閑話3 鏡の中のともだち
3話目は第一話終了後のネディエのお話です。
「……懐かしいな」
巨大な塔の中の、どこまでも続くように思える階段。その踊り場に一枚の鏡がありました。大人でも全身が優に映せる代物です。
ネディエは久しぶりにその前に立って、かけられていた布を払いました。幼かった頃、彼女はその鏡が好きでした。
恭しく行き過ぎる使用人達や、構ってくれる時間のあまり無かった母親や叔母の傍で感じる疎外感も、鏡を通して見れば和らぐ気がしたからです。
全てが遠く、どこか自分とは関係のない世界の出来事に思えました。
けれど、ただ覗き込んで奧を眺めるばかりで、湖面のような鏡の表面に触れたことはありませんでした。あの時までは……。
◇◇◇
幼いネディエはその日も、鏡の前でぼんやりと座り込んでいました。長い時間をかけて踏まれ、黒ずんだ床に視線を落とし、目を閉じます。
「……?」
耳の横を擦り抜けたのは風だったのでしょうか。この塔には様々な工夫が施されていて、穴がなくても不思議と息苦しくなることも暗く感じることもありません。
だから、今回も外から風が吹き込んできたのだと思ったのです。塔はあちこち探検しましたが、きっとまだ知らない場所があるに違いないのだと。
「こっちだよ」
甲高い子どもの声にびくりと肩が弾み、全身に戦慄が駆け抜けました。
ずっと小さかった頃から身を守る術を自ら望んで学んできたネディエは、その頃にはすでに周囲の気配を常に探れる程度にはなっていました。
今の今まで、誰も近くにはいなかったはずです。
「だれだ……?」
絞り出すように尋ね、思いきって振り返りました。――誰もいません。
「こっちだよ」
その瞬間、目が一点に釘付けになりました。鏡の中で、自分とよく似た少年が微笑んでいたのです。
「僕は君だよ」
「ちがう。わたしは……わたしだ」
彼は何なのでしょう? 自分よりも明るい髪と瞳、余裕のある口振り。けれど、外見はまさしく合わせ鏡のように似ていて、まるで双子の兄弟に出会ったみたいでした。
「僕と君とは同じものだよ」
にっこりと少年が笑います。その笑顔を見ていたら、不思議と一人で腹を立てているのが恥ずかしくなってきました。ネディエもまだ幼かったのです。
「友達になろうよ」
「えっ」
「嫌?」
鏡の中からこちらに手を伸ばしている彼が「ね?」と念を押してきます。少女は首を千切れそうな勢いで振りました。
友達。居場所のない想いをしていた彼女の初めての友達は、鏡の中の少年だったのです。
それからは、前にも増して足繁く鏡の元へ通いました。少年は鏡の中に住んでいて、こちら側には来られないようだったからです。
塔にはいくつも鏡がありましたが、他の誰にも邪魔をされず、且つお互いの姿が大きく映るのはこの一枚しかありませんでした。
勉強や稽古ごとの合間を縫い、来ては座り込んでたわいない話をしたり、壁越しでも出来る遊びをしたり。
彼は、他の誰かみたいに無表情で通り過ぎたりしません。与えてくれる充足感は、一人ぼっちでは決して味わえない感覚でした。
「そっちへ連れて行って」
仲良くすればするほど鏡という冷たい壁への鬱積がたまっていったネディエは、知り合ってしばらく経った頃、その願いを口にしました。
少年は苦笑して、首を横に振ります。その頬に赤く腫れた箇所を見止めて、はっとして自分の頬に触れます。
そこには同じものがありました。いけないことをして、母親にはたかれたばかりだったのです。
「僕にはそんな力はないし、たとえこちら側に来られても、そこに僕はいないよ」
「どういう意味?」
「僕はどこまで行っても君でしかないからね」
幼かった彼女は、答えを貰った気持ちにはなりませんでした。穏やかに笑う友人は、こちらが何か言おうとしたのを遮って続けます。
「君が傷つけば、僕も傷つくし、ね」
かっと熱くなったのは胸だったのか顔だったのか。とにかく唐突に母親が許せなくなってしまいました。
悪いことをした自分だけではなく、友達まで傷つけたことに腹が立ったのです。
――誰にも手出しさせない。
「やめて! それはいけないものだよ!」
子どもの中で色濃くなっていく感情を前にして、少年が鏡を叩きました。
「うるさい!」
ピシッ。音を立てたのは頭の中と外……鏡の端でした。我に返った時にはすでに遅く、彼女は縦に走ったひび割れを目で追いました。
最後に見えたのは、消えていく友人の暗い眼差しでした。
「君の……が好きだったのに」
名も知らぬ友達は、そのまま闇に溶けていきました。
◇◇◇
「あんなに泣き喚いたのは、結局あの時だけだったか」
つるりとした表面に、目立つ傷はありません。
割れてしまった鏡を前にして、わんわん泣いている娘を見付けのは母親でした。砕けた破片を他の者に片付けさせ、涙が止まらない子どもを抱え上げて言います。
『この鏡は、塔の守りの一つ。早く新しいものと取り替えて頂戴』
まるで頭を殴られたみたいな衝撃を感じたのを覚えています。今度こそ本当に繋がりが途絶えてしまう気がして、やめてと何度叫んだでしょうか。
しかし、子どもの言うことなど誰が聞き入れるものでもありません。当然、鏡は翌日には取り替えられてしまいました。
それが今、目の前にある全身鏡であり、ネディエにとっては友人の慰霊碑でした。
「自分の命と引き替えに、私を止めてくれたのか……?」
今なら分かります。あれは己が生み出した存在だったのだと。誰にも相手にされないと逃げていた子どもが作り上げた、幻よりは確かな何かだと。
そこへ、後ろから靴音が響いてきました。この音にも最近聞き慣れてきたところです。
「マスター、こちらにいらしたんですね」
「ヴィーラ」
鏡越しに見るパートナーはほっとした表情を浮かべていて、「ルシアさんが探しておられましたよ」と言いました。
「あぁ、今行く」
本質的には、彼もヴィーラも似たものなのかもしれません。けれど、決して同じにはしないと誓ってもいました。布を再びかけ、黙祷を捧げるように目を閉じて祈ります。
『さようなら。今度こそ、消させたりしないから』
目を開くと、天使が優しく微笑んでいました。楽しいことでもあったようです。
その原因に思い当たったネディエは、軽く睨み付けましたが、ゆるむ唇までは抑えることが出来ませんでした。
「人の心の中を勝手に覗くんじゃない」
終




