第二十七話 間違いでも正解でもなく
「マスター」
「こうなっては仕方ない。必要に迫られれば、私は神とだって戦うさ」
ふっと笑うネディエに、ヴィーラは静かに「お供します」と告げ、アルトに促されて結界内に踏み入ります。
物騒な一言は側近も聞こえなかったふりをしてくれたらしく、咎められることはありませんでした。
「おいおいマジか。お前らそれで良いのかよ!」
全員が納得しかかっている空気にたった一人、スフレイだけはいきり立ちました。
「お前ら何、解決したみたいな顔してんだ。そこの人使いの荒い嬢ちゃんはいなくなった方が、そりゃ俺だってせいせいするけどな。曲がりなりにも雇い主なんだ。連れていかれちゃ困るんだよ」
「黙っていろ。これは私とヴィーラの問題だ」
まくし立てる彼を止めたのは、他でもなくネディエ本人です。静かにじっと見つめ、言い含めるようにゆっくりと告げます。
「ルシアさんには事情を説明しておいてくれ。そうすればお前だって悪いようにはされないはずだ」
「ンだと、手前ェ。馬鹿にしてんのか?」
まるで子どもを諭すような言い方に、スフレイが怒りで顔を赤くします。それでもなお少女は態度を変えずに、最後にこう言いました。
「待ってろ。すぐ帰る」
「……」
あまりにきっぱり宣言されてしまったせいか、彼はそれ以上何も言えなくなってしまいました。
「話はついた? じゃ、そういうことで」
「失礼致します。またお会いしましょう」
ドライなムイのセリフを期に、アルトが耳慣れない言葉を二三呟きます。
すると結界の内側が光に包まれ始め、カッと一際強く輝いたと思ったら、5人の姿は跡形もなく消え去っていました。顔を背け、壁に向かってスフレイが毒づきます。
「……馬鹿野郎が」
湯気が途絶えて久しい、飲みかけのカップが寒々しく並んでいます。ミモルは長い間、ネディエ達のいた空間を眺めてぼんやりと立ち尽くしていました。
様々に入り混じる感情の整理をしているのだと思ったエルネアとフェロルは黙って見守り、スフレイもあえてすぐに何かしようとはしませんでした。
「……何が正しい選択だったのかな。間違ってたとは思えない。思いたくないだけなのかもしれないけど」
ネディエは命をかけて自分の信じるものを守ろうとしました。その必死な思いに、ムイは使命との板挟みの間で出来るぎりぎりの譲歩をしてくれたのでしょう。
そう言うと、苛立ちの収まらない男が噛みつきます。
「あれのどこが慈悲深いってんだよ!」
「誰にも破れない結界を作れてしまえる力の持ち主だよ。本当に任務を第一にするなら、魂を無理にでも引き抜いて分離すればいいだけの話だったはずだもの」
ネディエを傷付けたくはないけれど、アレイズの魂は持って帰らなければならなりません。エルネアが言います。
「あの二人には、私達に命令する権限だってあったの。ジェイレイのこともそう。あそこでミモルちゃんが抵抗していたら、交渉は完全に決裂して、今頃は……」
「……くそったれ」
ミモルはふと、もし自分が『ジェイレイを守って』と二人に頼んだらどうなっていただろうかと想像しました。
エルネアは神の使い達に迷いなく襲い掛かったでしょう。立ち向かっていく背中が、主に見せる最後の姿だと理解していてもです。
フェロルは両方を説得する道を選ぶような気がしました。
思考は何度繰り返しても同じところに帰結します。――やはり選択は間違ってはいなかったのだという結論に。
「でも私、正しかったって胸を張れない」
誰も傷付かず、自ら最期を選び取ったアレイズ以外の死者も出ませんでした。素直に喜ぶべきことです。
けれど、苦しむ友人を助けられませんでした。泣きじゃくる子の手を離してしまいました。
「あんなの間違いでも正解でもないよ。……悔しい」
胸が何かで塞がっているようです。苦くて大きくて重くて、苦しい何かで。
何が正解なのかも分からず、そしてそれを選ぶことが出来なかったことが、涙が出るほど悔しく思えました。
『ねぇ、リーセン』
『何?』
もう一人の自分に問いかけます。彼女はいつものように平たい調子で、「そこ」にいることを教えてくれました。
『まだ、間に合うかな?』
『ま、なんとかなるんじゃない?』
相変わらず素っ気ない声が嬉しく、彼女の「お墨付き」があれば、どんな難題も簡単に解けてしまえる気がします。
涙が止まった目を乱暴に擦って、ミモルは口を笑みの形に歪めました。
「私、もう我慢できないの」
「……?」
悲しみに暮れていたはずの少女の変容に、皆が気付きます。先ほどまでとは明らかに雰囲気が変わっていました。
具体的にどこがどう、とは言えません。卵の殻を割ってヒナが生まれた瞬間を見たような、不思議な感覚でした。
「自分で言って分かった。『間違いでも正解でもない』ってことが」
目の前に立っているのは、先ほどまでの運命に惑う子どもではありません。今や瞳に宿る光は、見る者を焼いてしまいそうに強く放たれています。
その光に触発されたスフレイが笑います。
「何かやろうってのか? じゃあ俺も乗るぜ」
「ううん。スフレイはネディエに言われた通り、ハエルアに帰って」
「はぁ?」
「ルシアさんに伝えてあげて。『ネディエもヴィーラも絶対に帰ってくる』って。『お帰りのパーティの準備をして待ってて欲しい』って、ね」
纏う空気が透き通って清々しく感じられます。妙にさっぱりとしてしまったミモルに、スフレイは不思議と怒る気も失せてしまい、静かに頷くだけで返しました。
その顔が、先ほどのネディエと同じものだったからです。代わりに「お前はどうすンだよ」と問いかけます。何かに吹っ切れた顔で少女は言いました。
「正解を探しに行くの」
まだ幼いと言っても過言ではないミモルが、一つ先へ進んだことは明らかです。
これまで抱いていた疑問や不安や恐れといったあやふやなものに、ついに答えを出そうと決意したのだと。
「どこまでも一緒に行くわ」
「僕達にも、貴女の『正解』を探すお手伝いをさせて下さい」
エルネアとフェロルにはミモルが何をしようとしているのか、もう解っているはずでした。その上で連れていって欲しいと言っているのです。
「ここで別れれば、二人は辛い思いをしなくて済むんだよ?」
事が事だけに、すぐに了承することは出来ません。念を押すと、金髪の美女はクスクスとさもおかしそうに笑いました。
「ミモルちゃんを一人で行かせるより辛いことなんてないわ」
「エル……ありがとう」
想像した通りの答えに、胸に満足が暖かさとなって広がります。それは指先や髪の毛一本に至るまで浸透し、勇気へと形を変えました。
「フェロルはまだ私と会って間もないんだし、無理しなくて良いんだよ」
とても濃い日々を共に過ごしてきたようで、実はまだ半月も経っていません。フェロルには使命以外にミモルへ肩入れする理由はないはずです。
けれど、これまでは常に一歩引いていた青年は、はっきりと首を横に振りました。
「僕はもう、何かを得られずに終わるのが嫌なんです。今度手を伸ばして掴めなかったらと、考えるだけで恐ろしい」
「どういう意味?」
「……自分でもうまく説明できません。もしかしたら前の主人との間に何かあったのかもしれないとは思っているのですが」
それは彼の過去や内面に触れる話でした。




