第1話:1億円
100,000,000。
通帳に刻まれた輝かしき九桁の数字を見てニヤける。
一億円。
遂に、達成した。
幼少期の節約から始まり、高校時代はバイトに明け暮れ、社会人になってからは投資と投機にも手を出した。
余計な浪費はせずに、周囲が遊んでいる間もひたすら貯め続けた。
十数年以上も己を律して築いた人生のレガシーと言っていい。
どうして、そこまでして金を貯めたのか?
それはこの世界において金こそが全ての価値の根源であり、金こそが幸福だからだ。
良識ぶった連中は『金で買えないものもある』なんて言うが、そんなのは負け惜しみか詭弁だ。
金があれば世の中にある99.9%の物が手に入る。
それは値段の付けられる物に留まらず、時には人の心だって金で動く。
俺が貯めた一億円は、人の命だって買えるような金額だ。
そう、これだけの金があれば……なんだってできる!!
「ままー? あの人、何してるの?」
「しーっ……! 見ちゃダメ……!」
中河川にかかった橋の上。
太陽に透かした紙幣の価値に浸っていると、通りかかった親子の冷たい視線が突き刺さる。
けれど、そんなことは微塵も気にならない。
何故なら俺の口座には、一億円が入っているからな!!
ふっふっふ……と、悪役笑いが漏れるのを堪えながら立ち去る親子に勝ち誇る。
一億円……ああ、一億円……。
なんだってできるし、なんにだってなれる夢の金額。
長かった我慢の日々もこれまで。
今日からはやりたいことを全部やってやる。
あれもこれも全部だ。
さて、手始めに何からしよう……。
橋の欄干に身体を預けて、遥かに広がる水平線を見渡しながら思案に耽るが……。
何しよう……。
頭の中に、具体的なことが何も思い浮かばない。
やりたいことはいっぱいあったはずだ。
我慢してきたことはいっぱいあったはずだ。
同年代の皆が享楽に耽っているのを、ずっと横目に見てきた。
金を貯めてる最中は、それらをモチベーションにして頑張ってきたはずなのに……。
どうして、何も思い浮かばない?
この時のために半生を捧げて、時には大事なものだって犠牲にしてきたのに。
まるで目標を達成してしまった自分が、とても空虚な存在になったように思えてきた。
いや、違う。そんなわけがない。
やりたいことが多すぎて、これと言った1つに絞れないだけだ。
手にした一万円札を見ながら、必死に今やりたいことを考える。
そうだ! 飯だ! まずは美味い飯を食べよう!
思えば、ずっと節約ばかり考えて碌なモノを食べてなかった。
肉でも寿司でも、一人ならこの一万円で満足するだけ食べられる。
そうと決まれば善は急げだ……と踵を返そうとしたところで――
「あっ……!」
ピューっと吹いてきた一陣の風に、持っていた札がさらわれた。
「こらっ、待て……!」
俺の一万円……いや、1万分の一億円が風に吹かれて逃げるようにフラフラと漂う。
「このっ……! ちょこまかと……!」
捕まえようとすると、まるで俺を嘲笑うようにスルッと抜けていく。
視界の端、遠くの樹木が大きく揺らめき強風の到来を予感させる。
まずい。
このままだと川の方へと飛ばされてしまう。
かくなる上は……
「いちまんえーん!!!」
宙を漂う紙幣へと文字通り飛びつき、両手でそれをしっかりとキャッチする。
「よし、捕まえ……」
肖像画の偉人と視線が合った瞬間、気持ちの悪い浮遊感を覚える。
静止した時の中で視線を下方へと移す。
俺の身体は欄干を超えて、足元には青黒い水面が広がっていた。
「たぁアアアあああああああああッッ!!!」
時間が動き出し、あっと言う間に俺の身体は水面へと叩きつけられた。
凄まじい衝撃に、全身へと纏わりつく凍えるような冷たさ。
氷のように冷たい水が口から体内へと新色してくる恐怖。
上下の感覚を喪失し、パニックになる。
死ぬ? こんなところで? せっかく一億円を貯めたのに?
肉は? 寿司は? 俺の豪遊計画は?
そんな終わりへの恐怖も、脳機能の低下と共にすぐ薄れる。
冬の水は俺の身体から自由を奪い、意識は暗闇の中へと消えていった。
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『ピピピッ! ピピピッ! ピピピピピピ!!』
けたたましいアラーム音で意識が覚醒する。
直前に感じていた凍てつくような冷たさはどこにもない。
代わりにあるのは、全身を包み込む抱擁のような暖かさ。
「……くーん!」
アラームの音に紛れて、どこかから声が響いてくる。
聞き覚えはあるが、随分と懐かしさを感じる声だ。
意識が徐々に覚醒してくる。
鼓膜を揺らすアラームの音が、より鮮明になる。
「生きてる!?」
上半身を勢いよく起こすと同時に、自分の意識がまだ現世にあるのを理解した。
「生きてる! 俺、生きてる!」
身体にかけられていた布団を剥ぎ取ると、両手と両足もしっかりとあった。
「よ、良かった……あんなマヌケな死に方をしてたら死んでも死にきれないからな……」
肺の奥底から安堵の息を吐き出す。
そうして落ち着き、今度は自分の置かれた状況に目を向ける。
「かずくーん! 早く起きないと学校遅刻するよー!」
扉の向こうから再び、さっきの声がより大きく響いてくる。
「は? が、学校……? 遅刻……?」
聞き覚えはあるが、あるはずのない声。
そして、それが俺に告げたのはもう何年も聞いていない組み合わせの言葉だった。
パニックになるわけでもなく、冷静に、もう一度自分の身体を見る。
よく見ると、全体的に肌に張りがあるような気がする。
まさか、そんなことがあるわけ……。
脳裏に過ったありえない空想を否定しつつ、顔を横に向ける。
「な、なんじゃこりゃああああああああ!!」
どうなっても冷静を保とうという決意は、ガラスに映った自分を見て霧散した。
そこにある顔は、まるで十年は若返ったようなあどけなさをしていた。




