斧が木の太い幹に突き刺さる音です。
「……はぁ」
何度か同じ作業を繰り返してから、少年は斧を大地に放って、肩に垂らした布で顔に滴る汗を拭いました。
春には遠く、日が昇りきる時間になっても木々には昨晩降った雪が残るほどの気温ですが、厚く着込んだ彼の体は身丈にそぐわぬ重労働で熱を宿していました。
邪魔になる髪を縛る紐が緩んでいないか確かめていると、彼はふと、一人きりで家に残してきた妹のことが脳裏に過ぎりました。
「あいつ、家で大人しくしてるかな」
元来活発で、じっとしている性質ではありません。留守番していろよと言っても、すぐに遊びに出掛けたりするような子なのです。
でも、この地方の冬は駆け出したい気持ちに駆られても我慢しなければなりません。不用意に外に出れば容易く自然に命を攫われてしまうからです。
家にいるにしても、暖炉の薪は足りているだろうか、火は消えていないか。そんなことが気にかかります。
いつも妹には「心配性だ」と評されますが、森での生活では心配し過ぎることなどないのです。
そう、幾重にも考えこんでいる時でした。どすん! 何かが激しく地面を叩き付けたような衝撃が耳に届きました。
「な、何だ……?」
怪訝に思い、さっと周囲に視線を走らせるも、白い世界に目に見える変化はありません。雪上を走る獣の気配とも違います。
ならば人でしょうか? かなりの重みが生じさせる音でしたが、森の奧に用事がある人間といえば、木こりか狩りをする者くらいです。
「行ってみるか」
仕事場で起きたことを知らぬ存ぜぬで通せば後で困ることになるかもしれないと、少年は恐る恐る音が聞こえたらしき方向へと近付きました。
見つけた「それ」は雪の中で白く溶け込むようでした。ただ、けほけほと咳き込む度に肩が震えるから、かろうじて周囲と見分けが付きました。
透けるような白い肌と、ここらでは見た事のない水の色を宿した髪――十にも満たないほどの少女です。
「あっ」
沈み込んだ足音でこちらに気づいた女の子が、小さく驚きの声を上げます。髪と同じ澄んだ色の瞳は、やや年上の少年を水面のようにくっきりと映し出しています。
ひどくまっすぐで、心の奥まで見通しそうな視線でした。彼が突然の、しかも常識的にはありえない出会いに動揺していると、女の子の唇から言葉が零れました。
「あの、どちらさまですか?」
「……こっちが聞きたいんだけど」
緊張感を一瞬で失わせる、拍子抜けするような声に少年は肩の力を落とします。大きな目でじろじろと観察するみたいに眺め回されて、彼は居心地の悪さから苛立ちを覚えました。
相手が子どもでなければ、「何見てるんだよ」とでも悪態をついているところです。
一息付き、「こういう時は自分から名乗るものだろ」と告げると、少女はしどろもどろと所在なげな様子を見せました。
半ばからかいの気持ちから出た言葉でしたが、ちょっと虐めすぎでしょうか。そう思っていたら、相手はぺこりと頭を下げて謝罪してきました。
「すみません。あまりこちらのこと、知らなくて」
こちら、とはどういう意味でしょう。この地方、あるいは近隣の村を指しているのかもしれないと思いました。
「なぁ、どこから来たんだ? そんな薄着で雪山に入ってくるなんて、……もしかして死のうとしてたとか?」
喋りながら浮かんだ想像にぞっとしました。切実にやめて欲しいところです。
身を切るほどの寒さが襲うこの一帯で事切れようものなら、体は春までは氷付き、それまでの長い間土に還ることもなく……。
少女は慌てて「違います」と否定し、代わりにとんでもないことを言い始めました。
「私、落ちてきたんです。上から」
「……良くこの状況で冗談が言えるな」
確かに何かが落ちたような衝撃と音ではありました。だからと言って、どうやって「落ちる」ことが出来るのというのでしょうか。
「冗談なんかじゃありません。本当なんです」
「どこの世界に、空から降ってきたなんて話を信じるやつがいるんだよ!」
まだ折れないのか、よほどの意地っ張りだと彼は思いました。
「いえ、もっと上です」
「あのな……」
今度こそ、心底呆れてしまいました。何を言っているのかさっぱり理解できません。
けれど、少女は真剣な様子で立ち上がります。その眼差しには妙な気概がこもっているような気がしました。
「あー、ちょっと話を戻そう。俺はヴィタ。あんたは?」
ヴィタと名乗った少年は、刃を下にして立てた斧に寄りかかった姿勢で訊ねました。
女の子の荒唐無稽な発言に疲れを感じ、こうでもしないと直立していられそうになかったからです。
「あっ、はい、ヴィーラと申します」
似た名前だなと思うと同時に、口調に違和感を覚えました。ヴィーラがワンピースの裾を払って立ち上がると、最初の印象通り、胸の辺りまでしか背丈がありませんでした。
「こんなところで話すのもなんだから、ウチに来いよ」
「えっ?」
目を丸くするヴィーラに、さっと背を向け、説明するのも面倒臭そうに呟きます。突き立てた斧を肩に担ぎ、ちらりと視線をやりました。
「死にたがりじゃなくても、その格好じゃ寒さに耐えられないだろ。俺の仕事場で死なれたら迷惑なんだよ」
ヴィーラと名乗った少女はぶっきらぼうな言い方の中に優しさを感じ取ったようで、くすりと笑いました。
「可愛いおうちですね」
案内した先は、ぽっかりと開けた空間に立つ小さな木造の一軒家でした。丁寧な作りが、暖かみを感じさせます。
傍らには更に一回り小さな小屋があり、不思議そうに眺めている彼女にヴィタが木材の保管庫だと教えました。
「小さいだろ。もともと、木こりだった父さんと母さんが二人暮らしをしていた時に立てた家らしいから。今も俺と妹だけだしな」
「妹さんがいるんですね、仲良くなれるでしょうか」
そう呟く姿は年相応の女の子に見えて、ヴィタはほんの僅か安心しました。
「ただいまー」
扉を開くと、温もりが優しく頬を撫でました。それだけ寒い場所にいたのだと改めて思い知ります。
「おかえり~」
奧からパタパタと音を立ててヴィーラと同じくらいの少女が現れました。雪国に住む者ならでは白い肌と、それに似合わぬ勝ち気そうな瞳をしています。
兄の後ろから入ってくる相手を見て、その大きな目をぱちくりと瞬かせました。
「あれ、お客さん?」
「お、お邪魔します」
緊張した面持ちで挨拶する横で、ヴィタが溜め息を付き、「ちゃんと家にいたか」と漏らしました。
「ちゃんといましたぁ」
きちんと言いつけは守りましたとばかりに妹は一度頬を膨らませてから、すぐに興味津々の表情に戻りました。退屈を持て余していたのが手に取るように感じられます。
「それより、この子どうしたの?」
「木を切ってたら空から降ってきた」
まだ片付いていない問題を早速出されて、ヴィタはぶっきらぼうにありのままを吐き出しました。
「もう、真面目に聞いてるのに」
唇を尖らせて文句を言うも、こればかりは仕方がありません。自分のせいで兄妹喧嘩が始まりそうだと気づいたヴィーラが、前に出て体を二つに折りました。
「はじめまして! ヴィーラと申します」
同い年くらいだと思っていた女の子に礼儀正しい挨拶をされ、ヴィタの妹は再び目をぱちくりさせます。
両親がいなくなってからはずっと兄との二人暮らしで、こんな「育ちの良い」相手は初めてだったのです。
「え……と、あたしはディー」
ヴィーラはにっこり笑ってディーの手を取りました。柔らかく、ほんのりと温もりのある手でした。
「ディーさん、どうかお兄さんを責めないでください。本当のことですから」
「……?」
玄関で立ち話もなんだからと、兄妹は薪がパチパチと爆ぜる暖炉のある部屋へと客人を案内しました。
細長いテーブルには椅子が四つ備えられていて、かつては四人で楽しく会話を交わし、食事をしていたのだろうと察せられます。
「ディー、何か飲み物を頼むよ」
「はーい」
椅子の一つに立てかけられていたエプロンを羽織り、ディーがふと足を止めます。
「お客さんは何がいい? お茶? コーヒー?」
「では、お水を頂けますか?」
『えっ』
まさかこの寒い中、冷たいものを所望されるとは予想しておらず、二人は驚きの声を重ね、顔を見合わせました。
それから思わず窓の外に視線を走らせますが、雪が溶けきるほどの熱さえ外には満ちていません。
「……湯じゃ駄目か」
詳しい話は一息付いてからと決めていたので、深く問い詰めはしませんでした。しかし、目の前で冷え切った水を飲まれるのは気持ちの良い光景でもありません。
「あ、はい」
自然と兄妹の口から安堵の息が零れました。




