第十九章:17
立ちあがっても、すでにその身は限界だった。
さんざん転げ回った。雪の上を何度も何度も叩きつけられた。衣服は雪解けの水に濡れ、濡れた分服が重く感じ、それ以上に水の冷たさが沁みる。
「すぐに終わるもんかと思ったが」
男は直刀を肩に担ぎ、悠々と省吾に近づいてくる。
「案外タフだな。生身にしちゃ、まあまあ楽しませてくれた方だ」
お前楽しませるなんて御免だ、などと。悪態の一つでも返せれば良かったのだろうがそんな余裕はない。
「ああ、けどよ。これから一戦ぶたなきゃなんねえんだ。お前と遊んでられるのも、もう最後にしなきゃよ」
「ほざくな」
省吾は目線だけ動かした。さっきまでユジンが倒れていたところを見る。すでにユジンの姿は消えていた。きっと逃げたのだろう、この隙に。
それでいい。だがここで奴をやらなければ、奴はユジンを追うだろう。だから確実に仕留めなければならない。
奴は機械だ。機械に刃が通らないのは知っている。けれども、だからどうした。俺は今まで機械と、二度対峙している。そこらの奴よりは機械に対する扱いは心得ている。だから。
低く構えた。腰を落とし、剣先を下げる。誘い込む、攻撃よりも守りの位だ。
男は直刀を脇に構えた。そのまま近づく、一歩ずつ。
踏み出す。
動いたのは男の方。遠間から飛び込み、横に撫で斬る。
省吾、わずかに剣先を上げる。そのまま前に突き出す。
剣同士が触れた。
すかさず省吾は手首を返す。長脇差の峰を直刀の刃に接触させ、刃を巻き上げる。
直刀の軌道が逸れる。
男が目を瞠る。
今。
「はあああ!」
省吾踏み込む、男の懐まで。喉元に向けて刺突。が、踏み込んだその足を滑らせる。体を崩し、省吾は前につんのめるように崩れた。
踏み込んだのは右足--つまり義足の方。足を取られたのは、雪のせい。
(しま--)
あわてて体を戻そうとする、その省吾の腹に男の膝がめり込む。
省吾が体を折るに、男の追撃。中段蹴りを叩きこんだ。
再び吹っ飛ばされ、雪の上に転がった。冷たい雪と、堅い地面の感触を、肌と骨に直接味あわされる。
「ち、ったくこの野郎」
省吾を見下ろして男はうなった。表情には、すでに怒りしかなかった。嘲り笑うのではなく、心底嫌悪を感じているというように。
男は直刀を振りかぶる。が、すぐに刀を下ろした。刀の腹、長脇差と接触した箇所をまじまじと見、舌打ちする。
「すぐにボロくなる」
男はぶつくさ文句を垂れながらると、刃の腹を指で軽く弾いた。すると幅広の刃が風船が萎むかのように縮み、一瞬にして柄の中に収納された。
どうやらあの刀、麗花の薙刀と同じ原理らしい。あちらは柄が伸びるのに対して、こちらは刃を収納するタイプ。しかし、なぜ今刀をしまったのか。
「やってくれんじゃんかよ、てめえ」
そんな疑問を抱いている暇はなかった。いきなり省吾の腹に、男のつま先が刺さった。体の中にある全てが押しつぶされるような蹴りだ。
「たかが、何もできない、クズのくせして。おとなしくヤられろって言や無駄にあがきやがって。そんで余計な手間をかけて!」
何度も何度も、男は蹴りつけた。省吾は最低限急所を守るのに精一杯だった。背中に有らん限りの踏みつけを受け、その一つ一つが重たい。鉄の棒で殴られているかのような。
「ふざけんなよ、ヤられろって言われりゃ素直にヤられてろよ。最後にゃどうせこうなるんだから、じゃあ最初からそうしてろよ! そういうわがままが許されると思ってんのか、なあ!」
勝手な理屈だ。おとなしく殺される奴がいるものか。けれど、こいつらにはそんな理屈は通らない。死すべきものが死んで、生きるべきものが生きる、そういうものだ、この街では。
虫だ、こいつらにとっては俺らなど虫けらなのだ。難民など、生身など。
首を捕まれた。そのまま男は、左手一本で省吾を持ち上げた。
「よっく見とけ、これでお前の腸引きずり出すとこ」
男は右手を握ったり開いたりしてみせる。手だけ見れば普通なのにな、と省吾はどこか冷静な感じだった。
「前にも同じことしてやったんだよ、お前の仲間によ。肋を砕いて、ひとかきひとかき、丁寧に腹をほじくり回して。自分の腸見るなんて、なかなかねえからな。そいつ、びっくりしてたぜ」
男は右の指をそろえ、手を貫手の形にする。
男が腕を振り上げた。
そのとき、どんという衝撃が走った--省吾の方ではない、男の背中側でだ。
「あ?」
男の背中に、何かがぶつかったようだった。男は面倒くさそうに振り返る。
対して省吾は目を丸くした。
「どう? 化け物」
男の背中にぶつかった、人影--左手を失ったその人物が、残った方の手で握りしめたナイフが男の背中に突き立つ。体ごとぶつけた刺突、しかしナイフの刃は半分も刺さっていない。
それは男の肌が堅すぎるのか、あるいはその人物の体重が軽すぎるからか。そのどちらでもあるのだろう。
「……ユジン?」
その名を呼ぶ。
ユジンは全身の力を込めて、ナイフの刃を押し込めている。どれほど力を入れても、全く刃は刺さって行かない。
男は省吾の体を放り投げた。すぐにユジンに向き直り、ユジンの胸ぐらをつかみ上げた。
男が右の指をすぼめる。振り上げる。省吾立ち上がる。立ち上がって、男に飛びかかる。
それよりも早く、男の手が、ユジンの胴に突き立った。
その手がユジンを貫く瞬間が、いやに緩慢に見えた。
果たして音はしなかった。すぼめた五指がユジンの腹を突き破り、手首までねじ込まれている。ユジンは目を見開き、何事か発しようとしたその口から血の塊を吐き出した。
男が手を引き抜くと、ユジンはその場に崩れ落ちた。
男の指先に細長い腸が引っかかっている。男は何の気なしにその腸を引きずり出す。それがユジンのものであると、分かっている。分かっているけど、理解が追いつかない。倒れているのはユジンだ。腹を突き破られ、腸が飛び出ている。仰向けに倒れ、うつろな目で宙を見上げている。地面の白が、みるみる赤黒くなってゆき、その赤はユジンの血。
気づけば省吾は走っていた。無我夢中に殴りかかった。右の拳が男の肩に当たった。岩を殴るような堅い感触がした。もう一度殴る。男の背を打つが、男は面倒くさそうに省吾の手を払いのけた。
何度も殴りつけた。技もなにもあったものじゃない、ただ拳を叩きつけるだけ叩きつけた。
腹に衝撃。男の蹴りが突き刺さった。重苦しい一撃が腸に響いた。その場に崩れ落ちた省吾の顔を、男は軽く踏みつける。
「てめえのせいで殺しちまったよ」
踏みつける足に、徐々に体重を乗せてくる。省吾はその足をのけようとしたが、動かない。
「せっかく後でよ、楽しめたところを。どいつもこいつも無駄なことするから、こっちも手間取るし、最後にはこうなるんだよ。人の迷惑も考えずに、ムカつくよなそういうのってよ」
踏みつける足は、万力のごとくに。省吾の頭蓋骨をしめつけてくる。骨が砕けるのも時間の問題かと思われた。
だが、そうはならなかった。
「王春栄」
ちょうど、省吾の背後から声がした。その声を受けて、男は足をどけた。
「王春栄、なにをしているの。あなたは謹慎中の身であるはず」
女の声だ。完璧な英語を操って、ギャングにしては品のある声だと思った。
「アニエスか。なに、ちょっと体がなまっちまったからよ、軽く運動がてらに」
「皇帝の、意に背くの」
「お前さんと違って、俺は別にあんなのどうだっていいし」
男--王春栄というらしい--は、省吾を見下ろして、省吾の体を軽く蹴飛ばした。省吾はすでに立ち上がる力はなく、されるがままである。
ちらりと、省吾は女の方をみた。アニエスと呼ばれていたその女のブロンドの髪、造ったように端正な横顔を一瞬見やる。王春栄と違い、こちらは黒のスーツに身を包んでいる。
「あんたこそどうしたんだよ、地下にいたんだろ?」
「失敗した。最後に捉え損ねて」
「んじゃあダメじゃねえか。お前こそ皇帝の意に反してんだろ」
「自爆したわ、彼ら。地下施設が土中に埋まってしまって」
自爆? 自爆とはどういうことだ。彰は? 舞は? 雪久はどうなったというのだ。
「何とも気の抜けたオチだな、そりゃ」
「皇帝から撤退命令がでている。あなたも早く行くことね」
王春栄は省吾の頭をつま先で小突いた。省吾は動こうにも、思うように動けない。王春栄は最後に唾を吐きかけて言った。
「張り合いのねえ」
やがて王春栄は、アニエスが立ち去るのについてゆく。完全に男の後ろ姿が見えなくなってから、省吾はようやく身を起こした。
といっても、立ち上がることはもはやできない。這いずるようにして、ユジンの元に近付いた。
ユジンは横向きに倒れて、背中をこちらに向けている。貫かれた腹を押さえて、腸が飛び出すのを防いでいる。
「ユジン」
省吾が声をかけたのに、ユジンは目線だけこちらに向けた。省吾に気づいたユジンの唇が、何かを言おうと動いた。
「いい、しゃべるな」
省吾は上着を脱ぎ、細かく割いた。それでユジンの腸を押さえようとしたが、布が足りない。仕方なく上着ごと押さえた。麻布が一気に血を吸い込んだ。
省吾はユジンの腸が傷つかないよう、注意深くそれを押し込めようとした。しかしどうやってもそれはもう、元には戻ってくれそうもない。それでなくとも血は、とめどなくあふれてくる。
「戻って、くれたんだね」
弱い吐息のような声で、ユジンが言った。目は省吾を向いているが、その目ももはや生気が宿っていない。
「ああ、待たせて悪かったよ」
省吾はいろいろやり方を変えてみる。雪をすくいあげて傷口にあてがってみたり、上着で血を吸ってみたり。そんなどれもが意味のないことだとしても。
「悪かった、返事を先延ばしにして。大丈夫だ、今日やられたとしても、生きていりゃ奴らを殺す機会も生まれる」
「じゃあ、いいんだね……」
こんなときだというのに、ユジンは笑いかける。いつものように、省吾にいつも向けているように。
「省吾、一緒に……私たちと……」
「ああもちろんだ。奴らなんか目じゃない、俺がいるんだから。これからもずっと俺がいるんだから、お前と俺がいりゃ、あんな奴らは」
そうだ、生きていればいい。一度は機械を下したのだ、省吾も、ユジンも。生きていれば次はある。奴らの弱点を探って、徹底的にその弱みを狙い、今度は奴の腸を引きずりだしてやることだってできる。
生きてさえ、生きてさえいれば。
「だからよ、こんな傷ぐらい何ともねえよ。まあちょっと時間をおかなきゃならないだろうが、いいさ、どれほど待っても。回復すりゃいい。だからこんなんでよ、こんなことで、どうにかなるなんてことはな、無いだろうが。なあユジン」
何を、自分で言っているのか。何の確証もない言葉だけが口をつき、しかしその間にも血は流れる。言葉だけ、尽くしても、それを止めることができない。
それで何ができるというのか? これ以上どうすればいいと。
ユジンがふと、手を伸ばした。手を取ってしまった瞬間に、その手の力はすぐに抜けてしまいそうな気がした。けれども省吾はその手を取らざるを得ない。か弱く細いその手を握りしめるより他は。
その手を取った、その指から徐々に力が抜けていくのを感じた。
「ユジン? おいユジン」
握りしめた。そうすればユジンの力が戻ってくるような気がした。だが指から腕に、やがて全身の力が抜けてゆくのを、あからさまに感じ取る。羽毛のような軽い体が、鉛の重みを増してゆく。二度と戻ることのない抜け殻に回帰してゆくのを感じる。
瞼が閉じてゆくわずかの間に、ユジンはまた微笑みかけた。痛みなど何もないかのような笑みを浮かべたまま、そうしてユジンの中にある全ての力が失われた。
「起きろよ、ユジン」
省吾はユジンの体を揺さぶってみた。何の反応も示さない。
「こんなところで寝ているなよ……」
雪が舞っていた。
徐々に風が弱まり、ちらつく粉雪がまとわりついていた。
動かない二人に、降り積もっていた。白い層が、二人を包みこみつつあった。
遠くで火の手が上がっていた。
どこかで喧噪があった。
それでもここだけは冷たく、静かなままであった。
第十九章 完




