第十三話 あらわれた魂
多少痛い描写があります。お気を付けください。
感情を押し殺した、氷のような瞳でした。
「分からず屋ね。だから……嫌いなのよ」
三十代くらいの女性です。濃い青の髪を、細い金輪によって顔の左上で軽く止め、流しています。赤い服からすらりとした伸びた足を、ベッドから無造作に投げていました。
小さな窓の下には衣装棚があり、豪華な衣服や価値の高そうな宝石が、無造作に山積みにされています。
手前の領主の間よりは幾分乱れ方が緩いのですが、それは暴れて疲れ切ってから戻ってくるという生活のせいに他なりません。
「……ルシア、さん」
ルシアの腕の中に捕らわれたエルネアが、悔しそうな視線を浴びせるばかりの女性に何かを言おうとした瞬間、空気をつんざく声が続きを遮りました。
「――やめて下さいっ!」
間髪入れず、ヴェールが乱暴に開かれます。
立っていたのは、ミモルが街でぶつかったあの少女でした。騒ぎを聞きつけて、急いで駆けつけたらしく、肩で息をしています。
「あなたが許せないのは私でしょう! 他の誰かを傷つけるのはやめて下さいっ」
ルシアとよく似た青い髪が乱れるのも構わずに詰め寄り、エルネアを掴む手を無理やりに引き離しました。子どもとは思えない素早い手際です。
「マスター!」
少女の登場に一歩後れて、ミモルとヴィーラも駆け寄ってきました。
「エル、大丈夫?」
「えぇ」
すでに体勢を立て直しているエルネアを、ミモルが心配そうに見上げます。
「ネディエ、邪魔しないで」
言うが早いか、パァン! と軽い体が物のように飛びました。
ネディエというのが少女の名前だと気付くのと、ヴェールへその身が叩き付けられるのを見たのは同時でした。一度は引いた勢いを取り戻し、ルシアが頬を張ったのです。
小さく呻いて起き上がろうとする主人をヴィーラが支え、両手を広げて立ちはだかりました。
「退きなさいよ」
「退きません」
ルシアには、天使を蹴り上げるのに何の躊躇いもありませんでした。
固いブーツの底が胸元に当たり、ヴィーラが声にならない悲鳴をあげます。それでも、彼女は決してネディエを暴力の前に曝すことはしません。
「や、やめてよっ」
ミモルも部屋を見た時から想像はしていたものの、実際に目の前でルシアが子ども相手に暴力を振るうのを見たら声が上擦ってしまいます。
「ミモルちゃん、駄目!」
慌てて止めに入ろうとしたら、片手でいとも簡単に突き飛ばされてしまいました。それをエルネアがさっと受け止めます。
「……あんたのせいよ」
「――!」
なんでしょう。ルシアの言葉を聞いた瞬間、ミモルは全身を何かが貫くような、強い衝撃を感じました。
あんたのせいよ。あんたのせいよ。と、同じ言葉が頭の中で何度も木霊します。
「な……に……?」
五感の全てがざぁっと遠ざかり、目の前で起こっていることが硝子一枚を隔てた向こう側の出来事のような気がしました。
「ミモルちゃん?」
『ちょっと、ミモル』
どくんどくんと激しく脈打つ鼓動に混ざって、エルネアとリーセンが話しかけてくる声が聞こえます。直に感じられるのは、その二つだけでした。
『ねぇ、落ち着きなさいよ。ねぇっ』
唐突に暗闇が迫ってきました。何処かからは分からないけれど、何かが自分を捉えようとしているのだけは分かります。
「嫌だ……、嫌……。怖い、怖いよ!」
「どうしたの!?」
頭を抱えて膝を落とし、今やパニック状態に陥った少女をエルネアが強く抱きしめます。怒り狂っていたルシアや負傷したネディエ達も、一時息を詰めて異様な様を見つめました。
「嫌だ、来ないでっ!!」
パリン! と固い音を立てたのは、割れて転がっていたワインボトルです。
誰も触れていないのに、それは突然粉々に砕け、赤い染みの上に散らばりました。
「な、何だ……?」
「何が起こったって言うのよ」
ネディエとルシアが、ミモルとその破片とを交互に眺めます。それは、ある意味で今までお互いにあった確執などとは比べものにならない驚異でした。
「怖い、怖いよ……! やめて、来ないでっ」
ばんっ、ドンっ! ミモルが叫ぶ度に絨毯が弾けて焦げ、扉に穴が穿たれます。理由は分からずとも、彼女が原因であるのは明らかでした。
「大丈夫よ、私がついているわ。だから落ち着いて。誰もあなたを責めてなんていないのよ」
必死に優しく諭すエルネアを横目に、今度はミモルからネディエを庇って下がるヴィーラが、悲しげに呟きます。
「もともと危うかった制御を完全に失って、力がどんどん外へ溢れています。ルシアさん、貴女は叩いてはいけないドアを叩いてしまったのです」
「何ですって?」
事態を把握しているらしい天使達が、物憂げな表情を浮かべて領主を仰ぎました。
「……ミモルちゃんは、育ててくれた人を失ったのは自分のせいだと思っているの。今まではぎりぎりのところで自分を保っていたのに。きっと、『あんたのせいよ』という言葉を聞いて、歯止めが効かなくなってしまったんだわ」
小刻みに震えながらエルネアの中で叫び続けていたミモルの声が、徐々に嗚咽に変わっていきます。
「痛っ!」
ちりっとした熱のような痛みに、ルシアが顔をしかめました。手で触ると、薄く血が付いています。頬に浅い傷が出来たらしく、鈍くひりひりしました。
「それはミモルちゃんの痛み。そしてネディエがあなたに虐げられて感じていたはずの痛みよ」
『……もう、やめて』
声にはっとして、その場のいたミモル以外の全員がヴィーラを注視しました。いつの間にかネディエを手放し、一人立ち上がった彼女は雰囲気を一変させています。
苦しげに顔を歪め、哀れみの目でルシアを見ています。
「ね、姉さん? 姉さんなの!?」
『ルシア……。もう、こんなことはやめて』
天使の口をついて出てくるのは、遠くから聞こえてくるような女性の高い声でした。
室内の温度がいくらか下がった気がし、ヴィーラの全身はうっすらと青白く発光しています。
感じるはずのない寒気に誰もが瞠目し、天使の一部となって消えたミハイの魂が表層へ浮き上がってきていることを理解しました。
ルシアが夢を見ているような恍惚の眼差しで、両腕を広げます。
「姉さん、戻ってきて。私の体をあげるから」
経緯はどうであれ、こうして願い通り姉に出会えたことで真意がはっきりしました。
彼女がミハイの魂を欲したのは、自らの体を明け渡し、姉を復活させるためだったのです。しかし姉はゆるゆると首を振ります。
『諦めなさい。もう同じ存在と言ってしまえるくらいに、私達は繋がっているの。言葉を交わせるのもこれで最後。それに貴女の体を貰って生き返ることなんて、私は望まない』
語る口振りは妹への哀れみに溢れていました。
ルシアはまるで死刑宣告でも受けたかのように顔を歪ませました。驚きが悲しみに、やがて怒りへと変わっていきます。
「この街には姉さんが必要なのよ! 私じゃ駄目。私一人じゃ、ハエルアを導いてなんていけない!」
最後の別れを告げに来た姉を、ルシアはこの世に繋ぎ止めようと必死に懇願します。
叔母のそんな姿を目の当たりにして、今まで暴力に晒され続けてきたネディエは「あぁ、そうか」と呟きました。
彼女は、この街の行く末が心配で、不安で、たまらなかったのです。
姉妹揃って素晴らしい占者であることは確かでも、ミハイの能力は歴代の領主の中でも抜きん出ていました。
そんな姉がルシアは自慢でした。嫉妬すら生まれないほどに、二人の力には差があると、彼女自身が誰よりも感じていたのです。




