432杯目「不義の楔」
7月中旬、葉月グループから参加したバリスタ全員が地方予選を突破した。
強化合宿の成果が表れたようだが、これくらいはやってもらわないと困る。
8月には最終予選があるし、ここではもっと厳しい戦いに耐えるだけの力が要求される。だが不可解なのは杉山グループのバリスタがアマチュアチームとは別に何人も参加していたことだ。うちからは7種類の競技会全てに2人以上が参加している。アマチュアチームは全員がコーヒーイベント通過を決めている以上、参加者が全員予選落ちすれば、該当する競技会は敗北確定だ。
いつまで強化合宿を続けるのかと千尋に尋ねられたが、決着がつくまでとしか言えなかった。
伊織はどこか遠慮がちで、気負い過ぎることも少なくなかった。
僕が留守の間、伊織は無意識にココアを大量に淹れてしまい、周囲を驚かせたこともあった。以前は僕が一息吐く時、唯がココアを淹れてくれていたが、今は伊織が淹れてくれるようになったのだ。甘さ控えめですっきりとした味わいに、伊織の人柄が滲み出ているようにさえ思えた。
僕が自室で動画の編集作業を終えると、唯と伊織が2人きりでリビングの机越しに対面している。
顔色を見る限り、伊織は何やら諭されている様子だ。
殺伐としている状況ではないが、迂闊に近づける雰囲気じゃない。
「伊織ちゃん、今日はあず君と一緒に寝たらどうですか?」
「私は子供の寝かしつける仕事がありますから」
「子供たちは私が寝かしつけますから、心配しないでください。それに伊織ちゃんの子供じゃないんですから、必要以上に面倒を見なくてもいいんですよ」
「……唯さんや子供たちにとって、私はどんな存在なんですか?」
ずっと心に秘めていた言葉が物音1つしないリビングに響く。
家族のあり方が再び問われているのだと、伊織は言いたげだった。
集団単位で生活しなければ生存すら危うい時代から続いてきた家制度だが、葉月家においては既に消滅した。結婚の代替手段でもあり、自由なつき合いを象徴している事実婚というものに、伊織が慣れているはずもない。心も体も結ばれた関係ではあるが、触りたいと思いながらも、触れようとはしない。しかしながら、人間は欲求不満には勝てないもので、最近は僕を見ただけで息がやや荒くなる始末だ。
伊織は緊張気味に唯の顔色を窺いながら息を呑んだ。
唯は誰かを威圧するようなことはしない。理性だけなら璃子をも凌駕する。
「大切な家族の一員に決まってるじゃないですか。血は繋がってませんけど、私たちはバリスタという共通の絆で結ばれています。コーヒーが私たちを出会わせてくれたことにも、意味があるはずです」
「……あず君と結ばれた時、正直に言えば、嬉しかったです。でも子供のことを考えた時、私は唯さんほど立派に育てられる自信があるかと言われれば、胸張ってイエスとは言えません」
「無理に育てようとする必要はないですよ。放っておかれた子供の方が育つんですから、私だって躾ける時以外はほとんど放置ですよ。親にできることは、子供の興味を邪魔しないことだけです。何かを見てどう感じるかは子供次第です。私たちがコントロールできないことまで考える必要はないんですよ」
唯は子育てを本能で理解していた。もうベテランの母親だ。
今では新人の母親たちに指導する役割まで担っている。真理愛も柚子も唯に子育てのコツというものを学びながら、手探りで子供の面倒を見ているが、コツなんてものはないし、教育に正解などない。一様にはいかないのが人間であると理解している人と、そうでない人の差は非常に大きい。何故一定確率で親が子育てに失敗するのか。予てから無職学に興味を持っていた僕は、ニートの子供がいる家庭でどのような教育が行われてきたかを調べるよう葉月データに業務指示を出し、調査を重ねてきた。共通点が見つかればと思い、ニートの保護者たちに協力してもらった結果、興味深いデータを得たのだ。
過干渉、褒めない、強制及びマスト化、行き過ぎた平和主義、異性への精神的去勢。
どれもニートの親あるあるで、致命的なのは精神的去勢だ。これは父性をへし折る危険な躾で、特に長子長男が影響を受けやすいことは、統計分析によってある程度証明されている。伊織もこのことは知っている。故に慎重にならざるを得ないのだ。伊織自身が過干渉に育てられてきた長子なのだから。
「唯さんは私に子供ができても気にならないんですか?」
「気にしません。もちろん、実子同然に扱います。伊織ちゃんも子供たちに優しいじゃないですか」
「身内ならまだ安心できます。でも子供が社会に出る時、このことが邪魔にならないかと思って――」
「別に問題ねえだろ」
「あず君っ!」
伊織が後ろを振り向き、対照的に唯は余裕の笑みを浮かべている。
「根本だって鍛冶の異母兄弟だ。でもそれが原因で社会に出られなかったことがあったか?」
「2ヵ月ほど前、根本さんがうちに来てくれたんです。あず君はいませんでしたけど、根本さんが鍛冶さんのことを色々話してくれました」
「それが何か関係あんのか?」
「根本さんは帰り際にこう言ったんです。異母兄弟がいると極限の苦労を強いられると。ましてや実力的にも鍛冶さんに押されていると自覚していた根本さんが言うんですから、間違いないと思います」
根本が言う極限の苦労とは、不義の子としての宿命を背負うことだ。世間にばれれば、まるで犯罪者のように一生言われ続けることになる。根本と鍛冶の関係を知る者は僕らを含め極一部しかいないが、一夫一婦制の国では正妻の子でない者を悪く言う輩も少なくない。十字架を背負うばかりか、楔を打ち込まれるのだ。当事者ならともかく、経験者ですらない者が言うのは偏見以外の何ものでもない。現時点で根本は鍛冶議員から子供として認知されていないため、遺産相続の資格はない。
以前は認知されていても、遺産相続で不利を被っていた。2013年に違憲判決が下るまでは非嫡出子が嫡出子の半分しか相続できなかった。21世紀を迎えてからの法改正であったことも、日本が差別や偏見に対して無頓着で自浄作用のない国であることを顕著に物語っている。もっとも、うちには関係のないことだ。遺産は会社に寄贈するし、生きる力を伸ばす教育を施せば、飢える心配もない。
伊織は結婚している真理愛や柚子を羨ましく思っていた。
あの日の伊織による羨望の眼差しを見てすぐに分かった。
結婚なんて意地でもしたくない。そんなことをすれば、どちらかを裏切ることになる。
国が決めた常識に屈する姿なんて見せたくない。時代にも肌にも合っていないものを受け入れる気にはならなかった。真実は常識の先にある。多数派は常識ではあっても普通じゃない。普通とは自分自身だ。自分が感じたままの生き方ができないならば、それは死んでいるに等しいことだ。
「種類が違うだけで、苦労なんて誰でもしてるっての」
「そうですね。私も日本とイギリスの両方で痛い目を見ました。でもあず君が教えてくれたんです。両方にルーツを持つってことは、両方にただいまが言えることでもあると。私とあず君の子供は、私にも伊織ちゃんにもただいまが言えるんです。あず君と伊織ちゃんの子供だって、私と伊織ちゃんの両方にただいまって言えばいいんです。それが家族というものですよ」
伊織はゆっくりと口を開けると、今まで心につっかえていた詰まり物が解き放たれた。
事実上の側室のように見られていた。自分でも側室として一歩引いて謙虚に立ち回らなければならないと思い込んでいた。だがそれに応えきれないと思っている自分の存在に気づいた。
年を追う毎に自分の本音に正直になっていくのが人情というもの。
伊織がずっと悩んでいたことなんて、僕は知りもしなかった。
こんなにも近くにいながら――いや、近くにいたからこそ気づけなかった。
「競合になったら唯さんに譲らないといけませんよね」
「確かにそんな話もしましたけど、私は伊織ちゃんが意見してくれることを期待してたんですよ」
「えっ……あれって意見しても良かったんですか?」
目が点になりながら言葉を返す伊織。
「当たり前じゃないですか。それが対等な関係というものですよ。私たちは正室と側室の関係じゃなく、同じ恋人を持つ友達兼家族なんですから、納得がいかない時はちゃんと言ってください」
「あの、競合になったら、2人で一緒にあず君と添い寝するっていうのはどうですか?」
「ふふっ、いいですよ」
「――いいんですか?」
「はい、もちろんです。伊織ちゃんの寝顔も可愛いですから」
「ありがとうございます、唯さん」
伊織は唯の豊満な膨らみに飛び込んだ。
唯はどう形容していいのかも分からない関係をハッキリさせ、堂々と3人で前に進めることを示した。恋敵でもなければ同居人でもない。2人は困った時、気兼ねなく相談できる友達でもある。
唯も彼女なりに気を使っていたようだが、伊織が言葉を真に受け、駆け引きすることを知らない性格であることは失念していたようで、過去のやりとりを密かに反省するように上唇と下唇を圧迫する。唯とて伊織の全てを知り尽くしているわけではないが、悪い奴でないことは熟知しているようで、唯にとっては本音を言える数少ない相手だし、唯の方から相談したこともあるくらいだ。
何の考えもなしに事実重婚なんてするもんじゃねえな。
もっと彼女たちの気持ちを考えるべきだったと家庭を顧みることを考えたが、バリスタランドやコーヒーイベントを思い出し、今はそうも言ってられない現実へと即座に引き戻される。暇な時間を確保するために稼いでいるはずなのに、むしろ暇な時間を買いたいと思うくらいには余暇に飢えている。
時間貧乏が拗れるとロクなことにならない。
「あず君、今日は一緒に寝ていただけませんか?」
「もちろん。何かあっても僕が守るから安心しろ」
「……はい」
小声で呟く伊織の体を後ろから抱き、胸に手を伸ばして揉みしだいた。
唯はそんな僕らを笑いながら、見守りつつリビングを去っていく。
子供たちを寝かしつけると、唯は子供たちの隣でスヤスヤと眠り始める。5人も子供の面倒を見ていると疲れてくるが、上の子は自分の部屋で勝手に睡眠を取っている。僕は伊織と自室に入り、服を脱がせてからお互いの肌の感触を確かめ合う。風呂に入ったばかりの体はきめ細やかで光沢がある。ぱっつんの長い黒髪からは花のような香りが鼻の中を吹き抜けてくる。シャンプーもリンスも唯と同じものを使っているのに違った香りだ。これが伊織特有のフレーバーなのかもしれない。
僕は欲望のまま、目の前の幼気な体をベッドに押し倒し、伊織は受け入れるように目を閉じた。
翌日――。
朝から調子を崩していた伊織は、いつもより長い休憩時間を取っていた。
カウンター席に腰かけると、僕は隣に座りながら伊織の頭を撫でた。少しばかりの元気を取り戻した伊織は体を起こし、何かにハッと気づくと、席を立って2階へと歩いていき、すぐに戻ってくる。持っていたのは福井の地元新聞だ。伊織はカウンターテーブルいっぱいに新聞を広げた。
伊織は根本がうちに来た時のことを詳細に話してくれた。
バリスタ競技会には参加していなかったものの、バリスタマネージャーとしての類稀な指導術によって多くのバリスタをマイナー競技会チャンピオンに導いた実績があることが判明する。葉月グループからも多くのバリスタがマイナー競技会に参加しているが、チャンピオンはほとんど出ていない。
歴代チャンピオンを調べてみれば、やはり鍛冶の指導を受けたバリスタが半数を占めている。アマチュアチームがコーヒーイベントで結果を出せたのは偶然ではない。綿密に計算された結果なのだ。コーヒーイベントでも通用することを確認してから不意に勝負を仕掛ける。
杉山社長と鍛冶の連携は完璧だ。根本は鍛冶の本性を知っていた。しかもデータに基づいた競技を行うことで減点を極限まで回避している。データは全て杉山グループから提供されたもので、どのようなプレゼンが評価されているのかまで把握されている。
杉山社長はジャパンスペシャルティコーヒー協会の会長でもある。
当然プレゼンの構造までもが筒抜けだ。構造や歴代ファイナリストたちのデータを鍛冶に送り、アマチュアチームを歴代ファイナリストと同じかそれ以上の育成をしているとしたら、月1回の強化合宿だけでは足りないかもしれない。璃子は強化合宿で順位を1つでも上げようとする戦略だが、アマチュアチームは国内予選優勝が当たり前と言わんばかりだ。世界大会に出ない前提なら余力を残しておく必要もない。ある意味では世界大会よりも難度が高い。
杉山社長はずっとこれを狙っていたのか。
バリスタランドは僕の目を逸らすためのフェイクでもあったのだ。完全に撹乱された。ここんとこずっと帰宅してすぐに寝る生活だった。伊織は僕に情報を伝えなかったんじゃない。伝えられなかったんだ。人の気持ちを察するのが人一倍得意こともあり、僕が疲れていると見て何も話せなかったとのこと。もっと早く知っていれば、こっちも手を打てたかもしれない。
「根本さんが言うには、鍛冶さんは小さい頃から英才教育を受けていたそうで、京大を卒業してから副社長の仕事をしながら趣味のコーヒーに没頭していて、あず君がバリスタオリンピックチャンピオンになってから火がついたそうです。最初は競技会に出場していて、予選突破もできなかったんですけど、予選突破した人の競技を見て、改善点がパッと浮かんで教えたら、その人は決勝まで進んだんです」
「競技をこなすよりも、マネジメントする方が向いてるって気づいたわけか」
「福井の地元新聞の記事を根本さんが持ってきてくれました。ここに書いてます」
「――なるほど、こりゃ思ったより厄介だな」
「どうして厄介なんですか?」
「あくまでも傾向の話だけどさ、京大卒は研究者気質の人が多い。京大はノーベル賞の受賞者を何人も輩出している名門で、考える力だけなら東大より優秀だ。英才教育を受けた京大卒にコーヒーの研究やバリスタのマネジメントをさせたら、たとえアマチュアだろうと、教えたバリスタのレベルは急速に上がっていく。僕らプロに勝ち越せたのはそのためだ。対照的に東大卒の松野が一度も僕に勝てなかったのは官僚気質のバリスタだからだ。権力に従順で奇想天外なアイデアを考えるのが苦手だった。そんな人間ばっかりだから、東大卒からはノーベル賞の受賞者が出てこない。鍛冶は趣味でコーヒーにハマってたって話だけど、改善点がパッと思い浮かぶってことは評論家としての才能があるってことだ。口先だけじゃない。確かな根拠が朧気でも分かるってことだ。アマチュアチームの競技には一切の無駄がなかった。アマチュアチームの連中はルーチンワーカーとしての才能を持ってる。当然教える側がエリートであるほど――」
「教えられる側も質の高いエリートになるということだな」
コーヒーを提供し終えたばかりの皐月がトレイを両手に持ちながら言った。
「そゆこと。アマチュアチームは事実上のプロだ。じゃなきゃ僕らが負け越すはずなんてない。葉月グループのバリスタが劣っているわけじゃなかった。紛れもなく実力で負けていた」
「……アマチュアという言葉に騙されていたのかもしれません」
「私は勝てたぞ。確かにアマチュアチームの競技には無駄がない。だが無駄がないだけで、自分自身の鍛錬や研究に裏打ちされた競技じゃない」
「どれも世界大会ファイナリストの模倣だからな。自分たちで考えた本物の競技とは言えない。でも僕らは恥ずかしいことに、その本物ですらない工場で機械的に生産されたような競技に負け越してる。大半のプロを相手に勝ち越すだけなら、あの競技だけで充分と見なされてるってことだ。一生の不覚だよ。アマチュアチームに勝ち越すには、1人のスーパースターが勝つだけじゃ不十分だ。どうしてもチームとしての総合力を伸ばす必要がある」
総合力強化の目的で強化合宿を始めたはいいが、アマチュアチームは月1回どころか、毎日競技の練習を繰り返している。修業のレベルが違う。小夜子たちは競技者としての意識こそ高まっているが、国内予選を何度も経験しているアマチュアチームとは異なり、まだ場数が足りていない。
プロとして十分通用する連中は重要な仕事に就いている。
このタイミングで勝負を仕掛けてくるにしては中身が筒抜けだ。
「あず君、後で私の競技を見てくれないか?」
自信満々に皐月が手を胸に当てながら言った。
「別に見る必要ねえだろ。僕は他のバリスタの面倒を見ないといけないからさ、じゃあ行ってくる」
「……待ってくれ。私はどうしても――」
「皐月、僕はプロバリスタの命運を懸けて、アマチュアチームに勝たないといけない。バリスタランドでの戦いもあるし、また今度にしてくれ。皐月だったら十分に勝てる。心配すんな」
「……」
表情が冴えないまま下を向く皐月。僕には次の戦いが待っている。
皐月はうちのバリスタの中でも群を抜いているし、特に面倒を見なくても確実に勝ち星を稼いでくれるエースだからこそ、安心して放置することができる。逆につきっきりで面倒を見ているのは信頼されていない証と言っていい。千尋たちには当分の間、たった1つの競技で買ってもらうためだけに強化合宿に呼んでいるし、全競技を究めるだけの余裕がある皐月が来る必要はない。
僕の願いは全員が放置されても問題ないバリスタになることだ。もっとも、そうなる頃には決着がついているだろう。勝てば栄光のロード、負ければ絶望のバレー。これほど分かりやすい分起点があっただろうかと思えるほどだ。杉山社長は勝てる勝負しかしない。戦いは勝っている時に行うもの。だが奴らはこっちの戦略を見落としている。反撃されたらどうなるかまでは想定していないようだ。
バリスタランドまで赴くと、中山道葉月の様子を窺おうと、ドアベルを鳴らしながら中へと入った。
神崎たちの不穏な顔を見てすぐに深刻な事態を予感した。
客が1人もいないことが全てを物語っている。僕がどちらかを立ち去れば、すぐにまた問題が起こる。今気づいた。僕はいつの間にか、杉山社長の手の平の上で踊らされていた。僕がバリスタランドを出入りしているところを誰かに見られ、随時報告されていると考えていい。僕がいれば問題が起きても解決できるが、それは僕がいなければ問題が起きて誰も解決できないことでもある。中山道葉月には正解のない問題を解く力がないことが浮き彫りになっている。隙がないなら、隙を作ればいい。
残された時間はないに等しいものだった。
読んでいただきありがとうございます。
気に入っていただければ下から評価ボタンを押していただけると嬉しいです。




