第四話 緑色の石のゆびわ
残酷な場面があります。ご注意ください。
こんな状態では地上に降りて二人を探すわけにもいかず、目を皿のようにして黒い霧を見つめ続けました。
と、その中に一点、白がかすめます。白い指と、緑の石がはめられた指輪。間違いありません。
「ルアナさん! 助けなきゃ。エル、お願い!」
「でも、……わかったわ」
主を危険にさらす事態に迷いを見せたエルネアも、ミモルの必死さに頷き、急降下しました。接近すれば、余計にこの漆黒の気配の危うさが伝わってきて、肌がびりびりと痺れます。
自分を抱えるのとは反対の手でエルネアがルアナを引き上げました。これほど美しい外見をしておきながら、彼女の力は普通ではありませんでした。
「っ!」
ルアナの元より白い顔からは、更に血の気が引いて、今や青ざめています。四肢に力が入らないのか、ぐったりとした体を天使が驚くべき腕力で支えます。
助けられたルアナは、上空の清浄な空気を吸っていくらか元気を取り戻したのか、うっすら目蓋を開きます。
「うぅ。よかった、アンタは無事だったのね……。そっか、成功したんだ……」
そこまで言って、ごほごほとむせ返りました。
「ルアナさん!」
「ダリアは、あそこよ」
霧と呼ぶには具体的な質感を持ったモヤの発生点を指さし、言いました。これではっきりしました。確かにダリアが「これ」を引き起こしたのです。
「地の底との扉を、開いてしまったみたいね……。前に開いたのは、700年前、だったかしら」
時々息継ぎを挟みながら、ルアナは語ります。700年前のその時も、今と同じように二人の子どもが『儀式』を行い、これと全く同じ状況に陥ったという逸話を。
「ミモル、あんたは行きなさい」
「ルアナさん?」
事態を収める方法を知っているかというルアナの問いに、今度はエルネアがゆっくりと頷きました。それを頼もしげに見つめて、視線を娘に移します。
「……あたしはもう保たない。他の聖女に会って、助けてもらいなさい」
あのいつも気丈な義母とは思えない弱気な言い分に、ミモルは狼狽えました。
「もたない、ってなに? 大丈夫だよ。エルが助けてくれるよ。ね、そうでしょ?」
「……」
天使からは笑みが消えており、その顔は痛みに耐えるみように歪んでいます。
「まだダリアだってあの中にいるんだよ?」
大人のルアナがこれほど衰弱しているのです。まだ子どものダリアが無事でいるはずはありません。
「嫌だ。助けなきゃ」
その時、また、霧の中で閃くものがありました。真っ黒な中で、それははっきりと人の形に見えました。
「ダリアっ!」
「だめっ!」
反射的に飛び込もうとするミモルを、エルネアが強く引き寄せます。あまりに無茶な行為でした。落ちれば、待っているのは残酷な結末だけです。
「……行かせてよ」
「アンタを失うわけにはいかない」
きつく叱るルアナが、今度は静かに「あたしが行くから」とささやきます。
あっと思う前に、すでに体は腕から抜けていました。エルネアもミモルを引き留とるのに気を取られ、止める間もありませんでした。
ゆっくりと時を刻む秒針のように、細い体が霧に落ち、溶けていきます。声が聞こえました。
「最後の大仕事だねぇ。押さえ込むくらいしか出来ないってのが、悲しいところだけどさ」
閃光が辺り一帯を包みました。
「……っ!!」
叫びは声になりませんでした。喪失感が胸元からせり上がり、空気の出入り口に詰まっているみたいです。
目を焼かれそうな明るさに、高度を低く保っていたエルネアが危険を感じて舞い上がると、今度は強い突風にあおられます。
見下ろせば、光が収まってくるにつれて、黒いモヤが急速に収縮する様が見えました。まるで大地が呼吸でもしているかのようです。
「ここを離れましょう。私たちまで呑まれてしまうわ」
「……」
自分だけが生き残った現実に打ちひしがれて、ミモルの全身からは力が抜けきってしまっていました。
エルネアに抱えられてふわふわと空を漂いながら、モヤがどんどん一点へと吸い込まれていくのを、ぼんやりと眺めています。
落ちていく瞬間の、覚悟を決めた義母の顔が、瞳から、脳裏から離れません。
「……お願い。最後まで見ていたいの」
呟きはこの距離でなければ聞こえないほどに小さいものでしたが、エルネアは聞きとどめて「あなたがそう望むなら」と応えました。
二人はモヤが完全に消え去り、跡形もなくなるまでその場を動くことはありませんでした。
それから数日が経ちました。
「う、うう……」
ベッドの上でミモルは唇を震わせ、うめき声をもらしました。
また、あの忘れられない出来事を夢に見て、天涯孤独の身の上となったことを、薄い意識の中で思います。
涙が、緩んだ涙腺からじわじわと溢れてきます。
「……」
エルネアがそっと頭をなでました。
ミモルは、方策があるというエルネアの言葉に従い、北へ北へと導かれてきていました。今は小さな村を二つほど通りすぎて、やっと大きめの町までやってきたところです。
まだ太陽も高い時間でしたが、精神的に参っているミモルのために早めに休もうと、町の入り口に程近い小さな宿の一室を借りたのでした。
ミモルには、どうせ他に行くあてはありません。一人では生きていく術さえないのです。
そして、遠く離れてしまえば、時間が心を癒してくれるかもしれないと思いました。ずっとあの場に留まるより、目的を持って進む方が、気が紛れるかもしれないと……。
「南の村が一夜にして消えたんだとさ」
「それも一つじゃない。あちこち、連絡が付かないらしい」
けれども、現実は甘くありませんでした。
どこへ行っても聞こえてきました。あの出来事が、「噂」という形へと姿を変えて耳に飛び込んでくるのです。
宿屋は酒場や食事所をかねていることが多く、そういう場所を過ぎるたび、必ずといっていいほど――。
噂を流している人物は、風貌からして旅人なのでしょう。一様に薄暗いフードを被ったその人たちのせいで、ちっとも記憶が薄れることはありませんでした。




