第三十二話 かみがみとの対話
向かって右手には白い床に白い壁があり、反対側は緑あふれる庭になっています。
外に咲いていた花々と違うのは大きくて華やかなものが多い点で、それぞれが陽光の下で美しさを競っていました。
風景に思わず目を奪われかけたところで、声の主が視界に入ります。
想像したよりもずっと若い、と言ってもエレメートよりは年上の、黒髪に細い縁の眼鏡が印象的な青年でした。
その瞳は光を宿しながらも、声と同じくなんの感情も読み取れません。
『ディアルよ。カタブツなのは相変わらずみたいね』
耳の奥でリーセンの呆れたようなセリフが流れます。彼女も元は女神の意識の一部で、他の神々とも顔見知りだったことを思い出しました。
「随分と遅かったな。寄り道でもしていたのか?」
また別の声がして、今度はその目線をやや上に上げなければなりませんでした。
なにしろ背が高いのです。ミモルの周りの者達は皆、彼女より丈がありましたが、中でもこの銀髪を後ろで束ねて床まで垂らした男性は抜きんでた背の持ち主でした。
エルネアとフェロルが頭一つ分近く差があるとして、さらにもう一つ分はゆうにありそうです。
『シェンテね。相変わらずデカいわねぇ』
「これでも真っ直ぐ、急いで来たんだよ」
「ふん」
鼻を鳴らす音にミモルがびっくりして振り返りました。けれど、誰もいません。首を傾げていると、エルネアが小声で「下よ」と教えてくれました。
「えっ」
シェンテから元の位置に視線を下ろし、それから更に下げると、いつの間にやら見知らぬ少年がミモルを睨みつけています。
氷のような瞳に射すくめられ、続くリーセンの言葉に一層驚かされることとなりました。
『クロノよ』
『え、だって、子ども……』
「ガキにガキ扱いされるいわれはない」
「!」
ディアルと同じ黒髪でも、長さが違います。ポニーテール状に結われたその髪は、つやつやとしていて腰の辺りにまで伸びています。
『クロノは時を司るって教わったでしょ。好きな姿になれるの。まぁ、カミサマの外見ほどあてにならないものはないけどね』
ここでは心の中で思ったことさえ筒抜けのようです。文字通り、隠し事の一切出来ないやり取りが始まろうとしていました。
「人の子よ」
一度は降りた静寂を切り裂いたのは、知の神ディアルです。首を向けて確かめるまでもありません。
彼の声には感情が一切こもっておらず、聞き間違えようがないのです。
「は、はい」
「単刀直入に聞こう。お前はあの二人を解放しに来たのだな?」
「そうです」
揺らがぬ意思で挑まねばならない場だというのに、声が上擦りそうになります。胸の鼓動が加速しすぎて、心臓がそのまま口から出てしまうのじゃないかと思いました。
「何故だ」
それは、と答えかけてディアルの瞳とぶつかります。さながら森の奥深くに横たわる湖のような、さざ波すら立たない水面です。
「友人を救いたい気持ちは理解しないでもない。無知ゆえに己の命を投げ出すような愚を犯すことも、ままあるだろう」
すっぱりと切り捨てる言い様です。ある意味においては認めながら、結局のところミモルの決意も行いも、愚かだと判断したのですから。
「だが、悪魔の娘を助けたいという願いは我々には理解しかねる」
「お前、あれに殺されかけたんだろう?」
呆れた風に言ったのは戦いの神シェンテでした。彼も冷たい印象の男性には相違ありません。けれど、ディアルよりは幼い少女に同情しているように感じられます。
「今は無害そうだけどな、力が消えうせた訳じゃない。正しく成長する保証もない。こうなった以上は天で保護するってのが、俺達の意見なんだよ」
「へぇ、じゃあ再封印は取り止めたの?」
意外そうに問い直したのはエレメートです。どうやら彼が迎えにきてくれている間に、事態は変化したようでした。
「俺達だって、同じことを繰り返すなんて馬鹿な真似は望んではいないからな」
少年姿のままのクロノが面倒臭げに言います。腕組みをして立っている様は子どもの仕草とは思えないにしても、ミモルにはやはり奇異に映る光景です。
「娘よ。我々はネディエと呼ばれる少女の魂を正常に戻し、悪魔の血を引く娘はこの管理下に置くと決定した」
「まって下さい!」
ディアルの容赦ない言葉にミモルは慌てて反論しようとしたものの、彼は意にも留めずに続けました。
「エレメートはお前と同じ意見のようだが、これは我らが決めたこと。それでも会うことにしたのは、世の理を覆した人間に対する敬意だ」
まさに問答無用です。
「……あんたら、ほんと相変わらずね」
『!』
空気を変えたのは、今の今まで絶句して立ち尽くしていた少女――いえ、そこにはもうすでに畏怖に引きつれた表情も、祈りの形に握りしめた拳もありません。
腕組みをして偉そうな面々を睨め上げる勝気な瞳があるだけです。ただ、彼らの薄れかけた興味を引き戻すには十分な効果がありました。
「何を驚いてるのよ。さっきからあたしの存在も感じていたくせに」
「リーセン……」
名を呟いたのはシェンテです。その口調には明らかな狼狽が含まれており、後ろに控えた天使達は動揺せざるを得ませんでした。
長い間天に住んでいて、彼の顔色がこれほど変わる瞬間を見たことが無かったのです。
突然のことに驚いているのはミモルも同じでした。心配そうに名前を呼ぶと、リーセンが「待ってなさい」と優しげに囁きます。
『このふざけた男どもに、聞く耳ってやつを持たせてみせるから』
「ディアル、人間の子どもの言うことなんてハナから聞く気ないっての? 『同じことを繰り返すつもりはない』なんて良く言えたもんね」
「なに?」
冷静な痩身に剣呑な気配が混じり、エルネアとフェロルは内心震え上がりました。
知を司るといえど、彼も神のひとりです。本気でやりあえば一瞬で消されるのはこちらの方でしょう。リーセン自身感じつつも、その唇は滑らかさを失いません。
「そうやって、たった三人だけで何もかも決めて押し通そうとしてるうちは何も変わりゃしないわよ。そんな考えでよくも『神』だなんて名乗っていられるものね」
「満たないお前に何が分かる」
ミモルは一瞬、リーセンの心が熱を帯びるのを感じました。これまで生きてきた気の遠くなるほどの時間が、彼女の脳裏を駆け巡ったのです。
激情に駆られるかと思いきや、予想に反して唇からは冷笑が溢れました。
「そうよ、あたしは半端な紛い物。誰かさんの馬鹿な真似のせいで生まれた、ね」
「何だと」
言ったのは平常心を取り戻したシェンテです。狼狽はすでに消え、そこには明らかな怒りが浮かんでいます。
「彼女を愚弄するのか」
「違う。あんた達のことよ。あの戦いでどれだけの犠牲が出たと思ってるの。大勢の命が死に、大地が失われた」
「そんなことは言われなくても分かってる」
「じゃあ、あの時一番苦しんだのがサレアルナだったことも?」
「!」
リーセンの言う「あの戦い」をミモルも思い出していました。神代の時代に起こったとされる、女神を巡って神々が争った戦いのことです。
彼女は匿われ、恋人の守る塀の中で消えていく灯を想っては泣いていました。
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