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野生解放オフライン

「俺にはもう何も無い……職も、金も、未来も、そして毛髪も……」


 冷たい風が吹き荒ぶ夜の公園のベンチで、男はうなだれながら呟いた。男は中年のようだが、全身からくたびれたオーラを放っており、風が吹く度、バーコードのような髪が空しく揺れた。


「哀れなる人の子よ、何をそんなに嘆いているのですか?」


 不意に声を掛けられた男が上を向くと、そこには美しい女性が立っていた。月の光を反射する長い銀髪は神秘的だったが、それよりも目を引かれるのは顔よりもでかい乳だ。


「私は乳の神ボインプルン。迷える魂を救うため、こうして地上に顕現したのです」

「幸運の壺なら買わないよ」


 男は即答した。乳の神ボインプルンと名乗る怪しげな女は、口ぶりからすると宗教勧誘のように見えた。不幸な人間に幸運になれると餌をちらつかせるのは、勧誘の基本である。


「警戒しないで下さい。私は別にあなたから金銭を要求しようとは思っていません。私はソシャゲの神も兼任しているので、ガチャで爆死した人間によって金銭は間に合っているのです」

「はあ……お嬢さんはゲーム業界の人なのかい?」

「違います。それよりも、私は救いを求める人を放ってはおけないのです」


 結局、男はボインプルンと並んでベンチに座る事になった。どうせ自分には失う物は無い。それに、若く美しい女性と一緒に喋るのは悪い気はしなかった。


「実は、仕事をクビになりましてね。まあ元々激務でやめたいやめたいとは思ってたんですが、私は見ての通り冴えない男です。特技なんてものもないし、貯金だってこれっぽっちもありません」


 男は少しずつ重い口を開いていく。本当は誰かに聞いて欲しかったのだろう。ぽつりぽつりと、それでいて長い話を続ける。


「次の仕事を探すにしても、私のようなおっさんには前と似たような……もしくはそれ以下のものしかないでしょう。かといって働かなければ生きていけません。いっそ、山にでも籠って野垂れ死のうかと思ってましてね。人間社会に私は必要が無いんですよ」


 そう言って、男はハハハと乾いた笑いを漏らす。

 その様子を、ボインプルンは黙って見ていた。


「分かりました。私があなたの魂を救いましょう」

「そうは言ってもね、私は別に宗教とかそういうのはちょっと……」

「大丈夫です。あなたの悩みはもっと現実的に解決するでしょう」

「なんだい? 新しい仕事でも斡旋してくれるのかい?」

「いいえ。それでは一時しのぎにしかなりません。明日、あなたの魂を安息地へと送りましょう」


 そう言い残し、ボインプルンは男に背を向け去っていった。遠くなる巨乳電波女の姿を見て、男は肩をすくめた。自分の名前も住所も聞かず、一体どうしようというのか。


「最近はああいう手口のキャッチセールスでも流行ってるのかねえ」


 男は苦笑し、自分の住むオンボロアパートへ帰宅した。

 家賃が安いのはいいが、仕事も無くなってしまったのでもうしばらくすれば出て行かねばならない。

 それ以外にも問題は山積しているが、今日はもう何も考えたくなかった。


 男は問題を先送りにし、かりそめの安息を得ることにした。


「目覚めるのです……目覚めるのです……」


 翌朝、男の耳元で何やら囁くような声が聞こえ、男は目を覚ました。


「おはようございます。乳の神ボインプルンです」

「ワ、ワァオ……!?」


 男は吃驚(きっきょう)した。一体どうやってこの電波女はこの場所を突き止めたのだろう。


「ワ、ワオワオ! ワオン!?」


『あんた一体どうして!?』と言おうとしたはずなのに、男はその言葉を発する事が出来なかった。風邪でも引いたのかと思ったが、その割に身体には妙に力がみなぎっている。


「驚くのも無理はありません。さあ、これをご覧ください」


 ボインプルンは胸の谷間に手を突っ込み、手鏡を取り出し男に突き付ける。


「ワ、ワオオーーーッ!?」


 今度こそ男は絶叫した。鏡に映っていたのは一頭の大きな黒褐色の犬――いや、狼だった。


「とりあえず、毛髪の事で悩んでいたようなので狼にしておきました」

「ワオワオ!」


 確かに、狼と化した男の全身はふさふさの体毛で覆われていた。しかし、何かが違う気がした。


「毛髪の件など些細なことです。いいですか、あなたが別の仕事をして、生きていったとしても、あなたが人間である以上、人の苦しみからは逃れられないのです! よって……人間をやめるしかないのです! さあ、行くのです! 魂の赴くがままに!」

「ウオオオオオーーーーーーーーーーーーーーッ!!」


 ボインプルンが叫ぶと同時に、狼と化した中年男性が吠える。そして、凄まじい勢いでアパートのガラスを体当たりでぶち破り、道路に飛び出した。


「な、なんだ!? でかい犬が出てきたぞ!?」


 道路には通勤や通学途中の人間が沢山いた。狼はそいつらをちらりと一瞥する。


「グルオオオオッ!」

「ひぃっ!?」


 手近で固まっているサラリーマンに軽く唸り声を上げると、サラリーマンは転がるように逃げ去った。他の人間共も蜘蛛の子を散らすように去っていく。


 何と無様で遅いのだろう。狼はもうほとんど人間性を失いかけていたが、僅かに残った理性がそう思わせた。


「ワオオオオオオオーーーン!」


 狼は咆哮をあげ、道路を爆走した。人間を蹴散らすまでもない。皆、自分を見て恐怖し、退いていく。王者の行進だ!


 なんという優越感!

 なんという疾走感!

 なんという躍動感!


 狼は理解した。己の口は上司や客に媚びへつらう言葉を紡ぐものではなく、相手を噛み砕くためにある事を。

 狼は理解した。スーツや服など拘束具であり、自らの体毛こそ最高の衣服である事を。

 狼は理解した。自分の足は職場へ向かうためのものではなく、大地を駆けるためにある事を。

 狼は理解した。自分の魂は何物にも売り渡してはいけないという事を。


 それから数時間、狼は街を駆けまわり、辺りは混沌の渦と化した。人間であった頃の魂がそうさせるのか、人に襲い掛かる事は無かった。

 騒ぎは日が落ちるまで続き、狼は警察に捕縛された。大捕物(おおとりもの)であった。


『○○市で先日捕獲された狼ですが。新種である可能性も……』

『ニホンオオカミにしては大き過ぎるし、専門家に聞いても似たような種類はいないとのことです。今後、動物園や研究所に引き取られ、調査を進めていく予定であるという事です』


 電気街に設置されたテレビには、先日捕獲された謎の狼のニュースが流されていた。多くの人がその画面にくぎ付けになっている。その人ごみの中には、銀髪巨乳女神――ボインプルンもいた。


「よかった……あの方の魂は救われました」


 ボインプルンは目にうっすらと涙を浮かべながら、慈愛の微笑みを浮かべていた。


 あの中年男狼は、もう自分が何者であったかすら覚えていないだろう。

 だが、それでいいのだ。現代日本において金の無いおっさんに人権は無いのである。

 かわいい子猫が排水溝に落ちたのを助けられればSNSで祝福されるが、おっさんが川に流されても自己責任で終わるのである。


 だが、世界で唯一無二の狼ならば、外敵に晒される事も無く、飼育スタッフに愛情を注がれ一生を終えるであろう。老人より老狼のほうがレアリティも高いし可愛いからである。


 中年男性は、こうしてようやく魂の安息地を得たのである。


「でも、まだまだこの世には迷える魂が溢れています……私は全ての魂を救うべく行動せねばなりません」


 ボインプルンは決意を新たに、雑踏の中に消えていった。

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