第二十九話 ひらかれた楽園
大丈夫という確信が、疑問や不安を打ち消していきます。
ぐっと力を入れた両腕が小刻みに震え、体の内側から溜め込んだ怒りが堰を切ったように発散されていくのを感じました。
それは渦状の風となってミモル達の髪を巻き上げます。
『リーセン、巻き込んでごめん』
これからミモルがやろうとしていることは、容赦なくもう一人の自分を道連れにする行為でした。躊躇いがないわけではありません。
『あたしだって色々と言いたいことあるしね。この際、存分に巻き込まれてやろうじゃないの。毒を食らわばってことよ』
もう一人の自分の答えは実にあっけらかんとしたものでした。覚悟などとうに決めているから、余計なことに頭を回すなと言いたいのでしょう。
途端、きしみそうなほどの重量感から一気に解放されました。
あとは力の本流に身を任せるのみです。遮るものが何もない開放感は妙に心地よく、その感覚が最高潮に達した瞬間、「行け!」と自然に叫んでいました。
かっと何かが爆発したような光と熱に包まれて、視界は白に染め上げられます。
その白一色だった視界がじょじょに色を取り戻していくと、まず目に飛び込んできたのは夏空を思わせる高く濃い青でした。
「着いたの……?」
時折思い出したようにぽっかりと雲が浮かぶ光景は澄んだ空気を匂わせ、背伸びとともに深呼吸したくなります。
目がそれに慣れてきて、空からようやく大地を見下ろすと、今度は一面の緑です。生き生きと生い茂った草木で、地面に柔らかい絨毯が敷かれていました。
「あれは……」
それだけではありません。あちらこちらに、ピンクや赤やオレンジに染まった場所があります。歩み寄ってみると、一つの色で埋め尽くされた花畑でした。
小さな花や大きな花が寄り添って咲く様に、なんて色鮮やかなのだろうと感嘆してしまいます。緑の中に生まれた、明るい水溜りのようです。
「うわぁ」
しゃがんですぐ一輪を手に摘み取りたくなりましたが、逆にあまりにも完成された美しさに手が止まりました。
花畑はどれも綺麗な円形をしており、とても自然に出来たものだとは考えられません。きっと誰かが丁寧に手入れをしているのです。
「……?」
ふいに何かが聞こえて振り返った瞬間、ぱっと幾つかの花びらが水滴の如く散りました。
視界の向こうの方から、こちらに気付いた誰かが走ってくる気配がします。それがジェイレイと同じくらいの子どもたちだと分かった瞬間、胸のあたりがチクリと痛みました。
「見習いの子達ね」
「見習い?」
二人は変わらず傍に居てくれています。はぐれずに済んだことにホッとしながら聞き返すと、「まだ生まれて間もない子どものことですよ」とフェロルが教えてくれました。
言われてみれば、どの子も背中に小さな翼を生やしています。やはりここは地上ではなく、天にある楽園なのです。
「おかえりなさい!」
笑顔で近寄ってくる彼らは歓迎ムードで、殺伐とした展開を想像していたミモルは呆気に取られてしまいました。
「天へようこそ!」
そう言って少女が笑顔で差し出したのは花輪です。
花畑で摘み取ったのでしょう。ミモルが息を呑んだ美しいあの花畑から、それも何本も簡単に摘めてしまえるあたりに凄さを感じてしまいました。
「そろそろお客様が来るって聞いて、みんなで作りました」
「え?」
「はい!」
差し出す少女の勢いに気圧されるように受け取ると、花の冠はほんのりと暖かく、歓迎の気持ちが胸にじんわりと広がります。
それにしても、客の来訪を知っていたとはどういう意味でしょうか。この雰囲気からして、ネディエやヴィーラ、ジェイレイが連行されてきた件ではないように思えます。
「あなた達、誰からそれを聞いたの?」
「エレメート様です」
エルネアが問うと、今度は別の子がはっきりと答えました。聞き覚えのない名にミモルが首を傾げると、パートナーがすかさず「天を治める方の一人よ」と補足してくれます。
考えてみれば、勢いで飛び込んできてはみたものの、ミモルは天がどんな場所なのか何も知りません。
「さぁ、こっちです」
子どもたちはどこかへ三人を案内しようとしましたが、このまま突入するわけにもいかないとも思いました。
「待って。行く前に色々聞いておきたいことがあるの」
「想像していた流れと違っているようですし……」
「そうね」
エルネアは子ども達に、あとからすぐに行くから案内は必要ないという言づてだけを頼みました。彼らは一瞬顔を見合わせ、すぐに走っていってしまいます。
「凄くあっさり引き受けてくれたね」
「エルネアさんが、神々の信頼の篤い方だからですよ」
「そうなんだ……」
やはりエルネアは重要な天使の一人のようです。本人は唇に薄く笑みを浮かべると、すぐさま真剣な表情に戻りました。
「あまりお待たせするわけにはいかないわ。エレメート様の神殿までの道すがら、天について掻い摘んで説明するわね」
「うん。お願い」
意気込んできた分拍子抜けした心地はあるものの、このままトントンとは進まないでしょう。必ず来る衝突の時に知識不足で足をすくわれないよう、ミモルも頷きました。
踏みしめると緑の絨毯は柔らかく、歩く者を労わるかのようです。空気は澄んでいて、薄く花の香りを含んで甘い気分にさせました。
「今、神様は何人いるの?」
エルネアの先導で歩き始めたミモルが最初にした質問がこれでした。
女神を巡る戦いの折、大昔に起こった神々の争いについての話の中で聞いた気もしますが、あの時は一度にたくさんのことがあり過ぎました。
全て覚えているかと問われれば自信はありません。
「4人よ。正確には4柱と数えるのだけど、耳慣れないかしら」
続けて、エルネアは彼ら――四神の詳しい説明をしてくれました。
「まずはディアル様ね。ありとあらゆる知識を司る神様で、私の生みの親でもあるわ」
「エルの……お父さん?」
名前の響きから、なんとなく男性のような気がします。エルネアも「えぇ」と応えました。
「常に冷静で必要以上のことは仰らない物静かなお方。あのアルトが仕えているのもディアル様よ」
空間を操るほどの実力を持ちながら常に一歩引いた姿勢のアルトを思えば、ディアルがどのような人物かは容易に想像できます。
「次にシェンテ様。戦いを司り、天において最も強い力をお持ちのお方よ」
「戦いの神様……」
人は争う時、戦いの神に勝利を祈ることがあると本で読んだ覚えがあります。
それは何かを奪うためであったり、誰かを守るためであったりするのだけれど、行われるのは「戦い」で、互いに血を流し、力のない者が涙するのは同じです。
ミモルは「ちょっと悲しい」と言いかけてやめました。フェロルがぽつりと、自分を生んだ存在であると呟いたからです。
「安心して下さい。時に厳しいことも仰いますが、ミモル様が想像されるような恐ろしい方ではありませんから」
その声音は、エルネアがディアルについて語る時とは違った何かを含んでいるように思えました。




