第三十三話 あねとの再会
「……ダリアなの?」
真後ろから声が聞こえた気がして振り返りましたが、誰も居ません。……いえ、はっと息を呑みました。
濃い色の長い髪と、ルアナに着せてもらったお揃いの服。いつもは強気の目元に疲れが見られるのは仕方のないことだとしても。
「ミモル助けて。ここまで逃げてきたの。……助けて」
部屋の暗がりから姿を現した相手は、間違いなく姉でした。どさっと倒れこむダリアを、ミモルは慌てて抱きとめます。なんとかベッドに寝かせました。
「ダリア、なの? 本当の、本当に?」
瞳に宿った光は鈍く、きちんと見えているのかも怪しく思えます。力無く横たわる様を目の前にしても信じられず、何度も尋ねずにはいられませんでした。
「ずっと、暗いところに居て、体に力が入らなくて。悪魔が時々戻って来た時に、いつも私に何かするの……」
激しい痛みと気分の悪さ。言ってから、その瞬間を思い出したのか、ダリアが顔をしかめました。
「体は動かなくても、ずっと見えていたし、感じてた。……いっそ、何も感じなかったら良かったのに」
喋り方は、明るかった彼女からは想像もつかないほど低く、沈むようです。こちらに顔が向いていても、まるで独り言のようでした。
「無理に話さなくていいよ。今はゆっくり休んで。あとでいくらでも聞くから」
休養を勧めると緊張の糸が切れたのか、ダリアはすぅと息をしただけで眠ってしまいます。
ミモルにはどれだけ体力を消耗したのかが分かり、涙が零れそうになりました。
マカラがダリアに施したことには心当たりがありました。恐らく、自由の利かない体に無理やり力を送り込まれていたのでしょう。
一つはダリアの延命のためです。彼女が死ねば、召喚されたマカラ自身もこの世界に居られなくなるからです。
「それと、扉を開くため……だよね」
疲労が度を越え過ぎて、荒い息をすることさえ出来ないのでしょうか。静かというよりも、力のないと言った方がしっくりくる寝息を立て、眠っています。
『エル、戻ってきて』
とにかく形だけでも落ち着いた姉を看ていたら、ミモルはふいにパートナーとの繋がりを思い出しました。
わざわざ様子を見に行かなくとも、呼びかけるだけで良かったのです。
宿は思ったよりも繁盛しているらしく、それが原因でエルネアは遅くなっていただけでした。
「これは……」
暖かいスープとパンを載せた盆を抱えた彼女は、部屋に入るなり事態を把握しました。荷物を脇のテーブルに置いて、すぐさまベッドへ駆け寄ってきます。
「逃げてきたって。でも、かなり疲れてるみたい」
説明され、エルネアはそっとダリアの額に触れて癒しを試みます。けれど、すぐに手を離して眉間に皺を寄せました。
「違うわ。これは疲労じゃない」
「どういうこと?」
「無理に押し込まれた力が、彼女の中で暴れまわっているのを感じる。今のダリアは、器に水が溢れかえっているのと同じなの。それも、出口のない器よ」
ミモルは声もなく姉を見遣りました。目を凝らすと、今まで気が付かなかった青い空気の層が、ダリアの体を取り巻いているのが見えます。
「このままだとどうなるの?」
「いずれは器を突き破って、水が外へ出ようとするでしょうね」
そんなの駄目! とミモルは叫びました。
「駄目だよ。そんなことしたらダリアが死んじゃう」
「それだけじゃない。一度に放出されたら、この町も消し飛んでしまうわ」
仮にも別世界に渡ろうという力なのです。ミモルは汗をかきながら眠り続けるダリアの背中を手でさすりました。
「そうなりたくなかったら、さっさと扉を開きなさい」
ひたり、と静かな足音がします。今まで何もなかったはずの部屋の隅、ダリアが現れたところと同じ場所に、見慣れた影が立っていました。
「やっぱり、そういうことだったのね」
「分かってるんじゃない」
エルネアはさして驚いた様子もなく、相手を睨み付けました。さっと身を前に出し、ミモルを庇います。初めからこうなることを予測していたのでしょう。
「そうか、ダリアは自力で逃げてきたんじゃないんだね」
二人の間に流れる緊張から、ミモルにもピンときました。姉は逃がされたのだということに。その反応が面白かったのか、マカラが「えぇ」と声を上げます。
「そう。助けて助けてってうるさいから、助けてあげたの」
「……心を覗いたのね」
「力を注ぎ込む時に見えただけ。いっつも母親やらそこのお嬢ちゃんのことばっかり考えてるみたいで、面白くもなんともなかったわ」
悪魔は尖った爪を唇にあてて嘲りました。ただの挑発に過ぎないと分かってはいても、ミモルは腹の内からわき上がってくる怒りを抑えられません。
「どんなにダリアが苦しんだか、分からないの? あなただって天使だったんでしょ。大事な人が居たんでしょ?」
「……大事な人? そんなもの、居るわけないじゃない。ずっと、独りだったんだから」
少女のふつふつと煮える感情を前に、マカラから表情が消えました。
「嘘だよ。まだ思い出さないの?」
「そんなことはどうでもいいっ」
マカラが床を蹴り、身を躍らせます。反射的にエルネアが少女を庇いましたが、狙いはそこにはありませんでした。
ダリアに覆いかぶさり、手はしっかりとその喉元を捉えています。姉はこの騒ぎにあっても目を覚ますことはないようです。
もう、その命がぎりぎりのところまで来てしまっているのかもしれません。
「そっと爪でなぞるだけで、血がこの部屋いっぱいに飛び散るでしょうね。もちろん、アンタにもたっぷり浴びさせてあげる。どんな味がするか、知りたくない?」
「やめてっ!」
思わず、ぐっと細くなってしまった体を切り刻まれ、部屋が、自分が、全てが真っ赤に染まった光景を想像してしまいます。
少女の金切り声を聞き、再び口元に残酷な笑みが戻りました。
「……そうだ。溜め込んだ力を全部解放して、扉が開くかここで試してみようか」
さぁ、どっちに賭ける? と悪魔が言います。そんなことをすれば、成功云々に関わらずダリアは死んでしまうでしょう。
汗が頬を伝い、心臓が早鐘を打ちます。自分の呼吸と、血が激しく体を巡る音がやけに大きく聞こえました。
「やめてっ。私がやるから、だから――」
声と涙を振り絞った、その時でした。
『呼んで』
耳の奥で、誰かが囁きました。
『呼んで』
「……聞こえる」
「ミモルちゃん?」
ダリアを助けようとエルネアの腕の中でもがいていた手が、ぴたりと止まりました。
『呼んで』
「聞こえるよ。誰かの声が」
初めは小波のようにか細かったそれも、回を増すごとに大きくなっていきます。しかし、どれだけ大きくなろうとも自分の耳にしか届かないようでした。
「この期に及んで、何を訳の分からないことを。恐怖で頭でもおかしくなった?」
『呼んで』
自分の中で何が起きているのかが分からず、ミモルは目蓋を閉じました。
そうして外からの刺激を遮断すると、色々なものが遠ざかり、一人ぼっちになったかのような心地がします。
『あの光じゃない?』
もう一人の自分が、精神の底から澄んだ声を発しました。暗い海から上がってくるかの如く、音も立てずに。
「そうだ、あれだ」
リーセンの言葉をきっかけに、以前見た夢を思い出しました。あの時は光に触れようとしたところで目が覚めましたが、今度はもっとはっきりとした感触があります。
触れられそうなほどに。いえ、既に触れていました。




