第二十三話 最初のいけにえ
「確かにあれは魂の光だったけど、そんなはず……」
エルネアが渋々ながら認めたことであの青い光がアレイズの魂であることは理解しました。でも、「本来の持ち主」とはどういう意味なのでしょう。
ヴィーラのそんな驚くべき言葉にも、ネディエはさして態度を崩しません。皆が質問攻めにしたい気持ちを抑えて、話してくれるのをじっと待ちました。
「ヴィーラを召喚したばかりの頃のアレイズは、ちょっと勝ち気で、でも根は素直な普通の少年だったようだ」
美しく優しいパートナーを姉のように慕い、二人は本当の姉弟みたいに仲良く過ごしていました。
日々は澄んだ川のように輝いていて、あっという間に流れていきます。
ある日、そんな二人を何の前触れもなく恐怖が襲いました。エルネアも参加したといわれる、突如現れた悪魔との戦いです。
繰り返される命のやり取り。何人もの犠牲者が出たであろう辛い現実……。
「アレイズ様はお優しい方でした。これ以上誰かが血を流すところを見ていられないと、渦中に身を投じていかれたのです」
話に聞く限り、その境遇はネディエに似ているようでした。悪夢の訪れの当事者でない、巻き込まれた被害者。数百年前の少年もその一人だったのです。
そして、そんな極限状態が教えてくれたのは、魂をすり減らしてでも自分に尽くしてくれるパートナーの痛ましいまでの献身でした。
「奴はかつての戦いの中で、天への疑惑を深くしていった。どれだけ足掻いても報われない仕組みへのやり切れなさが、どんどん募っていったんだ」
『どうして神々は自らの手でなんとかしようとしないのか』
血が幾度となく流れ、見知った者もそうでない者も次々に倒れていきます。
『世界を形作るほどの力があれば、こんな悲劇を生み出さずに済むはずなのに……!』
遣る瀬無さは痛みとなってネディエを苛みます。魂を引き受けてしまったせいで、まるで自分が体験したように感じるのでしょう。
やがて、数えるのも馬鹿らしくなるほどの血や涙を流す日々の果てに、彼は知りました。悪魔が、薄い氷一枚を隔てただけの存在だという事実を。
『悪魔が、神に背いて見捨てられた天使だったっていうのか? なんだよそれは。全部ぜんぶ、奴らのせいってことじゃないか!』
失望は深く、心のどこかに残っていた最後の糸をぷつりと絶ってしまいました。
「幾らもしないうちに悪魔は倒されたが、アレイズの気持ちは暗いままだったようだ」
共通の敵がいなくなり、仲間達は故郷へと去っていきます。とある少女は元の日常に戻る道を選び、とある少年は禁を犯したために孤独な運命へと落ちました。
そして、今まで闇に包まれていたもう一人の人間の行く末は。
「彼は、何をしたの」
「……天使を神の支配下から解き放つ方法を探し始めたんだ」
彼の心の声が、ネディエの口を通して語られます。
『奴らは必死に足掻いてる俺達を見下ろして笑ってるんだ。簡単に殺されたら面白くないからって天使を付けて、これで勝負が少しはマシになるだろうって!』
当時の彼らには、天使を召喚する仕組みの「そもそも」など知りようもない話でした。
知ったとしても、女神を巡る悲しい物語が救いになったかは疑問ですが、それゆえに彼の中ではこれが「事実」となったのです。
快活だった少年は、創造主を呪いました。人間も天使も悪魔も、神々の前ではゲームの駒でしかないのだと思い込んで。
「私の言葉は届きませんでした。そんなはずはない、天は地上を見守り、助けるために私達を遣わしたのだと伝えても、優しく微笑むだけで……」
二人の心は繋がっているはずなのに、会話は一向に噛み合いません。ヴィーラは恐ろしい思想に傾倒していく主を止められず、長い間苦悩し続けました。
「誰かに相談すれば、アレイズ様は罰せられ、私も天へ連れ戻されたでしょう。それは嫌だったのです」
細い細い針の穴に糸を通すような緊張を強いられた後に、やっとの思いで掴んだ慎ましくも安息の時間。何も出来なくても、せめて最期まで傍にいたかったのです。
「でも、それは間違った選択だったかもしれません。あの時、手段を選ばず止めていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのですから」
今更、たとえ話をしたところで無意味だと解っていても、思わずにはいられません。
沈黙が訪れかけ、ミモルが「それで」と続きを促しました。今は静かに思考を巡らせる時ではないからです。友人は頷き、続きを語り出します。
「奴は自分ひとりの奮闘では足りないと認めざるを得なかった」
当然でしょう。天とたった一人で渡りあおうなどという思考は、勇敢ではなく単なる無茶無謀の行いです。
「だから、組織作りを始めたんだ」
いきなり誰かを抱き込もうとしても、反発され、追われるのが落ちです。それを予測したアレイズは、各地をまわって種を蒔くことから始めました。
契約者を探して知り合い、楽しい会話の隙間に天界の良からぬ噂を織り込んで不信感を植え付けます。
種が胸の中で芽吹き、心に根を張り、いつか大樹へと成長する日を待つために。
「自分でも反吐が出るような行為だと思っていたようだ。何も知らず平和に暮らしている人間に、無用の不安を与えているのだから」
何度も止めようと思い、その度に見上げたのは、戦いを共に潜り抜けたパートナーの顔です。
ここで止めたら苦しむ天使をまた生み出すことになると、決意を新たにするのでした。その行為こそが、彼女を苦しめていることから目を背けながら。
「そんなのタテマエじゃねぇの? 『呑気に平和ヅラしやがって』ってことだろ」
スフレイが嘲り、ネディエも「否定は出来ない」と返します。
「あとは、種が芽を出し、十分に育ったと思える者達を同志として集めることで、数を増やしていく。……それでも目標には遠く及ばなかった」
女神の血を引く者は、その運命ゆえに強い意志を持ち、天使に導かれるゆえに善良な心を持ちます。彼らを仲間に引き込むのは容易ではありません。
大っぴらにも出来ず、アレイズは再び壁が立ちはだかるのを感じました。
『こんな調子じゃ、達するのはいつになるか。くそっ、どうしたら……!』
アレイズもその頃にはすでに青年期をまわっており、若い時間は減っていく一方です。数十年かけて集団を大きくしたとしても、その時に老いていては話になりません。
彼はあまりに短かすぎる人生を嘆きました。
「しかし、強大な壁は逆に新しい閃きをも奴に与えることになる」
「ひらめき?」
「根本から計画を見直すことにし、結果、次代へ引継ごうと考えたんだ。……それも何世代にも渡って」
作った集団を組織化し、仲間を増やしながら受け継いでいく計画です。
「そんな無茶な」
フェロルの呟きが、話を聞く全員の意思を代弁します。
人間の寿命は長くて数十年です。数百年も一つの思想を変容させずに、それも密かに持ち続けようなどとは、それこそ無謀な行いです。
「仮にも天を引っ繰り返そうなんて話だ。数世代先の世まで伝わるか、それとも自然と時代の波に呑まれて消え去るか、はたまた見つかって潰されるか。アレイズにとっても壮大な博打だった」
呆気に取られていたミモルが待ったをかけます。
「それじゃあアレイズ自身は目的を達せないよ。どうなかったか見届けられないじゃない」
「……そのために、奴は自分の身を最初の生贄にしたんだ」




