第二十七話 姉のうんめい
ヴィーラがかつての仲間だったという事実は、この際、些細なことです。
ハエルアの街でネディエという少女を新たなパートナーに得て生きている彼女にも、以前の記憶などないでしょう。
それでもエルネアとなお親しいのは、記憶がなくてもどこかで繋がっているからに違いありません。二人の仲の良さを思い出し、ミモルは逆に納得してしまったくらいです。
そんなことより、確かめなくてはならないことがありました。
「ねぇ、『ニズム』って。まさか」
「おそらく、以前お二人を救った者と同一人物でしょうね」
少女の懸念を、ネイスはあっさりと肯定しました。
「そんなはずないよ。だって、ずっと昔の人でしょ? 人間が七百年も生きていられるわけがないよ」
「……彼は、死してなおパートナーを探し続けているのですね」
ぽつり、と呟いた言葉に、ミモルは押し黙ります。死してなお、ということは、森で出会った優しげな眼差しの少年は、幽霊だったのでしょうか?
そんなはずはありません。夢よりも確かな感触が、彼からも、彼の家からも伝わってきたのに。
「……」
重い沈黙が訪れました。呼吸さえも躊躇われ、どう吐き出して良いのか分かりません。ネイスはそれでも口を開きました。
「知れば、もう戻れなくなります。よろしいですか?」
言葉を発したのに沈黙が壊れていないように思われるほど、重い一言でした。ミモル達は目を合わせ、頷きあいます。彼も覚悟を決め、ゆっくりと言いました。
「ニズムのパートナーは……マカラという名の天使でした」
訳が分かりませんでした。地面が失われたかのような不安定感が体を襲い、自分がぐらぐらと揺れている気がします。
救いを求める眼差しでパートナーを見遣ると、エルネアもまた呆然とした表情のまま動きません。
「ニズムがどのようにして現在まで存在しているのかまでは分かりません。ですが、マカラとの再会を望み続けているのは確かなようですね」
「どうして? ……ううん、違うよね。別人だよね」
感情や意識など、まるでまとまっていません。ただ、脳裏を掠めた憶測を否定して欲しかったのです。
しかし、続けて告げられた真実はそんな彼女の思いに追い討ちをかけます。
「悪魔とは、神々の意に背いたがために地へ落とされた、天使の成れの果ての姿なのです」
「……!」
そんな、と言おうとして口から外に出ることはありませんでした。
「それは事実なんでしょうね。辻褄が合うもの。天使だったからこそダリアと契約することが出来たのでしょうし、あの怒りや憎悪も……。だとすれば」
目配せしたエルネアに頷き、ネイスが話を継ぎます。
「目的は神々への復讐でしょう。マカラの望みがニズムと同じところにあるかどうかは別として、話を聞く限り、それが妥当です」
努めて冷静を装うエルネアの気持ちが、ミモルには痛いほど伝わってきました。元は自分と同じ天使だったという事実が、彼女を打ちのめしていないはずがありません。
少女は自分ばかりうろたえてはいられないと無理矢理足に力を入れ、会話に加わりました。
「復讐って?」
「自分を追い落とした神々への恨みを晴らす気なんだわ。きっと、そのために人を襲って力を蓄えているのよ」
「悪魔は天へ昇る力も権利も奪われています。再び神々にまみえるなら、あとは契約者という扉を開放するしかないでしょうね」
「ダリアを利用するってこと?」
焦るミモルに、ネイスが目を向けて言いました。
「様々な精霊と契約を果たしてきたあなたは、この聖域へ来られるほどに成長しています。けれど、あなたの姉は最初の時のままのはず」
だとすれば、選ぶ手段は一つしかありません。
「集めた力を注ぎ込み、無理に扉をこじ開けることになるでしょう」
二人に戦慄が走りました。正規の手順を無視してそんな行為に及べば、ダリアの体にどれだけの負担がかかるか、想像するのも恐ろしく思えました。
「そ、そんなの駄目っ。早くなんとかしなくちゃ!」
がたがたっ。椅子が後ろへ倒れそうな勢いでミモルが立ち、掠れた声で叫びます。脳裏には苦しみ悲鳴を上げて助けを求める姉の姿が浮かんでいました。
「今すぐ助けなきゃ!」
「落ち着いて! 大丈夫。まだ時間はあるわ」
「どうしてそんなことが分かるの?」
思わず非難の色を帯びた声を浴びせてしまいます。掴まれそうになった腕を払って、涙が滲んだ瞳でパートナーを見つめました。
疑問に淡々と答えたのは、変わらず座ったままのネイスです。
「天への扉はそんなに簡単に開くものではありません。しばらくは安全でしょう。たとえば……あなたのような存在が手に入らない限りは」
「私?」
「先ほども言いましたが、あなたはここへ来られるほどの力の持ち主です。これまで悪魔が吸い取ってきた力と合わせれば、天への扉も開くでしょうね」
怒りと共に、体の中の何かが抜けてしまいました。立っていられなくなり、椅子に座りなおすと虚ろな表情で呟きました。
「それって、私が身代わりになればダリアは助かるってこと?」
「何を言い出すの?」
「だって、マカラの望みは天に行くことなんでしょ? だったら、私が扉を開くよ。代わりにダリアを返してもらうの」
まさに悪魔に魂を売り渡す行為だと知っています。けれど、こんなに頑張っているのに姉にはちっとも届きません。
いまや焦りが全身を支配し、諦めが混じり始めるのを感じていました。
「無茶言わないで! あなただって、まだ全ての契約を終えていないのに。そんなことをすれば死んでしまうかもしれないのよ」
「やっぱり、ダリアはこのままじゃ死んじゃうんだね?」
「それは……」
エルネアには答えるべき言葉がありましたが、発するのは躊躇われました。そうして二人はしばらく沈黙へと落ち込むはずでした。
「嬉しい申し出ね? ぜひお願いするわ」
「え……」
ミモルが驚きを発し終える間もなく、ひやりとした何かが首に押し当てられるのを感じました。吐き出しかけた息さえ口元でストップしてしまいます。
「ミモルちゃん!」
がちゃん! と音を立てたのは、叫んだ瞬間にエルネアが触れて落としてしまったカップでしょうか。しばらくの間、耳の奥で繰り返し鳴りました。
「コカレ、どういうつもりです!?」
ネイスの言葉で、少女は後ろにいるのが世話役の女性だと知りました。
次いで首に当てられているものへ視線を投げると、それは彼女の指から鋭く伸びた爪でした。
幾度となく吸ってきたもので染まってしまったかのような、真っ赤な爪。少し触れただけで、肌など容易に切り裂きそうで、見ているだけで眩暈がします。
「あぁ、もうその芝居はいいわ」
ぱちん、コカレが指を鳴らすと、ネイスが突然その場に崩れ落ちました。その動きは、糸を切られた操り人形に似ていました。
「まさか、操られていたの?」
「ただ、アタシを世話係だと思わせる暗示をかけただけよ」
ミモルを捕らえたコカレの顔には、妖艶な笑みが広がっています。
「門の開き方を喋ってくれればよかったのに、意外と口が堅くって。だから、自分から話すのを待っていたってワケ」




