第十九話 心のうつろ
「どうして!?」
やっと硬直から解き放たれたネディエが、力なく下がったヴィーラの肩を掴んで激しく揺さぶります。
「……」
ナイフを取り上げられても抵抗の素振りはなく、返事もありません。暖かな光を宿していたはずの両目も、今はくすんで見えました。
「待って。この症状は……」
「エル、分かるの?」
ミモルの問いに、辛そうな表情のエルネアに代わって、フェロルが静かに答えます。
「僕達が人を傷つける理由なんて、二つしかありません。一つは主が危険に晒され、敵を追い払うしか手段がない時」
シュウォールドで襲われた時がまさにそれでした。刃物を片手に迫る彼らから少女を守るには、痛めつける以外に手はなかったのです。
嫌な予感を抱えながらも言わずに済ませるわけにいかず、ミモルが「もう、ひとつは?」と先を促しました。
「……主に命じられた時です」
「馬鹿な!」
沈黙が降りる中、ヴィーラは昼間の時と同じように呻き声を発し始めると、その身は次第に小刻みに震えていきました。
「あ、うぅ」
「しっかりしろ!」
眉間にしわを寄せ、声にならない声で訴える彼女の姿は、全身で何かを拒絶するかのようです。
『やっぱり駄目か』
響いてきた声は、低く、どこか冷めて聞こえました。
「おいで」
ミモルはベッドの隅で身を固くしているジェイレイを見つけ、抱き寄せます。突然の出来事に声も出ないのか、無言のまま震えていました。
『それがあの悪魔だったものか。もっと使えるかと思ったけど、見る影もないな』
悪魔、という言葉に幼子がびくりと反応します。記憶はなくても、体が覚えているのかもしれません。
『せっかく起こしてやった恩も、すっかり忘れてさ』
「あなた誰なの!?」
エルネアが鋭く問いかけるも、扉に人の影はありません。そもそもそこから聞こえてきたのでもない気もしました。ただ、ひやりとした空気が流れ込んできただけです。
もっともドアに近い位置に立っていたスフレイが外を注意深く覗くも、返ってきたのは「誰もいないぜ」という返事でした。
『まったく。放っておいてくれれば、お互いこんな苦労せずに済んだってのに』
耳にした限りでは若い青年でしょうか。まるで上から降ってくるみたいです。
でも、天井の向こうは未だ暗い空があるばかりのはずですし、屋根から喋りかけているならこんなにハッキリと聞こえるわけもありません。
リーセンが『こりゃ、フツーの人間の仕業じゃないかもね』と言います。ミモルは食ってかかりました。
「ヴィーラに何をしたの?」
『ほんと運がいいね。あれだけ襲われて生きてるなんて』
「質問に答えて!」
あちこち巡って、ようやく真相に辿り着けた実感がじわじわとわいてきます。
「どうしてこんなことを。ヴィーラをさらったのもあなたでしょう?」
『さらった? それはちょっと違うな』
声は心外だとでも言いたげな口ぶりです。
『ヴィーラを呼んだのは確かに俺だけど、縛っても掴んでもいない。自分で付いてきたのさ』
「嘘を付くな。どこの誰だか知らないが、お前のような奴にヴィーラがついていくわけないだろう!」
今度はネディエが天井に向かって吠えます。
『はは、凄い言われよう。事実は事実、嘘つき呼ばわりはやめてくれ』
「もしそれが本当なら、薬か何かを使ったとしか思えない。私は絶対に信じないからな」
『薬?』
ふいに空気が、それまでだって十分に張り詰めていた室内が、一瞬で氷のように冷えたのを感じました。
『そんなことをするわけないだろう? この世で誰よりヴィーラのことを考えている俺が』
「どういう意味だ」
『……久しぶりに出てきてみて驚いたって意味さ。あれだけの時間が流れたのに、昔と何も変わっちゃいない』
「どういう意味だと聞いている!」
『何百年も経ったのに、天使は相変わらず神の奴隷で、人間は恩恵に預かることしか知らないってこと』
沈黙が降りました。
神の奴隷。静けさはその響きに咄嗟に反論出来る者がないことを証明しています。
「……当たり前じゃない。私達はそれが使命なのだから」
「そうです。主神の命に従い、人間を守ることこそ――」
『そうやってまた心を、魂をすり減らすのか。下らない神々の勝手に付き合って』
エルネアとフェロルの主張を、怒りの声音が容赦なく遮ります。
『何年も何百年も何千年も。自分の意思に関係なく送り込まれて、傷だらけになりながら守っても最後には記憶を消されて、また新たな主人に仕えて……その度に心がぼろぼろになっていくと分かっていて、どうして続けるんだ』
まるで長い間くすぶり続けた炎のようでした。静かに、けれど決して消えない青い火です。
誰も気づかないうちに周囲をじわじわと焼きつくし、やがては守るべきものまで焦がしていくかのように広がっていく……。
『神は君たちに何をしてくれた? 冷酷な命令を繰り返すばかりで、記憶を消すのが慈悲だって? ……ふざけるんじゃない』
その場の全員が、口をはさまずに耳をそばだてます。彼の主張が間違っていると指摘できずに立ち尽くしていました。
この人、私と同じだ。
かたん、と音がして、どこからかその影は現れました。燃えるようなオレンジの髪の青年。その姿は既視感を感じさせます。
「神々は天使をただの道具としか思わず、人間は救いを当然の権利と誤解している。こんな世の中は間違ってる」
だから正す。彼は決意のこもった言葉を紡ぎました。
室内は光の精霊の加護によって昼間のような明るさです。
潜むものを引きずり出すほどの強い光源は、普段は隠しておきたい人間の弱さをもさらそうとその手を伸ばしていました。
「正すって、何をするつもりなの」
エルネアがミモルを背に庇いながら睨み付けます。一方で得体のしれない恐ろしさを抱いているようでもありました。
しかし、未だ名乗ってすらいない青年は答えず、涼しげな目を細めただけです。
「顔を見ても思い出さないんだ? それだけ呪縛が強いってことか」
「! 私を知ってるの? ……あなたやっぱり」
青年は今度も応えず、代わりに「そりゃあそうか」と呟きます。
「ニズムの時だって思い出さなかったんだ。それとも、思い出したくないだけかな」
彼がゆらりと彷徨わせていた視線をミモルに定めると、彼女の鼓動がどきりと強く打ちました。寸分たがえずに刺し通す針のような、鋭い瞳でした。
「君も同じ考えなんだろ? こんなふざけた仕組み、間違ってるって顔に書いてある」
「!」
そんなはずはない、とは、声になりませんでした。
こんな仕組み。……何を指すか、今さら言うまでもないことです。
世界中に広まった女神の血が、地上とそこに生きる者達を侵さないようにと、神々が遣わし始めた天使達。
それが綻びを修復するどころか、別の新たな穴を穿つ結果となってしまったのをミモルは知っています。
人は生まれ続け、使徒は繰り返し派遣されてきました。互いにいくら心を交わそうとも、終わりに待っているのは記憶の封印という真っ黒い「無」です。
きっと、彼らの心にも虚ろが成長し、少し疑問を抱くだけでやすやすと口を開くところまできているのでしょう。そうやって生まれるのが悪魔なのですから。
いつもお読みくださってありがとうございます。
おかげさまで100回目の投稿になりました。
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