第二十六話 かたい決意
「エルネア。あなたは、自分の記憶が抜け落ちているのを知っていますね?」
天使は俯きます。先程自ら話したとはいえ、他の人からはっきりと指摘されるとまた違った辛さが込み上げてくるのでしょう。
「新たな主を得る為に……」
言って、隣の少女を見ました。ミモルに会えたことを後悔していない、それだけは本当だと訴えるような瞳で。
「記憶の封印は、神々の慈悲と言えるでしょう。それを敢えて知ろうとすることがどういう意味を持つか、解っていますか?」
二人ともが、ふいを突かれた表情で目の前の少年へと視線を移しました。
「悪魔を追い払い、捕らわれた少女を救い出す。天使としてのあなたの役目は、そこまでだと思いますが……」
ネイスは言葉を切りました。態度には思いやりが滲んでおり、ただの確認作業でないことを窺わせます。
エルネアは自分に問いかけました。神に背くことになっても、この選択をするのか、覚悟があるのかと。
「きっと、そちらが正しいのだと思うわ。私は失われた過去を知るべきではないのかもしれない。……でも、今のまま進んだ先に救いがあるとは思えない」
決意の眼差しを見、彼は「そうですか」と短く言いました。
「知っている範囲のことで良いのなら、お話しましょう。ですが、少し時間を貰えますか? 考えを整理したいので」
ミモル達は頷き、待つことにしました。こちらも疲労の色は拭えません。
恐らく、幾つもの真実を彼の口から聞かされるはずで、気持ちを落ち着ける時間が欲しかったのです。
「こっちよ。それじゃあ、オヤスミナサイ」
そのまま館の部屋を借りることになり、コカレのやる気のない案内で客間へ通されました。
正直むっとしましたが、それでもベッドを見た途端、ミモルは意識が遠のき、体が重く感じるのを止められませんでした。
想像以上の負荷が小さな体にかかっていたようです。ベッドに前のめりに倒れ込みました。
「何か食べる?」
「ううん。眠い……」
これがその日の、最後の会話でした。
翌日は嘘のような身の軽さに、目覚めて一番に驚きました。
「まるで三日くらい寝ていたみたい」
「清浄な気が満ちているからじゃないかしら」
昨日は洗いたてのシーツの香りとふかふかした感触しか印象に残りませんでしたが、見回してみるとそれなりの大きさがある一室です。
木の床はツヤも美しく、置かれた家具も丁寧に磨き上げられた木で設えてあります。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
エルネアから水を湛えた桶を受け取って顔を洗うと、より一層視界がクリアになります。ここへ来た時の違和感も、随分と薄れたように感じました。
「それはきっと、この世界に馴染んだ証拠よ」
「馴染む?」
「えぇ、ひとは状況に順応する力を持っているから」
桶を元の場所へ返そうと立ち上がったエルネアは、すでに支度を済ませていました。旅の間、彼女はそうやって常に主人に合わせ、世話をしてくれています。
申し訳ない気もするものの、そうやって傍に居てくれるから自分は生きていられるのだと、改めて有難くも感じました。
「いよいよ色々なことが分かるんだね。……エルは後悔しない?」
ミモルは昨日の会話に驚かされていました。謎を暴けば活路が見出せると信じていた少女にとって、その行為に他意があることなど思いもよらなかったのです。
口を挟まなかったのは、エルネアの真剣な表情を真横で見ていたからでした。
「これが危険なことなら、拒否したって怒らないし、もう望まないよ。だから、正直に言って」
「……」
ことり、と桶を台に乗せる音がしました。
「主の、命令だよ」
口にする唇が乾きます。こんな態度を取ったのは、こう訊ねてあげることがエルネアには楽なのだと知っているからでした。
天使はさっとミモルの前に立ち、膝を折ります。白いスカートのすそが、床を這う様にして四方に広がりました。真っ直ぐに見上げてくる瞳に翳りはありません。
「私は契約した瞬間から、あなたのために生きると決めています。どうか、あなたの進む道に寄り添うことをお許し下さい」
「……!」
衝撃で言葉が出ませんでした。強烈な後悔が押し寄せ、ノドを引きつらせます。
「……ごめん。ごめんなさい」
やっと絞り出せたのは謝罪の言葉だけで、エルネアは何も言わず、幼い子供をあやすようにその背中を撫でました。
前日と同じ部屋へ、前日と同じようにコカレの案内で通されると、すでに座って待っていたネイスが立ち上がって挨拶をしました。表情には迷いがなく、彼の決意を思わせます。
座るように促され、誰ともなく席に着きます。きちんと受け止めると決めてはいても、こうして向かい合うとまた違った緊張をミモルは覚えました。
「何からお話したら良いのか、昨日一晩考えあぐねていました。……でも」
口火を切ったのはネイスの方でした。肘をテーブルにつき、両手を組んで顎を乗せます。しかしすぐにすっとその手を解き、掌をこちらに見せました。
「こうしてお二人を前にして決心が付きました」
ごくりと息を呑む音が聞こえます。少女が、それが自分のものだと気付くのに、数秒を要しました。深く息を吐き、刹那、止めます。
「まずはやはり、七百年前に起こったことから説明しましょう」
「昔起こった、悪魔との戦いのことね?」
彼は複雑そうな瞳でエルネアを見つめ、頷きます。
「七百年も前のことですから、人間にとっては、『昔』と表現しても差し支えないでしょうね」
七百年前について知っていることといえば、ダリアのように悪魔を召喚してしまった友人を助ける為、とある少女が天使と旅に出たこと。
そして悪魔を見事に倒して事件を解決したという話だけです。
「私が知っているのは、旅に出た少女がチェクという名だったことと、同行した天使がエルネア――あなただという事実です。その旅の中で、私達は顔を合わせていますから、間違いありません」
「そんな」
彼女の唇からは小さく零れたきり、しばらくは何の音も発することがありませんでした。
「で、でも、私は。私には実感がないわ。チェクとパートナーだったことは思い出したけど、他のことは一切覚えていないの。あなたの顔だって……」
「先代の主を思い出したのは、あなたに遺した思いが神々の封印に穴を開けるほど強かったからでしょう」
その思いに全力で応えていたら、記憶は全て蘇ったかもしれないと彼は推測しました。
戻らなかったのは、現在の主であるミモルへの思いがエルネアの中で根付きつつあるからではないかと。
「記憶を取り戻せば、今のあなた達の関係が壊れてしまう恐れがある。そもそも神々の封印は、そのために行われるのですから」
ミモルは少なからずショックを受けていました。覚醒を阻害しているのが自分だと知り、どの感情に従えばよいのか分からなくなったのです。
けれども、今更迷って、これ以上パートナーを苦しませるのは嫌でした。
「……話を戻しましょう。チェクは、友人だった少女を助けるために旅をし、仲間を得ました。仲間の中には、天使ヴィーラ、そしてニズムという少年がいました」
「待って。今、何て……」
少女も天使も耳を疑いました。




