第十五話 ひつような存在
『さっき、アンタが暴走したでしょ。あれのせいよ』
頭に響くリーセンの声に、ミモルはぐっとのどを詰まらせました。
その理由以上に、エルネアがこんなに近くにいるところで話しかけられたら、聞こえてしまいそうです。
『リーセン、今は話しかけないで』
『別にいいじゃない。アタシに気が付かないなんて、駄目な天使ね』
「エルのこと悪く言わないでっ」
思わず口から零れたそれにはっとします。エルネアはきょとんとした顔でこちらを見ていました。視線がかち合い、しばらく沈黙の時が訪れます。
「ねぇ、ミモルちゃん……」
「だめっ」
初めての拒絶でした。伸ばされた手を振り払うように、反射的に叫んでしまいました。再び長い沈黙が二人の間を流れます。
恐らく気付いているのでしょう。当たり前と言えば当たり前です。お互いは繋がっているのですから。
「……ごめん」
「良いのよ」
そう言って笑う顔は痛々しく、ネディエの盾となるべく身を投げ出した時のヴィーラが脳裏をよぎりました。
実際、ミモルは心の痛みを感じました。けれども胸のズキズキが自分のものなのか、エルネアのものなのかは酷く曖昧です。
「……知りたいって言ってよ」
だから、はっきりさせたくて勇気を振り絞ります。この痛みを、消耗しているパートナーの苦しみを、少しでも癒してあげたくて。
「エルには聞く権利があるよ。私のパートナーなんでしょ? だったら『知りたい、教えて』って言ってよ」
少し、子ども染みているかもしれませんが、ミモルには他に表現する方法が思いつきませんでした。
エルネアの使命感は本物です。持てる全てを尽くして守ってくれていることも事実でしょう。でも、その一方で何かが足りないような感覚がずっと拭えませんでした。
「我がままかもしれないけど、もっとエルの気持ちを言って欲しいの。私が出来ることなら、頑張って応えるから」
天使の腕が滑らかな動きで伸ばされ、ふわっと優しい香りに包まれます。
「私は知りたいよ。エルが苦しそうなのに、理由も分からないで見てるだけなんて、辛い」
それは家族からもたらされる安心感とは全く別のものでありながら、同じくらい心地が良いものでした。
「ミモルちゃんが笑ってくれるだけで、私は幸せよ。でも私の気持ちを望んでくれて嬉しいわ」
それから静かに、ミモルを止めるために力を使ったことを告白しました。
ミモルは部屋を破壊し、人を傷つけてしまいましたが、彼女の助けがなければ被害があれで済まなかったのだと知りました。ぞっとする話です。
「それで疲れてたんだ。ごめん」
「大丈夫よ」
ようやく落ち着き、ベッドに座り直しました。傾いていた夕日はとうに流れて、街が人工の灯りで満たされます。昼間とは違った幻想的な景色がありました。
「……私の中にね、もう一人いるの」
はっとエルネアの息を呑む音が耳をかすめます。
「小さいころから存在は感じてたの。でも、話が出来るようになったのは……多分、エルと出会ってから」
リーセンが何なのか分かるかと聞くと、天使は金髪を揺らして首を振りました。
「でも、必要な存在なのだと思うわ」
「必要?」
「リーセンもきっと、大事な存在なのよ。居なくなったら、あなたが欠けてしまう気がするもの」
胸に手を当てて心の奥の住人へと目を向けます。口の悪い相棒はへそを曲げているようで、少しおかしかく思いました。
「……気持ち、悪くない?」
「どうして?」
「病気かもしれないし、私が作り出した幻かもしれないよ。そんな子、気持ち悪くない?」
触れてきた手が先程より温かくなってきた気がします。
手を握られ、自分がいつの間にか震えていたことに気が付いたけれど、それも温もりが伝わってくるのと同時におさまっていきました。
「それを恐れていたのね……。大丈夫よ」
今のミモルにはエルネアしか残されていません。その最後の手を握り返すことが出来たことが嬉しくて、口元が緩みます。
いつか、あのことを確かめよう。今はこの幸せを噛みしめていたいと願い、少女は目を閉じました。
「ルシアさんは、お別れが出来ていなかったのかもしれないね」
ルシアは再び塔の扉を開き、政治を始めました。
街の集会場に立ち、人々に改めてミハイの死と、自分が伏せっていたこと、これからは街を繁栄に導くことを伝えます。
堂々と話す姿に以前のような陰はなく、これが治める者の本来の有り様なのかとミモルは演説に聴き入りました。
「大丈夫。今はヴィーラが傍にいるもの」
彼女の部屋には、たまってしまった書類が山と積まれていて、今はヴィーラのサポートのもと、一枚一枚確実に処理されています。同時に、占者としての力も発揮していました。
「そろそろ旅に戻りましょうか」
確実に街が動き始めたのを感じ、疲れがすっかり癒えたエルネアも安心したように言いました。
出立を控えた最後の夜、ミモルは夢を見ました。このところ辛いものばかり見ていたものでしたが、今夜は珍しく不思議な夢でした。
夢の中では、ミモルは自分と同じくらいの歳の別の人間――少年の目を通して世界を見ていたのです。
「どうかなさいました?」
女性が優しく問いかけてきます。微笑んでいることは分かるのに、何故か彼女の顔もぼんやりとしてよく見えません。
ただ、少年がその笑顔にどきどきしていることは分かりました。顔が赤くなっていることも、我が事のように感じます。
「……なんでもないよ」
発した声は、聞き覚えがあるような気がしました。直後、女性の名前を呼んだはずなのに、その部分だけは耳をすり抜けていきます。
ミモルは、少年が押さえつけようとしている気持ちを、静かに見ていました。苦しくて息が詰まりそうな感覚です。
少年は心の片隅でそれが「恋」だと知っている一方で、こんなものは子どもが大人に抱く憧れに過ぎないと思い込もうとしているようでした。
翼から、光に透ける羽が零れます。彼を「マスター」と呼ぶ女性は天使でした。天使だから美しく、優しい。自分はこの世ならざる輝きに魅せられているだけ。
彼女は所詮、主たる神のものなのだから、自分になど見向きもしないはず。だからこの感情は「恋」などではありえないのだと。
……そうやって言い聞かせていることが余計に辛く感じられました。
「ずっと……側にいてくれる?」
「もちろんですわ」
真実を語る唇は虚しいものです。その優しい声も何もかもが、自分が死んでしまえば別のひとのものになるのです。
ならばいっそ、恋などという彼女を混乱させる感情を捨て去ることこそが、互いのため。これ以上、自分を苦しませないため。そう決めたばかりなのに。
「私、『永遠』にあなた様の側にいてさしあげられたら良いのに……」
僕は子どもで君は大人。僕は人間で君は天使。僕は――。
否定するたくさんの要素が、頭の中をぐるぐるとあてもなく駆け巡ります。次第に何がなんだか訳が分からなくなって、気が付いたら口を開いていました。
「僕は……が好き。大好きだよ」
両腕を無理に引き寄せ、精一杯抱きしめます。
女性は驚いたように体を強張らせていましたが、しばらくすると柔らかい身を預けてきました。甘い香りが鼻をくすぐります。
「私も――」
はっとしてミモルは目を覚ましましたが、まだ抱きしめられた感触がこの身に残っている気がします。それほどに、今見た夢にはリアリティがありました。
「夢、だよね……?」
確かめるように呟きます。隣で眠っていたはずのエルネアの姿はすでになく、部屋は朝の清らかな空気に満ちていました。
誘うような朝食の香りがふわりと鼻に届き、ミモルはベッドを抜け出しました。




