第十七話 あくまとの対決
「……苦しいの?」
呟き、改めてはっきりとそう感じた瞬間、目を凝らさずとも少年の背後に薄く黒い影が見えました。
ミモルは騒ぎの元凶をきつく睨みつけながら立ち上がります。目を離すと逃がしてしまうような気がしたからです。
「おい、どうかしたのか?」
怪訝な顔でネディエが問いかけてきました。やはり、他の人には見えていないようです。
「ねぇ、そのままじっとしていて。助けてあげるから」
ゆっくりと一歩、二歩と近寄りました。助けるとは言ったものの、何故自分にだけ見えるのか、どうすればいいのかなど見当も付きません。
それでも近づくほどに濃さを増す、少年と重なった影に閃くものを感じたのです。あれさえ追い払えれば、彼を助け、嵐を鎮められるかもしれないと。
「来るな……、来るな……」
口からは苦悩を含んだ拒絶がこぼれます。けれども言葉とは裏腹に、表情は待ち望んでいるように見えました。
自らを支配する者に抵抗するように、腕が小刻みに震えながら差し出されます。初めて示した、彼自身の気持ちに他なりませんでした。
「今、行くからね」
ミモルは意を決してその手を取りました。背筋に雷が駆け抜けるような痛みが走り、足元から強い風が舞い起こります。その風に、髪や服がすくい上げられました。
「風を生んだのか?」
ネディエがそう言ったのは、今吹いた風が先ほどまでのものとは異質だったからです。もう、赤く引き裂く力ではありません。敵意を失った緑の風が、二人を包んでいました。
「――役立たずねぇ」
忘れたくとも忘れられない響きに、その場にいた全員が凍りつきました。
視線が揺れて、すぐには焦点を合わせられないほどの緊張感に、身を縛り付けられます。
「もう少し足止めしておいてくれるかと期待したのに。あっさりやられ過ぎ」
「ま、マカラ……!」
憎しみを込めて名を呼んだのはネディエで、その手は強く握り締められていました。
無理もありません。この悪魔のせいでパートナーを傷つけられ、母親を失い、叔母との息詰まる日々を余儀なくされたのですから。
マカラは背の翼に風を孕み、その流れに身を任せるような仕草で優雅に降り立ちます。ヴィーラが顔を引きつらせて「そんな」と呟きました。
「あの時、かなりの傷を負わせたはずなのに……!」
主人が襲われたあの時、彼女はミハイという大きな犠牲を得て、ようやく一撃を食らわせることが出来ました。
幸いにもマカラは余力を失って姿を消し、軽症とは言い難いダメージを与えられたはずです。しかし、悪魔はにやりと嗤って無傷の体を晒しています。
「あんなの、かすり傷よ」
「まさかダリアを!」
苦々しく叫ぶエルネアの顔は白く染まっていました。ミモル達がその真意を確かめる間もなく、一足飛びにマカラに詰め寄ります。
間髪入れずに繰り出された、その細い体からは想像出来ない速さの回し蹴りを、寸でのところでかわした悪魔が楽しそうにまた嗤いました。
エルネアは当たらなかったことなど構いもせず、次いで攻撃しようと手を鋭く突き出します。相手は気にも留めないといった体でやすやすと受け止め、囁きました。
「必死ね。そんなに大事なの?」
息がかかりそうな距離で二人の視線はかち合い、互いに動きを止めます。
「エル、ダリアがどうしたっていうの?」
ウィンはすでに呪縛を逃れて沈黙していました。一生懸命にそんな彼を抱えながら、ミモルは普段の穏やかなエルネアとはかけ離れた様子に困惑していました。
「アタシの傷を治すのに、ちょっと協力して貰っただけよ」
誰も言葉を発することが出来ませんでした。マカラはその反応が面白かったのか、なおも笑みを強くし、続けます。
「あの子も役に立てて嬉しいんじゃない?」
「なっ!」
ミモルはかっと体が熱くなり、強い怒りが内側から沸きあがってくるのを感じました。
許せない。役に立てて嬉しいなんて、ダリアが思うはずない――。
『ミモル!』
体をびくりと震わせたのは、もう一人の自分の叫びのせいだけではありません。怒りに我を忘れかけたこの感覚を、ミモルは先日経験したばかりでした。
「ま、またみんなを傷つけるところだった……?」
ルシアの心無い一言でタガが外れてしまった時には、彼女の頬を傷つけただけで済みましたが、それはエルネアが押さえ込んでくれたからです。
それを望めない今度はどうなってしまうかなど、自分にも分かりません。
『キレなくったって、なんとかなるでしょ』
無性に怖くなって、抱え込んでいたウィンを更に強く抱きしめます。
「……ん」
それがきっかけになったのか、気を失っていた少年が腕の中で小さく呻きました。
「うわっ!?」
ミモルに抱えられていたことに驚いたらしく、彼は慌てて飛びのきました。それから辺りを見回して、更に混乱の度合いを強くします。
「え、あ、あれ? 僕は一体……」
「ドジな精霊ね。悪魔なんかに操られるなんて」
びっくりして口を抑えたのは喋ったはずのミモル自身でしたが、すでに全員の視線を一斉に浴びてしまっていました。
「ミモル……?」
意外そうな顔で、ネディエが恐る恐る尋ねてきます。
ミモルは必死で「違う。今のは私じゃない」と否定しにかかりましたが、そのセリフに重なるようにして別の言葉が口から滑り出ていました。
「もっと、シャキっとしな。……ちょっと、やめてよ~!」
事情を話してあるエルネアはともかく、その他の者たちは呆気に取られて彼女の奇行を眺めているしかありません。
「なぁに? こんな時に一人芝居なんて余裕ねぇ」
何が起きているのか、理解するのも面倒だといわんばかりにマカラが吐き棄てます。
「どこを見ているのっ」
スキを突き、エルネアが相手の胸倉を掴んで地面へ押し付けました。
ミモルに気を取られていたマカラは、構える前の出来事に堪えきれず、そのまま叩き付けられて息を吐き出します。
「このままノドを潰されたくなかったら、とっととダリアの居場所を教えて」
「……ノドを潰したら居場所が分からなくなるんじゃない?」
「喋れなくなったら、他の方法を使うまでよ」
エルネアの青い瞳が高い熱を持った炎のように燃え、マカラの戦意を焼き尽くそうとしていました。
「とんだ『天使』ね。それとも『死神』かしら?」
押さえつけられてなお余裕の笑みを崩さないマカラの皮肉に、優勢なはずのエルネアの方が表情を強張せます。
「笑顔の裏で何を思っているのかなんて、分からないものねぇ?」
「エルのことを悪く言わないでっ」
リーセンの思わぬ横槍に慌てていたミモルも、パートナーを貶す言葉に腹を立てました。
そんな、怒りのままに叫ぶ少女の姿が余計に愉快なのでしょう。悪魔がからからと笑いました。己の置かれた状況など全く意識にないようです。
「まだ生きたがっている人間を刈っているのは、アンタ達も一緒。同類じゃないの」
エルネアはきつく相手を睨め付け、腕に力を込めます。
「確かに私達には、死を迎えた人の魂を導く役割も課せられているわ。でも、それは次の命へと生まれ変わらせるためよ。吸収して消し去ってしまう悪魔とは違う!」
「……ふん」
すっと、マカラから表情が引きました。




