3-12 クローゼットの中
俺はいつも、眠る直前まで部屋の電気を消さない。
早めに灯りを消すと、暗闇に心まで侵食されて、余計なことを考えてしまうのだ。
例えば、その日の会話の内容、相手の表情、自分の振る舞い。
細かなことまで、一日の出来事を振り返っては、後悔に苛まれ眠れなくなる。
「はぁ~」
思わず、ため息が出る。
――今、俺がいるのは105号室のクローゼットの中だ。
ほんの二週間ほど前まで、自分の部屋だった場所のクローゼットの中に、俺は体育座りで膝を抱えて座り込んでいる。
クローゼットの扉の隙間から差し込む光は弱々しく、俺を憂鬱にさせるには充分過ぎるほどの真っ暗な空間だった。
「……灰田さぁーん、今、何時ですか?」
すぐ隣から、月見さんの小さな声が聞こえた。
俺はズボンのポケットから携帯を取り出し、画面を開いた。
画面に映し出された時計表示は――午後五時の数分前。
「そろそろ、来てもおかしくない頃ですね」という月見さんの声。
俺は特に返事もせず、ただ無意識のうちに「はぁ~」と息を吐いた。
「灰田さん、じゅうろっかい」
「へ?」
「ため息ついたの、これで十六回ですよ。どうしたんですか?」
月見さんが小さなペンライトをつけると、白っぽい灯りがお互いの顔を照らし出した。
月見さんは俺を見て「な、なんか落ち込んでますか?」と心配そうに眉を寄せる。
……落ち込んでいるかどうか問われれば、確かにそうかもしれない。
十五分ほど前、マスターキーを見せながら、月見さんは俺に提案した。
――天願さんが105号室の内見にくる時、私たちはクローゼットの中に隠れていましょう。
ナツさんって時々熱くなる方なので、きっと犯人の天願さんに何か言っちゃうと思うんです。天願さんが逆上してハイキックになったら怖いですし、いざというときのために、待機しておきたいんです。
……大丈夫。
本気で内見をしているわけではないんだから、天願さんもクローゼットの中までは見ないはずです。
かくして俺たちは、いざという時に備えて、ここでひっそりと待機しているのだ。
隠れ始めたときは、少しドキドキとして高揚感があった。
八月というのに今日は珍しく涼しいので、クローゼットの中にいても不快な温度ではなかった。
ところが暗闇のせいだろうか、次第に俺は自分の行いを振り返り、何もかも後悔しはじめたのだ。
後悔、後悔、まさしく大後悔時代!
気がつけば……、俺はずっと逃げてばかりなのだ。
天願さんの睨み付ける視線に耐えられず、大学から遠くのアパートに逃げてきた。
やっと落ち着いたこのアパートでも、105号室から204号室へと逃げた。
最初のゲロ事件さえなければ、こんなことにはならなかったのに、逃げても逃げても、結局は振り返って後悔してしまう。
今回、天願さんが空室となった105号室を確認することで、夏休みの間は逃げ切ることが出来るだろう。
でも夏休みが終われば、俺は講義に出ることになる。
大学からの帰り道を天願さんに尾行されれば、このアパートの204号室を突き止められ、また同じことの繰り返しになるのではないだろうか。
どうしたって明るい未来が想像できず、過去の行いを後悔してばかりだ。
「……灰田さん」
小声ながらも凛とした月見さんの声が響く。
「明るい未来が考えられなくて、いつも後悔ばかりしてる時ってありますか?」
――射抜かれた。
どうしてこうも月見さんは、図星のど真ん中を突いてくるのか。
俺は驚きながらも、正直に答えた。
「い、今がまさにそんな感じですかね」
月見さんはゆっくり思い出すように、ポツリポツリと言葉を紡ぐ。
「私も前に、そういう時期があったんですよね。
借金がいっぱいあって……でも入居者が少なくて、これからどうなっちゃうんだろうって……毎日後悔ばかりしてました。
今までの自分の様々な選択が、全て……間違っているような気がしたんです」
俺は黙って聞くことしかできなかった。
確かに月見さんの状況は、深刻に考えればとても辛いものだったんだろう。
そっと横顔を覗くと、月見さんは昔のことを思い出すように遠い目をしていた。
「でも、そんなときにナツさんが言ったんです。
『月見ちゃん、後悔しないコツを教えてあげる』って」
「後悔しないコツ、ですか?」
それはぜひ知りたい、と俺は思わず前のめりになってしまった。
そんな俺の反応に喜んでくれたのだろう。
月見さんの声のトーンは少し明るくなり、イキイキと語り出す。
「はい! そのコツはですね、『短期間で結論を出そうとしない』です。
ちょっとした失敗が、未来の大きな失敗を防いでいたり、失敗と思っていたことが、
何か人との出会いのきっかけになっているかもしれないんですよ。
ほら、夢があっていい言葉じゃないですか?」
「…………」
得意げにピカピカした表情の月見さんとは対照的に、俺は頬をひきつらせた。
ごめんよ月見さん、素直には受け止められない。
多分それって本来は、すごくいい言葉なんだと思う。
でも、ブラック企業勤務のナツさんが言ったかと思うと、よく聞く騙し文句に聞こえてしまう。
投資で失敗した客に、証券マンが「長い目で見ろ」とか言ってそうじゃないか。
自然と苦笑いが浮かび、俺は鼻の頭を掻いた。
「ナツさんが言ったかと思うと、ビミョーな名言だなあ」
「ううう~、ひどいですね、灰田さーん」
そう言いながら笑いあう。
苦笑いでも、笑いだ。ちょっと元気が貰えた。
直後、月見さんはすっと目を閉じ、唱えるように呟いた。
「でも本当に、問題はまもなく全て解決しますよ。私、わかっちゃったんです」
「え? 何が――」何がわかったんですか?
そう訊こうとしたとき、玄関のドアがガチャリと開く音がした。
「ご覧ください!
この部屋は、内装をしっかりリフォームしていて、設備も充実しているんです。
ほら……」
営業スマイル増量モードのナツさんの声が、玄関の方向から聞こえてきた。
「モニタ画面付きのインターフォンでしょう?
なんとトイレはウォシュレット、そして、お風呂は……」
ひどく懐かしい。
言っている内容は、三ヶ月以上前に俺に言ったこととなんら変わりない。
同じ物件なのだから説明が同じなのは当たり前なのだが、なんとなく
「ナツさん手抜きだなぁ」と思ってしまった。
いかん、そんな場合じゃない。
ナツさんに対して、もう一人――天願さんの声はひどく落ち着いている。
「はい」「そうですか」などと、淡々とした相槌を繰り返していた。
流れるように淀みないナツさんの説明の声が、一歩、また一歩と
少しずつ近づいてくる。
自然と体に力が入り、自分が緊張しているのを実感した。
もう俺たちのすぐそばに、二人は立っているのだろう。
ここまで読んで頂いてありがとうございました!
残り3話+エピローグ1話で、このお話は完結となります。
最後までお付き合い頂けましたら嬉しいですヽ(´ー`)ノ




