第二十五話 聖域のあるじ
少女は悲しみを振り払うように呟きました。
「聖域には季節がないのかな」
季節にはそれぞれの香りがあります。ここにはそれがなく、少女はこの世界に踏み入って初めて嗅いだ匂いに戸惑い続けていました。
「ここは我らが神の加護によって、活力に溢れた世界なのです」
「活力……。エルが住んでいたところも、こんな世界?」
ふと、天について具体的に尋ねたことがなかったことを思い出しました。魂の還るところであり、人間には立ち入れない領域とはどんなところなのか……。
「もっと、穏やかなところよ。たとえるなら、どこまでも続く草原かしら。ここは綺麗だけど、あの方々が好む空間とは少し違う気がするわね」
「それは当然よ。管理を任されているのはネイス様ですもの」
森の木々に木霊する女性の声に足が止まります。すると次の瞬間、気配がネイスのすぐ後ろに現れました。
「コカレ。お客様を驚かしてはいけませんよ」
「あぁ、ごめんなさい。お客様だって知らなかったの。お許しくださいませ?」
射るような視線でした。コカレと呼ばれた女性は、絡みつくような目でこちらを見遣りました。まるで信用ならないと言っているような口振りです。
ミモルがその敵意に身を竦ませ、咄嗟にエルネアも前に出ます。二人の睨み合いは長い間続くかと思われました。
「すみません、彼女は私の身の回りの世話をしてくれているコカレです。気分を悪くしないで下さい」
ネイスはさっと制し、自分以外には誰が相手でもこんな態度なのだと説明しました。こちらの常識が通用しそうにないことは確かなようです。
そのまま再び歩み出すと、やがて木々の密集の度合いが低くなり、視界が開けてきました。地面も本来の色を見せ始め、歩くたびに土特有の音を立てます。
そこは森に囲まれた大きな空間でした。太い木で作られた家らしき建物が並ぶ、小さな集落です。
「あ……」
一瞬、ミモルは鼻につんとした痛みを感じました。かつて住んでいた家の傍にあった村を髣髴とさせる趣があったからです。
懐かしさと同時に、忘れてしまいたい惨劇も蘇りそうになり、のどを詰まらせました。
「大丈夫?」
「へ、平気だよ。それより、ここって村なの?」
「はい。聖域でひとが住んでいるのはここだけになりです」
家の一つひとつは地上にあるものと大差なく、壁は新品のように輝いて美しいのですが、不思議と新しい家という印象は受けませんでした。
活力を失わない木に人々の生活の匂いが染み付いて、こんな奇妙な現象を起こしているのでしょう。
「ここだけ?」
「聖女とは稀な存在。大事な役目を担う彼女達は、決して数多くはないのです」
そんな聖女の元で、どうして私は育ったんだろう。顔も覚えていない血の繋がった両親と、ルアナさんはどんな間柄だったのかな。
いつか聞こうと思っていたその疑問も、両親を探し出して訊ねる他は知る術がなくなってしまいました。今は考えても仕方ないことだと、ミモルは頭を振って意識の外へ追いやります。
通りに人気はありません。
「どうして、誰もいないの?」
「今は祈りの時間ですから。皆、家に篭って神々に祈りを捧げています」
「そうなんだ……」
少女は肩を落としました。どんなに過去から目を背けても、亡きルアナを知る者と話を交わせるのではと、心の隅で密かに期待していたからです。
「こちらが主の館です。どうぞ、お入り下さい」
村の中央に位置するらしき場所には、一際大きな建物が構えられていました。村長の家というよりは、むしろ神殿のような厳かさが漂っているように感じられます。
促されて中に入ると、いよいよ神聖な空気が肌に痛いほどです。やはり様式が異なった「教会」のようでした。
ひと以外の者の目が絶えずこちらを見定めている気がするのです。
「はぁ」
通された客間は板張りで、木の温もりが足に直に伝わってきました。同じく木のテーブルに椅子。
なにやら外から見たイメージとはちぐはぐですが、座ってみると不思議と落ち着き、思った以上に緊張していたのだとミモルは気付きました。
「疲れたでしょうけど、もう少し我慢してね。あとで休ませて貰えるようにお願いするから」
漏らした溜め息にエルネアが心配そうな声をかけてきます。隣に座った彼女に背中を撫でるようにさすって貰っていると、心地良さから眠ってしまいそうです。
慌てて首を振り、緊張しただけなのだと笑ってみせました。
「お待たせしました」
入ってきたネイスが抱える盆には、陶器のカップが三つのっていました。紅茶とはまた違う、嗅いだことのない匂いがふっと鼻に触れます。
強張った体を解すような、柔らかい香りです。出されたそれを覗くと、薄緑に澄んでいました。
「どうぞ、冷めないうちに」
お茶に添えられたのは、白い皿の上にぱっと咲いた色鮮やかな花です。
甘い匂いに誘われるように端を齧ると、軽い歯ごたえとともに甘みが口に広がりました。精巧に作られたお菓子です。
「美味しい」
湯気の立つお茶は、菓子とは対照的にすっきりとして僅かに苦味があります。相性をよく考えられた組み合わせでした。
「それで、どのようなご用でこちらへ?」
「この館の……聖域の主、というひとに会わせて下さい」
ミモルはカップを戻し、居住まいを正して言いました。目的は忘れていません。
「聖域」の主に会い、悪魔について、エルネアの過去について訊ねるために、わざわざ異なる世界までやってきたのです。ネイスは眉根を寄せ、すぐには頷きませんでした。
「主、ですか。確かに主はこの館にいますが……理由を伺っても?」
特にこちらにも隠す必要もないので、ミモルがこれまでの経緯とともに説明します。
すると束の間、彼は胸の裡で言葉を反芻する様子を見せ、短く「そうですか」と答えました。そうして、すっと視線を二人に向けてから言いました。
「私が、この聖域の主です」
「え……」
「そんなに驚かないで下さい。言ったでしょう、『管理を任されている』と」
声がやや低くなったように感じたのは、気のせいではないでしょう。ネイスはお茶を口に運ぶと、絶句している少女達に苦笑してみせました。
その意味を先に理解したのはエルネアです。
「任せているのは『主』だと思っていたけど、そういうことだったのね」
「どういうこと?」
「主は、神々から聖域の管理を任されている、のでしょう?」
彼が言葉もなく頷きます。ミモルは、会いたいと思っていた人物が目の前にいることを改めて思い知り、カップをぎゅっと握りました。
「試すようなことをして、すみませんでした。聖域に人が訪れることはほとんどありません。外から来たものを見定め、ここを守るのが私の務めなのです」
伝えるべきことはすでに語り終えていました。彼が正体を明かしたということは、応じるという意思表示なのでしょうか?
急く心を抑え、ネイスの口が開くのをじっと待ちました。




