第三十三話 せかいの矛盾
『聴こえるわ、沢山の悲鳴が。それに、充満する血の匂い……。お願い、争うのはもうやめて。だれか、誰か』
リーセンの心に残る悲痛な声がミモルにも届きます。続いて聞こえてきたのは同じようで違う、低く冷静な別の声でした。
『あんたは何を望むの。助け? それとも救い?』
リーセンは女神の助けを求める心と、そう望んではならない自分の立場との葛藤から生まれました。なんのしがらみもなく、本音を言える存在として。
「あの時、あんたがやるべきだったのは先陣を切って戦場に突っ込むことじゃなくて、サレアルナの傍に居てやることだったんじゃないの?」
二人の会話から、シェンテが彼女の恋人であることは想像がつきました。
今、彼はかつて愛した人の影と向き合っているのです。その言葉は誰のものよりも重みを伴って響くはずです。
「説教など聞くつもりはない。消されたいのなら望み通りにしてやるぞ」
「自分のものを取られることが我慢ならなくて、相手の意見も聞かずに拳を振り上げる。ほんっと、あの時と同じ。そりゃ、あんな結末になったのも当然だわ」
「言わせておけば……」
背筋がぞっとしました。それはあくまでミモルだけの感覚であり、表で言葉を交わしているリーセンは意にも介さないようで、更に語気を強めます。
「ならやってご覧なさいよ。恋人の遺品なんて高尚なものを気取るつもりもないけど。……そうね、残りカスってところ?」
「……っ」
鋭い斬り合いのようなやり取りがぴたりと止みます。沈黙がリーセンの指摘を肯定しているも同然でした。
それもシェンテだけでなく、ディアルもクロノも手出しをするつもりはないようです。彼らとて、かつての仲間をやすやすと葬るほど冷たくはないのかもしれません。
『リーセン、すごい』
『何言ってんの、まだスタートラインにも立ってないわよ』
「それで?」
矛先を変えたのは少年の姿をした時の神・クロノでした。げんなりしているらしい口調は、とっとと本題に入れといわんばかりです。
少女は、大人びた微笑を浮かべます。これこそがリーセンの引き出したかったセリフなのだとミモルにも分かりました。
「要するに、私が言いたいのは半端者だからこそ見えるものもあるってこと。少なくとも、長い間こんな何もない場所に閉じこもって箱庭を眺めて満足してるだけのアンタたちには絶対見えないものよ」
攻守が逆転しているような感覚です。明らかに相手の方が強くてこちらには活路などないはずだったのが、いつの間にか全くの反対に変わってしまっています。
「へぇ、教えて貰おうじゃないか」
簡単に消されてしまう存在だったはずなのに、その身にもう一つの魂が宿っていることでこんなにも戦局が変わってしまうなんて、ミモルは想像もしていませんでした。
二人の魂は完全に重なり合っていて、どんな方法を用いても剥がすことは不可能です。消滅させることを彼らが躊躇っている間は、互いは対等と言えました。
『ほら、ちゃんと聞く耳を持たせたでしょ』
『う、うん。ありがとう』
『分かってると思うけど、こっちも「ネディエ達を解放しなきゃ死んでやる」なんて馬鹿げた手には出られないんだからね』
『大丈夫だよ。分かってるから』
ミモルはしっかりと頷きました。自分だけの体ではありません。そんな方法で目的を遂げても誰も喜ばないことくらい承知しています。
「ならば、それを見せてもらおう」
「え……」
気が付けばリーセンは舞台の袖へと下がり、ミモルは再び話し合いの場に押し出されていました。
見せろと言ったディアルの冷たい瞳は、今は確かに年端もいかない少女を真っ直ぐにとらえています。
「お前は世界に矛盾を感じているのだろう。それを如何なる方法に依って正す?」
「世界の矛盾……」
眉間に自然と皺が寄ります。ミモルが抱く違和感はまさしくそれでした。けれど、まだ胸の内に明らかな「答え」は見つかっていません。
「私は」
自分は望みを告げただけです。唇が小刻みに震えるのを我慢して噛みしめるばかりで、代案など何も出てはきません。
せっかくリーセンがお膳立てをしてくれた今になって、己の浅はかさに気が付いてショックを受けました。
ところがディアルは即答を求めず、その話は意外な方向へ転がり始めました。
「答えを見つけたいか」
その問いになら応えられます。ぐっと顔を上げて引き結んだ口を開きました。
「ここまでなんて、絶対に嫌です」
「……それについては我々も同感だ」
神々の視線が外へと向けられるのを感じます。単に光溢れる庭を見ているのではなく、天を抜けてはるか地上までをも見通しているように思えました。
やがて、ディアルがゆっくりと衝撃の言葉を紡ぎます。
「このままでは世界は終わる。天も地上もそして矛盾も全て、無と化すだろう」
「無と化すって……、それはどういう意味ですか?」
唐突な発言に、ミモルは頭が真っ白になりました。エルネア達も同様だったらしく、瞳を目一杯見開いて事態を見守っています。
「言った通りだ。神は永遠などと誰が決めた? そんなものは人間の作ったまやかしに過ぎない。直に我らは寿命を終える。我らの創った世界も崩れ去るだけのこと」
理解を本能が拒んだといった方が正しいでしょうか。硬直する彼女達に優しく声をかけたのはエレメートでした。
「もともと『僕ら』がもっと居たのは知ってるよね?」
ミモルがこくりと頷きます。
以前にムイが教えてくれた話によれば、神々が世界を作り、「使い」や天使や他の生き物を生んだけれど、やがてうち一人が離反して争いが起きました。
壮絶な戦いの末、離反した神・クルテスと女神サレアルナが長い眠りにつくことになったのです。
「今は『世界』を支えることが僕らのお仕事なんだけど、それがもう限界に来てるんだよ。生み出した世界を、たった四人で支えるのは骨が折れるってことだね」
「限界……」
エレメートは柔らかい表情でありつつ、瞳は悲しげに見えました。
神の力が途絶えた瞬間、天使も精霊も消滅するのだと彼は言います。地上に与える恵みや魂の循環、時の流れさえもが止まり、大地は次第に崩れていくのだと。
淀んだ空気の中、作物の育たない世界で起こるのは飢えや醜い争いでしょうか。
「地の底のようだわ」
エルネアの囁きを聞き、少女の脳裏にいくつもの恐ろしい場面が光の乱反射のように閃いて、眩暈を起こしそうになりました。
「ミモルちゃん、大丈夫?」
「う、うん」
よろけるその身をエルネアとフェロルが支えてくれ、その手は何よりも温かく感じられます。きっと彼らの存在こそが世界を支える手なのでしょう。
「……あの、エレメート様が私に味方して下さったのは、そのことがあったからなんですか?」
唯一、初めからミモルの気持ちを汲んでくれたのがエレメートです。もし、世界の寿命が迫っているからなのだとしたら、彼の言葉はがらりと意味を変えてしまいます。
「全くなかったと言えば嘘になるかな。でも、そんな理由がなくたって僕はあの二人を自由にしてあげたいと思ったよ」
綻んだ口元を見て、エルネアとフェロルも微笑み返してくれます。期待を裏切らない回答が嬉しく感じられました。
自分にはまだ沢山のものが残されていると信じることが出来たからです。




