第三十六話 とらわれの真実
前話に引き続き血の表現があります。苦手な方はご注意ください。
「私がエルを守ってるなんて、不思議だね」
蔦はどこまで行っても繋がっているらしく、ミモルが近寄ると避けていきます。エルネアを後ろに庇うようにして進み、二人はどんどん奧を目指しました。
「あそこから生えてきてるわ」
廃墟の向こうに陣取るそれは、巨大な一本の柱に見えます。柱と違っていたのは、方々へ枝を伸ばしている点です。
扇状に広がり、ただでさえ雲がかかって薄暗い世界に濃い影を作っています。
「大きな木……。でも、葉っぱが一枚もないね」
緑色に思われた表面は、縦横無尽に絡みついた蔦が青々をしていたに過ぎず、本体は枯れ果ててくすんだ茶色をしていました。
伸びた枝も同様で、蔦に生命力を全て吸い取られてしまったように見えます。
「これでは脱け殻ね」
「……あれ!」
木をじっと見つめていたミモルが叫んだのも無理はありませんでした。びっしり張り巡らされた蔦の奥に、剥がれかけた皮とは違う色を見たのです。
「マカラ……!?」
目線よりずっと上、そこにはほとんど全身が埋もれそうなほど、木と一体化してしまっている女性の姿がありました。
「でも、なんだか違うみたい」
黒い闇に染まっていた悪魔を思い出し、首を傾げます。今、二人の前で磔にされている者からは、あの禍々(まがまが)しさが感じられません。
エルネアが頭を振りました。
「何も感じられないわ。さっきの幻もそう。いつもなら、あんなものに惑わされたりしないのに」
それがこの世界に充満する穢れた空気のせいだと、二人とも気がついていました。
立って歩いているだけで賞賛に値する状況なのです。五感が鈍ってもおかしくはありません。こつ、という靴音がして、後ろから声がかけられました。
「あれが本当のマカラの姿だよ」
「ニズム! 無事だったの?」
「うん。結局巻き込んじゃったね」
銀髪の青年は呟き、色の薄い瞳で天使を見上げます。近付こうか迷っているミモルに、彼は心から済まなさげに頭を下げました。
「最初から、こうするつもりだったのね?」
「相変わらずエルネアは勘がいいな」
マカラに味方し、協力する姿勢を見せて、内心では地の底へ来るつもりでいたのでしょう。謝罪には二人を欺いた件も入っていました。
言って苦笑されると、指摘したエルネアの方が、はっとしてしまいます。
「あなたは、最初から私を知っていたのね」
「知ってた。記憶がないこともね」
記憶もなく、疑問さえ抱かずに新しい少女に尽くす天使を目の当たりにして、決意を新たにしたのだとニズムは言いました。
「それに関しては、僕は謝らない。悪いことをしたとは思わないからね」
「……いいえ、それでよかったのよ」
再会した時に彼が全てを語って助力を請うたなら、別の道があったかもしれません。こんな回りくどい方法を取らずに、もっと直接的にマカラと接触出来ていたでしょう。
「あの時はまだ確信がなかったし、エルネアは新しい関係をミモルと築こうとしてた。記憶を掘り起こす真似をしたら、それを壊すことになるからね」
全ては自分達の問題です。たとえ昔の顔見知りだとしても、巻き込みたくはなかったのだと。
「神々が間違っていると断言する気はないよ。でも、マカラのことだけは譲れないんだ」
「どうしてそこまで?」
ミモルには解りませんでした。ニズムは分別のある人間に見えましたし、それは昔から変わらないように思えたのです。こんな暴挙に出るのは信じがたいことでした。
彼は何か言いかけて再び苦笑いし、一言だけ呟きました。
「僕はね、マカラが部屋の扉を叩いてくれるまで、ずっと一人ぼっちだったんだよ」
眼鏡の奥にどんな感情が浮かんだのかまでは、見ることが出来ませんでした。すっと木を見上げます。
「マカラ、やっとここまで来たよ。今助けるからね」
表情はむしろ柔らかなものに戻り、これからの行いなど些細なことだといわんばかりです。
「あれが本当のマカラってどういうこと?」
「今まで相手をしていたのは、マカラの精神が形作ったものに過ぎない。あそこに眠っているのが本体なんだ」
ずず、と何かを引きずるような音がして、ミモルは反射的に後ろに飛びのきます。蔦が動き始めていました。木に更にきつく巻きつき、締め付けていくようです。
「マカラが見えなくなっちゃう!」
これまでも血の気のない白い細面がちらりと覗くだけでしたが、更に奥へ取り込まれていきます。うぞうぞと動き、心なしか太さを増していく気がします。
「蔦が命を吸い取っているんだわ。木からも、マカラからも」
「させない」
青ざめるエルネアの前にニズムが歩み出て、右手を差し出し、懐から取り出したナイフで軽く切り付けた。ぱぱっと鮮血が飛び散ります。
途端、のた打ち回る怪我人のように蔦が暴れ、血が付いたところから腐って数本が落ちました。本体も耐え切れずにそれ以上取り込もうとするのをやめます。
「ニズム、大丈夫!?」
じくじくと痛むのを堪え、笑顔を作って頷きます。真新しい傷口は簡単には塞がりません。後から後から赤い液体が滲み出てきます。
「マカラの苦しみに比べたら、こんなの、どうってことないよ」
「『マカラの苦しみ』?」
眠ったように沈黙している彼女からは痛みも苦しみも伝わってきません。木と同様に中身の無い空洞のようです。エルネアが言いました。
「もしかして蔦が、命だけじゃなくて記憶や感情も吸い取っているというの?」
ニズムは肩を竦めました。
「蔦が神々に作られたもので、これが罰なのだとしたら、辻褄があうからね」
「そんな惨い仕打ちをあの方々がなさるはずがないわ!」
では他にどんな推測をしてみせてくれるのか、と彼の目は問いかけます。
「こんなに長い間保っていてくれたのは嬉しいけど、その間ずっとマカラは苦しんでいたことになる。心の中から悪魔を産み落とすほどにね」
「……」
絶句して、二人は青年の背中を見つめました。彼は白い服に鮮やかな赤い斑点を付けながら、両手を差し出します。蔦がまた蠢き始めました。
「行くよ」
嫌がる蔦の表面に彼はそっと手を触れ、目を閉じます。次の瞬間、凄まじい勢いで炎が吹き上がり、ニズムもろとも全てを包みました。
ミモルは彼の名を叫んで助け出そうとしましたが、エルネアが抱えるようにして止めました。
「意識を集中して!」
パートナーの声が届くと同時に、耳の奧でぷつりと音がしました。
――やっと、一つ。誰かが耳元で囁きました。
「二人はどうなっちゃったんだろう」
あの後、いくら待ってもニズム達は戻ってくることはありませんでした。
エルネアの機転で二人は元の世界、つまり地上に帰ってきました。ニズムが起こした爆風にはじき飛ばされるようにして、宿の一室に倒れ込んだのです。
窓からはすでに朝日が差し込んできており、運ばれた食事もすっかり冷めてしまっていました。
『途方に暮れてる場合じゃないでしょ』
「リーセン? 良かった。まだ居てくれたんだ」
『当たり前でしょ。まったく。あんなところじゃ話も出来やしない』
投げやりに言っていますが、精神だけの存在であるリーセンにも、あの世界は辛かったのでしょう。声から疲労が伝わってきます。
「リーセンの言う通りよ。呆けてなんていられないわ」
エルネアも切迫した雰囲気で見つめてきます。目の前に横たわるダリアの状況は何一つ変わってはいないのですから。




