第十九章:15
細長いものとは骨だった。人の背骨だ。
なぜそうとわかったかといえば、その先端に人の頭がついていたから。小さな頭、あどけない少年の顔を晒している。その顔を、目の当りにして、ユジンは息を飲んだ。
首。人の頭まるごと一つ転がっている。そこからやや湾曲気味に背骨が伸びている。五体引き裂かれた死体など幾度目にしたが、背骨がくっついたままの首など初めて見る。
しかし衝撃を受けたのは、その首の主だった。恐怖を感じたその顔のまま固まっている。命乞いすらも出来なかったであろう、なにも叫ぶこともなく逝ったのだろうと分かる表情。たった十四で死ぬことを、こんな姿で死ぬとは想像もつかなかったという顔で。
「……リーシェン?」
それが何かとは分かっていた。そうなる前の姿も、当然知っていた。
ただ目の前の変わり果てた姿と普段の彼の姿が、結び付くのに時間がかかった。それが何であるかを認識してもそうだと感じられない。
「あ……」
声を発しようとした。けど喉が言葉の発し方を忘れたようになっていて、ただうわ言だけが口から洩れる。手足の先から熱が失われ、腹の底には冷たい鉛が沈んでいるようで、信じがたいその光景を茫然と見る。
その惨たらしい亡骸が、記憶の中のリーシェンと重なった時。腹の底が発火した。
何事かを叫んだが、自分でも何と言ったか分からない。気づけば走り、男に向けて棍を叩きつけていた。
その打ち込みを王春栄は身をそらしてかわす。棍が空振りする。
続いてわき腹に衝撃。ユジンの体が横に吹っ飛ばされる。廃墟の外まではじき出され、雪の上に叩きつけられる。顔から雪の中に突っ込み、雪と土を口に含み、しかしすぐにユジンは立ち上がる。
「そりゃお前と遊ぶために来たんだけどよ」
王春栄は悠々と外に出る。その右手が血に濡れているのを見た。あの手でリーシェンの首を引き抜いたのだろう、まだ乾ききっていない。
「ちっと急ぎすぎだ、夜は長いぜ。ことをなすには前戯ってもんが必要だ」
王春栄の軽口が、ますます拍車をかける。ユジンは立ち上がると、血走った目を向けた。
「その子が何をしたって言うの」
自分でも、これほど低い声が出るとは思わなかった。
「あんたはそんな小さな子に」
これほど激しい感情に駆られるとは思わなかった。
「よくも」
血が沸き立つ。筋肉がうねる。内臓という内臓が暴れまわる。そうして激情は身を駆け抜ける。
「よくも--!」
走る、振りかぶる。棍を叩きつける。王春栄の横面を殴りつけた。
しかし、また空振り。
「激しい女は」
耳元で声。振り向く、まもなくユジンは足を払われる。地面に仰向けに倒れる。
「嫌いじゃねえぜ。無反応よりは、いい声で鳴いてくれる」
すぐにユジンは起きあがる。距離をとるユジンに対して、王春栄は逆に距離を詰めた。
棍の横払い。
かわす、王春栄。まるで自らの鼻先を触れさせるかのごとくきわどい位置で。さらにもう三連、横薙ぎに打ち込む。王春栄の横面と胴、首を順繰りに打ち、しかし男は半身にかわし、手で払いのけ、すべて打ち込みを外す。
唐突に王春栄が踏み込んだ。
五行拳の鑽拳--突き上げるような拳を打つ。
ユジンの顎を捉える--よりも早くユジン、棍で防いだ。グラスファイバーの棒が衝撃で最大限に折れ曲がる。
蹴り。王春栄が右足を振り上げる。ユジンは鼻先ぎりぎりでかわす。蹴り足がユジンの頭上をかすめる。
棍を転回。下から打ち上げた。王春栄、わずかに顔を逸らした、ところに今度は頭上から打ち込む。
がん、と手応えが返る。棍の先が王春栄の肩を打った。
しかしその瞬間、棍が跳ね上がる。
(--え?)
驚く、間もなく。王春栄が打ち込む、手刀。慌ててユジンは後退。再び距離をとる。
(何、今の)
堅い手応えだった。しかし同時に弾力を感じさせる。ゴムか何か、弾むものに思い切り打ち付けて、その反動で棍が跳ね上がったような印象だった。しかしその芯は鉄のように堅い。鉄をゴムで包んだ身体、そんな印象だ。
「わけわかんねえって顔だな」
王春栄はにやにやとしまりのない顔をしている。ユジンの反応がいちいち楽しくて仕方がないかのように。
「お互い分かり合うには、まだまだ足りねえ。焦らず、じっくり、教えてやんよ」
言うや、王春栄が駆けだした。
棍の突き。ユジンが突き出すのを王春栄は首を傾けて避ける。避けながら体を回す。
男の背中を見た、と思った次には蹴り足が飛んでくる。咄嗟に棍で受ける、衝撃が全身を包む。
下がる、跳ぶ。棍をしごき、打ち込む。王春栄の胴をとらえる。棍が流れる。
崩拳打つ、王春栄。ユジンの顔面。
ユジン、半身に避ける。拳をやりすごす。そこに蹴りが飛んでくる。ぎりぎり身を反らしてかわすに、ユジンの鼻先を靴の先がよぎる。
下がる、ユジン。王春栄が追う。
王春栄の上段蹴り。ユジンは棍で打ち払う。王春栄蹴り足を戻さず、右足一本で続けざまに蹴り込む。鋭い刃めいたつま先が、ユジンの上段、下段、交互に遅いかかる。棍を振り回し、蹴りを払い、打ち、はじき返しては防御する。が、蹴りの連撃は思いのほか速く、ユジンは防ぐのに精一杯である。
突如、王春栄が飛び上がった。
空で身をひねり、回し蹴りを打つ。ユジンは棍で防御するが、その防御ごと打ち崩された。
体勢を崩した、ユジンの目の前に、再び王春栄の拳。
顔面。ユジンの首ごと刈り取るような左の突き。しかしその突きは、どういう訳かユジンの顔ぎりぎりのところで止まる。訳が分からずユジンは距離をとり、難を逃れる。
「あんま抵抗すんなよ。あんたの顔、ツブしちまうとこだったじゃねえか」
王春栄はおどけたようにそう言った。
「何を--」
この男、手加減したというのか。今の突きは寸止めだったのだ。お前なんかいつでも殺せるという意味で。
かっと顔が熱くなった。それが怒りなのかどうか分からない。衝動のままユジンは駆けだした。
「はぁ!」
叩きつける。棍を最大限しならせ直上から打ち据えた。王春栄が避けるに、棍が地面を叩く。雪が舞い上がり、地面をえぐる。すぐに棍を旋回、右、左と回して王春栄向けて打ち付けた。
旋回し、棍の両端を交互に打つ。その打ち込みを、王春栄はすべてかわし、あるいは手の先で捌く。棍はどれほど打ち込んでも空を切る。
棍を手中で回した。
しごく。突き。棍の切っ先をまっすぐ、王春栄の喉に。
消える、王春栄の姿。と同時に両足がそっくり刈り取られる。足場が消え失せユジンは派手に転倒、再び雪の上に投げ出される。
起き上がり、ユジンはすぐに構えをとる。王春栄はユジンが立ち上がるのを待っていたかのように、悠々と見下ろしていた。
「痛い目見るよか、あきらめたらどうだ? えっと、ユジンっていったか」
猫なで声。わざと神経を逆なでさせるように言っているようだった。
「こういう遊びも、嫌いじゃねえよ。けどよ、男と女、もっと他にヤることあると思わねえか、なあユジン?」
「気安く呼ばないで」
だからこっちも、嫌悪たっぷりでにらみ返してやる。けれどもそんなユジンの視線すらも愉快だと言わんばかりに、王春栄は笑っている。
「んじゃあ、しょうがねえな。痛い方が好きなら、そういう風に可愛がってやるからよ」
王春栄が歩み寄った。
棍を突き出す。それと同時に王春栄が突きを放つ。棍と拳が交わる。
王春栄が棍をつかみ取った。
ユジンが引っ張るのも虚しく、王春栄は棍をたぐり寄せ、ユジンを引き寄せる。そのままユジンの両足を払った。
果たしてユジンは地面に仰向けに倒される。
「じっとしてな。まあ抵抗しても無駄だが」
王春栄は暴れるユジンを組み伏せた。上から体重をかけ、両腕を抑えられる。はねのけようともがくが、びくともしない。
王春栄が顔を近づける。好奇と悦楽、これから先の展開を期待する下卑た目。その目の中に、ユジンの顔が映り込む。王春栄は右手でユジンの首を抑えた。軽く添えている程度なのに、喉がつぶれそうな力である。
「じっとしていろよ、力の加減難しいからよ。ちょっとの弾みでツブしちまうかもしれねえし」
声をあげそうになった。その声もつぶれた喉からは発することは出来ない。にらみ返した。しかしそんなユジンの反応も、男にとっては良い刺激にしかならないようだった。
にんまりと笑って、王春栄がユジンの服に手をかけた。それによって、ユジンの手に掛かっていたロックが甘くなった。
瞬間、ユジンは腰からナイフを抜き、王春栄の顔面に突き立てた。
手応え。王春栄が顔を押さえてのけぞる。その隙にユジンは抜け出した。そのまま後退して距離をとる。
王春栄が立ち上がった。
顔に刺したのに、その顔には傷一つついていない。
同時に、王春栄の顔から笑みが消えていることに、気づく。
「あんま調子こいてると」
王春栄はナイフを、指先だけで折り砕いた。
「ホントに殺っちまうぞ、お前。人が優しくしてやってれば」
あんたには世界一似合わない言葉だ、とか口走る余裕はなかった。男の発する殺気が、密度を高めてゆく感じを覚えていた。ユジンは低く構えを取り、王春栄の出方を伺う。
王春栄が動く。飛び込み、突きを放つ。
ユジンが棍で防ぐ、間髪入れずに掌底。さらに貫手。王春栄が連続で打ち込んだ。上下に打ち分け、さらに左右に切り込み、それらをユジンは危うく防ぎ、かわし、しかし徐々に捌ききれなくなる。
一旦引く。ユジン、王春栄の間合いから逃れる。王春栄が追ってくるのに、ユジンは棍を諸手に突っ込んだ。
蹴り。王春栄の左脚が弧を描く。
それと同時に、ユジンはしゃがみ、王春栄の軸足を払った。王春栄が派手に転倒した、ところに打ち込んだ。
「たぁ!」
渾身の打ち込みは、しかし王春栄の両腕によって阻まれる。棍の打突を両の手で防ぎ、すぐさま王春栄は飛び起きた。
再び蹴り。ユジンの胴を打つ。
咄嗟に棍で防ぐ。衝撃でユジンは吹っ飛ばされた。壁際に追いやられる。
すぐにユジンは体勢を整え、構えを取る。その目の前に拳。
かわす。半身になり王春栄の拳をやり過ごす。王春栄の崩拳がビルの壁を叩く、壁に亀裂が入る。
最大限にユジンは下がった。王春栄は舌打ちしてこちらに向き直る。
(本気で打ってきた……)
さっきまではとは違う。王春栄は少しだけ拳の威力を高めているようだった。いつでも殺せるのだという警告のつもりか。
つと、ユジンの首筋を冷たい汗が流れた。
また王春栄が間を詰める。一歩、王春栄が出れば、一歩ユジンは後退する。退いたところで自らを追い込むだけ、だから下がってはいけない。下がるな、と我に命令しても。体がもはやついていかない。
「うらあぁ!」
王春栄が飛び込む。五歩の距離を一瞬で詰めた。
拳を打つ。ユジンの顔。ユジンが避ける、その拳を手刀に変化。斜めに切り下ろし、さらに掌底。ユジンは棍で防ぐばかり。
王春栄、蹴り。
下がる、と同時に棍を打ち上げる。下から斜めに打ち込む。ユジンの棍と王春栄の蹴りが交錯する。
はじかれた。棍を持つ腕ごと衝撃で持って行かれる。慌てて体を戻すと、その眼前に拳。
身を反らす。ユジンの目の前を拳が過ぎ去る。身を反らした勢いのまま後ろに回り、ユジンは後退する。拳の圏外へ。
「意地ぃ張ってもつまんねえよ」
やや声の調子がきつくなった印象の王春栄。イラついたように、舌打ち交じりに語気を荒げている。
「俺もよ、あんまり気の長い方じゃねえからよ。おとなしくしなけりゃ、さっさとツブしちまいたくなっちまう。素直にヤらせてくれりゃ、痛いのなんて一瞬で終わるってのに。なあ? 何で抵抗する必要がある?」
下衆め。しかし心中で毒づいたところで、状況が変わるわけでもなし。このまま奴の打撃につきあえば、いずれ捌ききれず、間合いに入られて潰される。
かといって逃げきれるわけでもあるまい。王春栄の背後にあるビルを、ユジンは見た。そこにたどり着かなければ彰たちの元にはゆけない、だがそこにたどり着かせることなどしないだろう、この男は。
やることは一つ。
棍を水平に構えた。槍のように保持し、切っ先を王春栄に向ける。王春栄は、そんな無駄なことをというようにせせら笑っている。
走った。ユジンから仕掛けた。
まっすぐ、王春栄に突く。王春栄の右腕が、棍の切っ先を弾く。
すぐさまユジン、棍を引く。引き、しごき、再び突く。王春栄が防ぐのへ、さらにしごき、二度、三度と連続で突く。
王春栄の拳が棍の先を弾いた。
その隙に、踏み込む。王春栄が蹴りを放つ。
しかしユジン、冷静に切り返す。棍を引き、王春栄の顔面めがけて突き込む。棍の先が王春栄の額を捉えた。
王春栄がのけぞる。すかさずユジンが突く。王春栄、反撃の機を逃し、あえなく後退する。
王春栄、舌打ちして構え直した。額にあざのようなあとが残っている。
すぐさま王春栄が出る。
棍の刺突。王春栄が切っ先を弾く。体を踏み替え、懐に入る。
すぐにユジンは棍の先を入れ替え、もう一方の先端を突き出した。不意をつかれた王春栄、胸に突きを食らう。王春栄がひるんだ、その隙をついてユジンはさらに突く、二連撃。王春栄の顔面に浴びせる。
たまらず王春栄が逃れた。棍の届かない間合いまで。ユジンはすぐには追わず、先端を向けたまま牽制する。
王春栄はすぐには動かない。棍の先を警戒しているようだった。ユジンはそのまま後ずさり、ゆっくりと横に歩を進めてゆく。
一歩、入る。王春栄が踏み込んだ。
すかさず突き。ユジンの棍が王春栄の喉元に延びる。王春栄の足が止まった。
(これでいい)
下手に打ち込みにいけば、懐に入り込まれてしまう。間合いを近くされれば為すすべがない。徹底的に突きの間合いに徹していれば、少なくとも付け入れられることはない。
王春栄が近づいてくる。ユジンはさらに構えを深くする。腰を落として、飛び出せるように。
そして踏み込んだ。




