第二十四話 ひらいた扉
驚きが胸を通り過ぎると、ミモルは口の端を引き絞りました。思い出すのは、この旅の始まりとなった瞬間です。
くっきりと浮かぶのは、ルアナの「事態を収める方法を知っているか」という問いに頷いたエルネアの姿でした。
「本当のところは知らなかったんだよね?」
「……かつて倒された相手なら、私達も同じことをすれば、と思ったのは本当よ」
彼女は躊躇いながら、あの時より弱い頷きで応えます。幼いながらも、ミモルは着実に心身ともに成長しています。
「旅の間に色々なものを見たよね」
精霊から見せられた幻に現れた少女・チェク。そして天使が忘れてしまった記憶。
断片的にしか集まらない情報を辿るように、ミモルが指を折ります。水の記憶、夢、そして今見たもの……。
「チェクやエルが戦っていた相手は悪魔、なんだよね」
呼吸の音さえ鼓膜を振るわせそうな、しんとした静寂が続きましたが、やがてエルネアが口を開きました。
「……実感がわかないのよ。チェクが何かを伝えたがっている気がするのだけど」
夢や記憶で少女が表情を曇らせる原因が、悪魔の何かだとすれば、知るのはきっと重要なことです。
それなのに受け止められません。靄のようで触ることが出来ません。もどかしさから、いつの間にか彼女の美しい顔は歪んでいました。
「私、扉を開くよ」
そんな表情を見せられ、ミモルの口からは自然とその言葉が零れます。
両手を強く握り締めると、声が上擦りました。お互いの瞳には相手の顔が映っています。
このまま考えていても堂々巡りを繰り返すばかりです。煮詰まった思考を変えてくれる何かがあるなら、飛び込みたいと思いました。
「一緒に行ってくれる?」
「えぇ」
そんな少女の成長に目を細めながら、エルネアも力強く応えました。
「始めるぞ」
二人が寄り添って立ち、両脇に精霊が控えます。ミモルは顔を顰め、辛いことを耐えるように強く目を閉じました。
「どうしたの、気分でも悪い?」
「う、ううん。ちょっと、怖いだけ」
肩に触れてきた感触に驚いて見上げると、心配そうに開くエルネアの唇が目に入りました。血色が良く、豊かに膨らんだそれは、男性でなくとも見とれてしまう魅力を持っています。
ミモルは視線を外すことが出来ないまま、小声で返事をしました。彼女がこことは違う世界から来たことを改めて実感するのです。
「世界の壁を超えるって、どんな感じ? 痛かったり、辛かったりするの?」
いま自分を震わせている恐怖を彼女はすでに経験しているはずと思うと、問いかけずにはいられませんでした。
体が引き裂かれそうな痛みや、息が出来ない苦しさを伴うのでしょうか? それとも、自分が自分でなくなるような怖さを味わうのでしょうか?
怖々(こわごわ)訊ねると、パートナーは微笑みました。
「私が現れた時、ミモルちゃんは辛かった?」
「少し、淋しかったかな」
白い空間にたった一人。リーセンが居てくれなければ、孤独でもっと辛かったかもしれません。そんな返事にエルネアは一度言葉を詰まらせました。
「……あの時、あなたは私の世界に通じていたの。痛みはなかったでしょう? それに今度は私も一緒だから」
「見付けたわ。狭間よ」
ミモル達が話している間に、セインとメシアは聖域へと続く道を見付けたようです。どこに、と思う間もなく、瞬きの瞬間にそれは見えました。
目を閉じれば、真っ暗なはずの視界の隅に光が明滅します。次第に近づいてきた光は闇を吸い込む渦になって、二人に迫ってきました。
「腕を伸ばして。……飛べるわ」
言われる前に、指先は光に呑まれていました。
目蓋を焼く凄まじい光ではありません。それどころか、眩しいと感じる間もなく二人は「そこ」を抜け、向こう側へと降り立っていました。
まるで、一歩踏み出しただけかのようです。何故か足元が急に柔らかくなり、良い匂いが鼻を掠めました。
「目を開けても大丈夫よ」
いつの間にか強く握り締めていた手がするりと離れ、いつものように肩に触れます。つられて目を開きました。
「わ……!」
飛び込んできたのは色、色、色。赤や黄や緑がどれも鮮やかに輝いています。それが草花だと理解するより早く感じたのは、既視感でした。
「この景色、さっき見たのと同じ!」
「本当?」
間違えようがありません。つい先ほど見たばかりなのですから。
「生えてる木も草も花も、みんな元気だよね。私、森で育ったから分かるの。ここの植物、季節がめちゃくちゃだよ」
地面が柔らかいのも、瑞々しさを蓄えた背の低い植物達が、絨毯のように敷き詰められているためです。
本当なら楽園のような光景に目を奪われるのでしょうが、本物の自然の中で暮らしてきたミモルの目には奇異に映りました。
「ねぇ、ここが聖域なの?」
「そうですよ」
応えたのがエルネアでないことにぎくりとします。いえ、誰かが近づいてきたにも関わらず、天使が警告を発さなかったことに対する反応かもしれません。
『今の今まで気配がなかった。警告しなかったんじゃなくて、出来なかったみたいね』
少女の思考に、もう一人の自分が横槍を入れてきます。エルネアが彼女を守るように後ろへ下がらせ、「誰?」と鋭く言葉を投げました。
弱い風で草花が揺れ、森がさわさわと音を立てます。そんな中だからか、相手の足音は一つも聞こえてきませんでした。
「待っていました。聖女の導きを得たお客人を」
人の形をした黒い影が、明るみに姿を現します。朧げだった輪郭が色を帯びました。――ミモルとそう歳の変わらない少年でした。
さっぱりとした短い髪に動きやすそうな軽装からは、言葉遣いとは裏腹に活発さを感じさせます。彼は優しく微笑みかけてきました。
「そう警戒しないで下さい。私はこの聖域の管理を任されている者です。久しぶりですね、エルネア」
「私を知っているの? ……ごめんなさい。どこかで会ったかしら?」
親しげに話しかけるも、エルネアに動揺した瞳で返されてしまい、残念そうに「そうでしたね」と呟きます。
「仕方のないことです」
一瞬目を伏せ、それからすぐに口元に笑みを戻らせます。ミモルには、それが悲しみを押し殺しているように見えました。
「私はネイス。先程も言いましたが、聖域の管理者です。そちらのお嬢さんは?」
「お嬢さん、って私? えと、ミモル、です」
上品な物言いに慣れず、おずおずと名を答えると、ネイスは浮かべていた微笑みを濃くしました。
少なくとも、ただの子どもではないことが伺えます。管理者ならきっと「聖域の主」を知っているでしょうし、会わせてくれるかもしれません。
「あの、お願いが……」
「こんなところではなんですから、こちらへどうぞ。お客様をお持て成しするのが私の役目ですので」
ミモル達は目を合わせて頷き合い、木々の匂い立つ中、彼の先導で歩きだしました。
その背を追っていると、別の影がだぶって見えます。状況があの出来事と良く似ていたからです。
探していたひととは会えたのかな。
悪魔から救ってくれた少年・ニズム。彼もまた、森の中を先導して家へ招いてくれました。
あれがただの夢などではないことは明らかだったけれど、少年が何者で、どうして助けてくれたのかは分からないままです。
ミモルはニズムが見せた切なそうな表情を思い出すたび、その切なる望みが叶うようにと祈るのでした。




