第二十話 おそろしい誘い
「……」
ミモルはどう答えれば良いのか分かりませんでした。一度強く打った鼓動の音は、止むどころかどんどん大きくなっています。
「……わたしは」
エルネアがそれで良いと言うから、自分も承諾する?
フェロルが神の意のままにと微笑むから、飲み込んで首を縦に振る?
『どう考えたって出来ないよ』
これまで出会ってきた者は全て、傷つき、泣いて、憤って。幸せになりたかった。誰もが、ただそれだけのために痛みを抱え、苦しんでいました。
「馬鹿なことを言わないで」
そんなミモルをなおも強く庇い、エルネアが詰め寄ります。
「天使を狩るあなたこそ、この世の害悪だわ。何度も私達を襲わせておいて、今度はどんな罠を仕掛けてるの?」
目の前の青年が誰だったとしても、たとえエルネアのかつての仲間だったのだとしても、今は敵です。彼女の態度はその一点において揺らぐことはありません。
華奢とも言えるその肩を、頼もしく感じられるのはそのためです。
「随分な思い違いをしているみたいだから言っておくけど、俺は天使を殺させる指示を出したことは一度もない」
「おいおい、じゃああの噂はなんだってんだ? 天使を捕まえて売り飛ばすとか、主人を殺しちまうってのは」
からかう口調で挟んだのはスフレイで、「ぜひご高説賜ろうじゃねぇか」と付け加えました。
「まだ気づかないんだ?」
ぱちん、と指が鳴りました。
すると、先ほどまで何もなかったはずの空間に、突然いくつもの気配が生まれます。それも一つや二つじゃなく、数えられないほどの多さです。
びっくりして外へ飛び出すと、家を何者かが取り囲んでいました。村人達です。
やはり罠だったのでしょうか。虚ろな瞳のヴィーラを連れ、これだけの数の人間を傷つけずに倒して逃げ出すのは、かなり難しそうに思えました。
「待って、違うわ。彼らを良く見て!」
「えっ?」
ミモルには、清潔そうな身なりをした村人達に見えました。目を凝らせば、その中には道を教えてくれた人もいます。
が、それも数秒の間だけで、すぐに違和感に気が付きました。
「これで分かった? 俺は天使を売りとばしたりしていないし、主人を殺させてもいない。だって――彼らはここにいるのだからね」
『そうだ。この感じ……エルやフェロルと同じだ』
最後に急ぎもせず家から出てきた青年のセリフを、目の前の光景が証明しています。
狩人に狩られた者達は、殺されたわけでも金持ちの手に渡ったわけでもありません。この村に集められていたのです。
足の裏が地面に張り付いてしまったみたいでした。動きたくても動けず、どう動いていいかさえ分かりません。
「天をひっくり返してやりたいって考えたのは、俺だけじゃないってことさ」
「あ……ありえないわ、こんなこと!」
にやりと笑う青年に、エルネアが声を絞り出します。
集まってきた者達の手には何も握られてはいません。こちらを襲うつもりはないのでしょうか。
ただし、本当に天使が混ざっているなら、素手でも十分に戦えるはずです。
一瞬、操られているのかもしれないとも思いましたが、彼らの眼差しは意思あるものの輝きを放っています。
「何をしているか解っていて、ここにいるんだ」
ネディエの声は掠れ、全員に、とても恐ろしい光景を見ているという自覚がありました。
彼らは神に、創造主に刃向おうとしています。それが死より重い罰への道だと知った上で。
幾重になった人垣のどこかで、誰かが「もう、こんなことは終わりにするんだ」と呟きました。
「離れるのは嫌」
「忘れるなんて出来ない」
呟きは引き金となってあっという間に広がり、ざわざわという音の波に変わります。
「目を覚ましなさい!」
エルネアが彼らの前に進み出て一喝します。
「私達の使命を忘れたの? 地上を守り、安寧を保つべき我々が、天に仇なし自ら争いを起こそうだなんて」
そうです、と続けたのはフェロルです。真面目な彼も、同胞をこのまま放っておくことは出来なかったのでしょう。
「僕達を生み出し、地上を創造したのが誰だったのか思い出して下さい。神々に抗おうなどと……敵うはずがありません」
「説得しようたって無駄。そんな言葉で揺らぐ決意なら、そもそもここにいないさ」
青年の言葉は正しく、どれだけ二人が心を砕いて説得しようとも、彼らは耳を貸そうとはしませんでした。
これほど悩んでしかるべき呼びかけに、逡巡すら見せないのです。そんな段階はとっくに超えてしまったのでしょう。
「それに俺達は、別にカミサマを倒そうなんて突拍子もないことを考えてるわけじゃない」
「なんですって?」
頭が混乱します。彼らは神々に戦いを挑もうと考えているのではないのでしょうか?
「ただ要求を呑ませるだけさ。こんな馬鹿げた仕組みは今すぐ変えろってね」
「じゅーぶん突拍子のないセリフに聞こえるぜ?」
まぁ俺が言うのもなんだけど、とスフレイが茶化しました。
「そうかな? 交換条件に出す人質なら両手にあまるほどいるんだ」
青年が両手を広げて微笑むと、ミモル達の背筋に悪寒が走ります。
人質。それが目の間の人間と天使を指していることは疑いようもありません。
「極めてシンプルだろう? 要求を呑まなきゃ」
「やめて!」
その先を聞きたくなくて、ミモルは声を上げました。
「ない知恵絞って考えたんだ。いくら頑固なカミサマだって、大事なコドモのためなら取引に応じてくれるんじゃないかとね」
捻じれている。そう感じずにはいられません。
「狂ってるわ。大事なものを守るために、その大事なものを交換条件に出すなんて、矛盾してる」
同じ感想を抱いたエルネアが痛烈に批判しても、青年は涼しい目でちらりと一瞥しただけで、少女にそっと片手を差し出しました。
「一緒に救おう。彼らを」
「一緒に?」
恐怖に凍りつくかと思ったら、違いました。不思議なことにその手は厚く、大事なものを掴めそうな暖かさに溢れて見えたのです。
「敵だと思って牽制しようとしたのは事実だ。でも、実際に会ってみて同じ考えの持ち主だと分かった」
「同じ……」
ジェイレイをけしかけたのも、部下を差し向けたのも、あくまで目的を遂行するのに邪魔な者を排除するため。殺すつもりはなかったのだと彼は言いました。
「じゃあ、どうしてジェイレイにあんな真似させたの?」
「おチビちゃんには、時間稼ぎをして貰おうとしただけさ。眠っていたのを起こしてやった代わりに。悪魔を消した者なら、天使に戻る方法を知っているだろうと告げたらすっ飛んでいったよ」
無論、ミモル達がそんなことを知るはずもありません。出まかせを言っただけです。
ただ、人との関わりを持ってこなかったジェイレイには、どうすればそれを知ることが出来るか、想像もつかなかったに違いないのです。
結果、強行に走った――彼の話が嘘でないことを前提にすれば。
「なら、シュウォールドで私達を襲ったのは?」
あの時、間違いなく命の危険を感じました。自分達を殺すつもりだったのだと断言できます。
「下っ端だったから、命令をはき違えたんだろう。それにあの程度の奴らに、エルネアの相手が務まるはずもない」
つまり、最初から負けると解っていて差し向けたことになります。
敵か味方か。戦うべきか信じるべきか。様々な想いが一度に沸き起こり、渦巻いて眩暈を覚えました。




