第三十一話 半円状のとびら
「僕も、ミモルの言い分は尤もだと思うよ。ひとの命は短いもの……それをほんの少し伸ばしたくらいで目くじらを立てるなんて変だし、最期くらいはゆっくり眠らせてあげたいよね」
「……」
「あのおチビちゃんだってそう。生まれてから誰にも何も教えて貰えなくて、藁にも縋る思いで悪意ある言葉を信じてしまった」
ミモルにはまだ男女間の恋や愛など知りようもないものです。でもジェイレイの存在が、人間と天使が主従を超えたいと願った証なのだということは分かりました。
生まれた時は、それはそれは愛らしい赤ん坊だったでしょうし、生むと決めた両親の気持ちは並々ならぬものだったはずです。
きっと溢れんばかりの愛情を注いで育てるつもりだった……けれどそれは実現しませんでした。
天使は地の底へと追い落とされ、残された人間も娘を手元に置くことを許されず。
何も知らない哀れな赤ん坊は、封印という長い長い眠りの中で、父と母を奪った神々や世界を呪ったのでしょうか。
「……あの時、他の選択肢がなかった」
生まれてきたジェイレイには何の罪もありません。
そうかと言って、どんな混乱を招くか知れない子どもを、他の天使と同じように天で育てることも、地上で生を全うさせるわけにもいきませんでした。
「今思うと、あれは間違いだった。決断を先延ばしにすべきじゃなかった。結局、今回の事態を引き起こしてしまったんだから」
過去を知る者が封印を解き、偽りを囁きました。
心が空っぽのまま体と力だけが成長した娘は怪物へと成り果てて、失われた何かを得るためにミモルの前に現れたのです。
エレメートはぽつりと呟きました。
「襲われた君がその罪を許すなら、罰を与える権利なんて他の誰にもないんじゃないかな」
ミモルは涙が出そうになりました。未熟な子どもの言い分を、こんなにも受け入れてくれるなどとは思いもしなかったのです。
けれど、彼はそこで柔和な目を少しだけ細めて、「こう考えているのは僕だけだろうけどね」と言いました。
それは間違いありません。全ての神が彼と同じ考えなら、そもそも二人の少女の強制連行などというシビアな展開にはならなかったはずです。
「悲しみが繰り返されようとしてる。経緯も関係者も違うけど、最善だとは思えない決断が」
エレメートは行こう、と草原の向こうを指さしました。
「さぁ、試練はこれからだよ。他の三人を説得できなきゃ、君の望みは叶わない」
「っ!」
ごくりとノドが鳴ります。緩みかけた緊張感が一気に戻ってきて、背中が汗ばみました。
「あの二人を閉じ込めたままにしておくのは可哀想だから、僕も手伝ってあげるよ。まぁ、何かの足しくらいにはなれるかな?」
「本当ですか?」
事実ならこれほど心強い味方はいません。青年は花のように微笑んで頷く一方で、釘を刺しておくのも忘れませんでした。
「いいね、あくまで挑むのはミモルだよ。君の気持ちが本物じゃないと、僕がいくら助けても全くの無駄に終わる。これは大げさじゃなく、事実だ」
「はい。分かってます」
後ろでエルネア達も軽く頭を下げている気配が感じられます。少女の決意を認めると、エレメートはパチンと指を鳴らしました。
するとどうでしょう、景色が唐突に青い草原から白い廊下へと変わります。
ずらりと規則正しく並んでいるのは抜けるように高い天井を支えるための柱で、つるつるしていそうなそれが、右にも左にもどこまでも続いていました。
真っ白な通路を行き交うのは先ほどの子ども達とは違い、エルネアやフェロルのような大人ばかり。
のんびりとお喋りを楽しむ姿もあれば、荷物を抱えて先を急いでいる様子も見られました。無論、彼らの背にも当然のように真っ白な翼が生えています。
「これは……」
一瞬でどこかの神殿か城か、いずれにしても他の神々の居場所へと近づいたことだけは分かりました。
肌が泡立ちます。――感じるのです。エレメートと同じ気配がとても近くにあることを。
それにしても、どれほどの距離を瞬きする間に移動したのでしょうか。
ミモル自身、天へやってくる時に空間を飛び越えましたが、エルネアとフェロルのサポートなしには成し遂げられませんでした。
それを同じ世界の中でとは言え易々とやってのける彼に、改めて人間の常識で測れる相手ではないと思わずにはいられません。
「まっすぐに向かわれるのですか?」
「あんまり待たせない方がいいよ。みんな気が長い方じゃないからね」
エルネアの問いに、エレメートはすたすたと歩き出し笑い交じりに応えます。
やはり彼らは知っていて、そして待っているのです。たった一人の少女の来訪を。
エレメートに連れられるまま、ミモル達はしばらく歩き続けました。どこまでも伸びる廊下はぴかぴかに磨き上げられ、鏡のように4人の姿を映し出しています。
等間隔に並んだ扉はどれも美しい弦状の彫刻が施され、中には沐浴する女性などといった芸術的なものもありました。
それにしても長い廊下です。一体いつ辿り着くのでしょう。それでも、さすがに「まだですか」と聞くわけにもいかず、ミモルは黙々と歩みながら扉を数えていました。
こうでもしていないと、様々な不安が頭を駆け巡ってしまい、辿り着くまでに心が疲弊してしまいそうだったからです。
そんな行為にも飽きてきた頃、ようやく風景に変化が現れました。
「ほら、見えてきた」
まず、果てがあるのか怪しんだほどの長い廊下に、とうとう突き当りがあることを発見します。しかもどうやら白い壁ではなく、扉のようです。
近寄ってみて、少女は思わず「あっ」と声を上げました。初めて見るはずの扉に見覚えがあったのです。
射し込む優しい光で浮かび上がる陰影。上部が半円状に閉じられた形はまさに、エルネアやフェロルを喚び、力を解放する時にイメージするあの扉そのものでした。
「ただの想像だと思ってたのに……」
「ここは命の始まりを司る場所だからね。地上も動物も人間だってここから生まれた。だから、イメージとして刷り込まれているのかもしれないね」
命の始まりの場所。世界がどのようにして創造されたのかなんて予想さえ出来ませんが、表現しようのない感慨が胸に広がります。
「心の準備は良い?」
「は、はい」
そうでした。感動の余韻に浸っている暇などありません。これから命がけの戦いが始まるのです。
「みんなー、入るよー」
エレメートが呑気そうな声をかけると、触れてもいないのに扉は開いていきました。さぞかし重々しい音を立てるだろうと思ったのに、そよとも鳴りません。
壁や天井に囲まれた通路よりも明るいのが、漏れ出る光で分かりました。
「来たか」
扉の動きに目を奪われていたミモルは、はっとして声の方向を探します。たった一言がやけに響く、低く静かな声でした。
そこにエレメートやフェロルのような柔らかさはなく、かといって責めるでもありません。淡々と事実を告げただけのように感じられました。
◇評価ありがとうございます。




