第二十八話 さむざむしい想い
「失うこと以上に、そもそも触れることすら叶わないことの方が何倍も辛く思えるんです」
天使は主人である人間の生の終わりまで付き添い、肉体から魂が離れれば共に天へと戻ります。
「人はそんなに長く生きられないもんね。天から見れば、人の一生はほんの瞬きみたいなものかも」
「でも、その瞬きは眩しくて濃いものよ。あなたは何も得られなかったの?」
いくら記憶を封じられても残るものはあります。彼の所以の分からない焦燥感も、それを証明するものの一つのようです。
エルネアは怪訝な表情で後輩の腕に触れました。程よく引き締まっていて温かさも感じるけれど、それと同じくらい伝わってくるものがあります。
突然、彼女は両手を広げてぎゅっと抱きしめました。
二人の背丈の差では「抱き着く」といった方が正確かもしれませんが、強く、ちょっとやそっとでは離れられないほどに腕に力を込めてです。
「え、エルネアさん?」
抱き着かれた本人は当然、ミモルもスフレイだって驚いて口を開けました。
「もう、どうしてもっと早く言わないの」
見上げてくるエルネアの眉間には皺が寄っていて、フェロルは何を怒られているのだろうかと首を傾げました。
「『寂しい』って訴えているじゃない。自分で分からない?」
「あ……いえ、その」
彼の顔がかあっと赤くなりました。あとはただ息が漏れるのみで、どこかばつが悪そうです。
「騙されてたわ。冷静で、経験もあって、一人で大丈夫なのだと思い込んでた。まったく、少しは弱音くらい吐きなさい?」
ミモルも近寄って、フェロルの腕に触れました。途端、雪空の下に一人で放り出されたような寒々しさが全身を痺れさせます。
言葉に表し難い感覚の正体は、先ほどエルネアが言った通り「寂しさ」なのでしょう。
でも、これほどに強い孤独感は、人気のない森の中で義母に育てられたミモルでさえも味わったことのないものでした。
「ごめん。気付かなくて」
少女の、一度は止まった涙が再び溢れてきそうなトーンに、彼は困ったように「謝らないで下さい」と笑ってみせます。……思えば、こうして触れたのは何度だったでしょう。
ミモルは勝手に、相手が大人の男性であるがゆえの距離感だと思っていました。
エルネアとするように手を繋いだりするのはおかしいことで、だから必要以上に近付いてこないのだと決め付けていたのです。
「僕の中に『相応しくないもの』があることは解っていました。出来るだけ早く解決したいと思っているのですが……」
落ち着いて思慮深く見えた青年はその実、自分でも理由の分からない「寒々しい思い」を抱えて生きてきたようでした。彼はそっと、二人から離れようとします。
「これはいわば病魔です。うつすわけには」
『ばかっ!』
わんわんわん……と耳の奥で何度も繰り返されるほどの大音声に、フェロルは目をぱちくりさせました。
背中側にはミモルがぴったりとくっついていて、前と後ろから同時に叫ばれれば耳が痛んでも当然です。
ただでさえ能力の高い耳が、今度ばかりはアダとなってしまいました。
「私達は家族なの。家族は誰かが苦しかったら、助け合わなきゃいけないんだよ」
「困った弟が出来たものだわ」
エルネアは彼の青い髪をかきあげ、姉が弟を可愛がるように頭を撫でます。きょとんとしていたフェロルは、あえて抗わず目を閉じました。
「何年、天使をやっているのかしら。寂しさは一人で癒せないものよ。呆れちゃうわね」
「でも、僕のこれは……」
ただ寂しいのとは違うと、エルネアもミモルも感じています。根がとても深く、触れているところからこちらまで冷やされてしまいそうです。
「病気になったら、原因について考えるのも大事だけど、まずは暖かくしなきゃ」
ミモルの声が触れたところから振動となって伝わりました。
人は風邪をひいたら栄養のあるものを食べて眠ることで、病気に打ち勝つ活力を得ます。
「ちっとも足りていないみたいだから、私達で分けてあげないと。ね?」
「そうそう」
冗談めかした言い方でしたが、フェロルは満足感を感じました。どこか懐かしい感覚に、きっと昔は自分にも「それ」があったのだろうと確信します。
どうして失ってしまったのかは思い出せません。けれど、今は何も考えないで二人の声に耳を傾けていたい気分でした。
「おい、お前ら。俺のこと忘れてるだろ」
途中から壁にもたれて見ていたスフレイが、痺れを切らしてとうとう話しかけてきます。呆れ顔の彼に、エルネアが見る相手をうっとりさせるような笑顔で応えました。
「あら、そんなつもりはないのよ。羨ましいのなら、一緒にどう?」
「あ、アホかっ!」
「スフレイはネディエが帰ってきたらやって貰いなよ」
「み、ミモルまで……。揃いも揃ってふざけたことを。俺は先に帰るからな!」
そう言いおいて、出て行ってしまいます。その怒った様子がおかしくて、残された三人は目を合わせて笑いあうのでした。
昨日までしていた生活の音が失われた村にも、変わらず今日の終わりを告げる夕日が訪れます。
「じゃあな。くたばるなよ」
長く伸びた影と共に去ろうとして数歩進んだスフレイが、振り向きざまに短く言いました。ミモルは柔らかく微笑んで頷き、顔を引き締めてから軽く胸を叩きます。
「ネディエのことは任せてよ」
「あぁ。雇い主が戻ってこなきゃ、貰えるモンも貰えないからな」
「タダ働きになっちゃうもんね」
茶化した会話ながらも互いに言いたいことは伝わりました。彼もそれきり踵を返してさっさと行ってしまいます。
背中が消えるまで見送ったあと、ミモルは振り返って二人に視線を向けました。
「あの夢の意味が分かったよ」
『もう我慢できない』と激しく憤り、エルネアとフェロルの制止を振り切って何かをしようとしていた夢です。
「あれは……誰の言葉にも耳を貸さずに突き進もうとする私の姿だったんだ」
困ったご主人様だわ、とエルネアが苦笑します。
「一人で行くつもりだったのね?」
「僕たちが袂を分かつと……そうお考えだったのですか?」
「だって、消されちゃうかもしれないんだよ」
夢では大事なものを奪われた怒りで頭がいっぱいになり、これ以上誰も巻き込むまいと独走した自分。きっとあの先に待つのは恐ろしい結末だけです。
「怒りの火みたいなものはこの胸にあるよ」
それは業火のごとく燃え盛るのではなく、青く仄かな火です。燃えるべき時に備えて、静かに身を潜めています。
「二人とも、本当に良いんだね?」
「ここで引き返すくらいなら、翼を引き千切った方がましよ」
恐ろしいことをさらっと告げるエルネアに、ミモルが「やめてよ」と頬を膨らませました。その怒りを鎮めたのはフェロルの言葉です。
「僕たちにも火が灯されましたから」
「……じゃあ、行くよ」
「扉をイメージして」
エルネアの言葉に従えば、暗闇の中に扉はすぐに現れました。彼女と初めて出会った時から何度も見た、重そうなあの扉です。
その向こうに天使や神々の世界があることを知っていても、生きた人間が行くことは不可能だと思い込んできました。
いえ、ともすればそれは真実で、くぐった瞬間に死んでしまうのかもしれません。恐怖を抱いたまま、ミモルは扉から溢れる光の中へと飛び込んでいきました。
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