第二十一話 対となるもの
体が水で出来ているからでしょうか、髪の毛の先からは絶えず雫が滴り落ちています。
「ミモルちゃんをお願い」
『承知した』
えっと思う間もなく、ウォータの腕が少女の軽い体を抱き寄せました。ふわりと足が浮き、静かに目線が下がっていきます。
「ま、待って! どういうことっ?」
「大丈夫だから。下をお願いね」
扉の傍でにこやかにエルネアは手を振ります。ミモルは、これではウォーティアと出会った時と同じじゃないかと思いました。
「ちゃんと説明してよ~!」
足先に水が触れます。空から見ればきらきらと光を反射して美しいそれも、こんな間近では恐ろしさしか抱けません。少女は怖くなりました。
「嫌だっ! 離してっ、死にたくない!」
『暴れるな』
耳元で囁かれると、その息まで水で出来ているかのように、鼓膜がひやりとしました。落ちたら命がないぞ。そう言われたようで、体が強張ります。
水の守護のおかげで濡れはしなかったものの、膝、腰、胸と水位が迫ってくるのは気持ちのよい光景ではありません。
「んっ」
息は出来ると知っています。それでも、ミモルは大きく空気を吸い込んで、海の境界線を越えました。
ぎゅっと目を閉じて、ウォーティアに身を任せます。びっくりするような冷たさが、水が触れたところから染み込んできました。けれど、薄い膜が張ったようで、やはり濡れはしません。
『大丈夫よ。ほら、下を見て?』
エルネアの声は水の中でも澄んで聞こえました。ゆっくり目蓋を開くと、同時に何か別のものも開いたように感じました。
『分かるかしら。今、私達は同調しているの。あなたが見ているものを、私も一緒に見ているのよ』
息が口から零れましたが、泡にはなりませんでした。まるで幻に入り込んだみたいです。再び促されて下へ注意を向けると、今度ははっと息を呑みました。
「建物がある……!」
どこかで天と地が逆さまになってしまったのでしょうか? そう錯覚するほど、足元には天空に浮かんでいたものと全く同じ建物が沈んでいました。
その下は真っ暗です。日の光がじょじょに失われていく海中で、その建物は闇に同化しようとするかに見えました。
『入り口も同じところにあるから、迷うことはないでしょう?』
「待って。どうして海の中にも同じ物があるの? あそこで、私は何をすればいいの?」
ぱっと振り返ると、そこにはきらきらと光る海がどこまでも広がっていました。
いつの間にか、自分を誘ったウォーティアの姿はどこにも見当たらず、一瞬パニックに陥りそうになりましたが、すぐに彼女の言葉を思い出しました。
「そっか。水そのもの、だったよね」
人間に似せた姿がなくとも、自分を包み込むこの全てが精霊自身というわけです。加護は十分に発揮されています。何も不安に思うことはありません。
泳ぐのとはまた違う、まるで空を飛ぶように海へ落ちていきます。
建物の横に回り、全体像が掴めなくなったところで、エルネアの言うとおりの場所に入り口がありました。固い床に着地しても、砂埃が舞うことはないようです。
「こんにちは。お邪魔します」
中の構造も同じだったので、ミモルは迷うことなく奧へ進みました。違うのは、その薄暗さです。
セインの城は淡い光に包まれていました。でも、この海中の建物には闇が沈殿していて、視野を狭めています。先程の疑問への答えはありません。行けば分かるということでしょう。
「あ……」
細い通路の向こうには、予想通り仄暗い空間に巨大なクリスタルの柱が立っていました。唯一の物音だったカツカツというミモルの足音も途絶え、海へ吸い込まれていきます。
「よく見えないなぁ」
手をクリスタルの壁に当て、中を覗き込んだ、その瞬間でした。
『誰だ?』
「っ!」
肩が跳ね上がりました。一段室内が明るくなった気がして、次いで声の主が姿を現します。闇から生まれたといってもよいかもしれません。
暗い場所に溶け込んでしまいそうな黒い髪と、暗色を集めた服。その瞳に光が宿っていなければ、彼もまた精巧に彫りこまれた像だと思ってしまいそうでした。
「同じ顔……」
ミモルが無意識のうちに呟きます。その言葉の通り、色や細部の差異を除けば、目の前にあるのは先ほど出会ったセインに瓜二つの顔でした。
『姉と面識があるようだな』
「姉? セインの、弟さんってこと?」
『双子のな。俺は闇の精霊・メシア。もう一度問う、お前は誰だ?』
じっと見つめていたことを思い出して、少女は慌てて同じ自己紹介をしました。ついでにここへ来た経緯も伝えます。
喋っている間、静かに耳を傾けていたメシアが、話の終わりとともに口を開きました。どことなく嬉しそうです。
『成程。じゃあ、俺と姉さんをここから出してくれるというわけだ』
「えっ、どういうこと?」
答えの代わりに、彼は手を伸ばしばす。ミモルの手へ壁一枚を隔てて触れてくると、ひやっとした感触を覚えました。
「て、手が……」
大きく、ミモルの目が見開かれます。するりと、一切の抵抗もなく、彼は指先からクリスタルという壁を通り抜けました。
その刹那、ミモルには別の映像も見えました。それはエルネアが、同じようにクリスタルから出ようとするセインを受け止めているところでした。
『光と闇は釣り合いが取れていなければお互いを侵す存在。こうして一緒に出してあげないと危ないの』
だからセインは出られない、出して欲しいと願ったのです。弟と共に。
すとん、と彼の足が床に着きました。精霊に重量があるのが不思議で、少女はそれをじっと見ていました。
体の感覚を確かめるようにあちこち動かしていたメシアが、その視線に気がついて軽く笑いました。
「わ、似てるなぁって思ったけど、笑うとほんとにそっくりだね」
「そう?」
「あれ、声が直接聞こえる?」
今まで、精霊の声は遠くから響くように聞こえていました。不思議そうにするミモルに、メシアは言葉を選ぶ仕草をみせてから言いました。
「俺と姉さんは、最もひとに近い精霊だからな」
「『ひとに近い』? 私達と似てるってこと?」
確かに、外見上は何もかもが人間らしく見えます。その人に良く似た表情で、まっすぐにミモルを見据えてきました。
「ひとは、光と闇を合わせ持つ存在だから」




