第279話 一番の嵐は母さんよ
―――帰らなきゃいけないみたい。
先程まで電話していたスマホを片手に、ゲンキングがそう告げた。
その表情は悲しそうで、寂しそうで、しかし諦念を見せるようにため息を零す。
「おばあちゃんを一人にするわけにもいかないし。
それに、私の家は琴ちゃん家からそこそこ遠いし.....ハァ、ここまでかな」
心底、このチャンスを逃すことに言い尽くせぬ気持ちを抱えているのか、ゲンキングから陰キャ特有のじめっとした負のオーラが溢れ出す。
それを感じる俺も俺だが。
そんな彼女の言葉を聞き、俺は「そっか」と短く頷くと同時に、微かな安堵が出そうになった。
理由は言わずもがな、ゲンキングという一種の竜巻が過ぎ去ってくれるからだ。
人がいなくなって安心感を得るというのは、なんとも性根が悪く見えるかもしれない。
しかし、今回ばかりは断固ゲンキングが悪いと言い切らせてもらおう。
「おばあちゃんを心配させるわけにはいかないよな」
俺がこの場所にやってきたのは、あくまで「勉強会」が目的だ。
多少なりとも下心があったとしても、ある程度目標が達成できるのならそれで良かった。
しかし、ダーティにもゲンキングはその時間を全力で俺への攻略に費やした。
それも、本人に似つかわしくない色仕掛けで、だ。
いくら俺の体が思春期真っ盛りであろうと、精神年齢ぐらいは大人のつもりだ。
そして、大人の俺の目標の一つとして、「心を入れ替えて真摯に取り組む」というものがある。
「俺も母さんを心配させるようなことはしたくないしな」
それは最初に母さんの顔を見た時、絶対に揺るがしてはいけない誓い。
それを蔑ろにしてしまったら、俺がこの年齢に戻って来た根本的な理由を失う。
だからこそ、たとえ学園ハーレムを築いているような状態でも、俺は紳士対応でいくつもりだ。
どこまで出来てるかわからないけど、それでも俺なりにやりとげる。
ま、付け加えて言うなら、俺の精神年齢が警告を鳴らしてるのもあるけど。
いくら合意でも、犯罪になるやも知れんと。
「......だね。なら、帰ろっか」
「あ、俺、トイレ借りてくつもりだから先に帰ってていいよ。
それで待たせるのも悪いし、雨足が強まるっても困るでしょ?
それにさっき、自宅までそこそこ距離があるって言ってたし」
ゲンキングのことを気遣って言葉をかけると、なぜか彼女から細い目つきを向けられる。
胡乱な瞳が俺の言葉を疑っている。
ややその瞳の光が濁って見えるのは気のせいか。
しばらく向けられる視線に、俺は型に押し当てたように動かない口を向けた。
もちろん、その形は微笑一択だ。そして、返す視線は出来るだけ真っ直ぐに。
「......どうした?」
首を傾げて問いかければ、ゲンキングは吐息し、おもむろに首を振る。
「別に、なんでも。それならわたしは先に帰るとするよ」
若干ふてくされたような口調で、机のそばにある荷物をまとめるゲンキング。
それを肩にかけると、そのままドアに移動し、ドアノブに手をかけようとして――
「ちゃんと帰るんだよ」
と、言葉を残し、部屋から出ていった。
その後ろ姿がドアによって隠されるまで見続け、俺はため息を――
「じーっ」
吐こうとして、不意に開いたドアに体をビクッと震わせる。
ドアの数センチ隙間から再び胡乱な瞳が、俺の全身を刺した。
そして数秒後、ドアがバタンと締まる。
二階を下りていく音がした。どうやら今度こそ行ったみたいだ。
その事実に、俺も今度こそ大きく息を吐いた。
「......あれ、たぶんバレてるよな」
その呟きの通り、俺はゲンキングに嘘をついた。
というのも、俺はトイレを借りるつもりもなければ、すぐに帰るつもりもない。
俺がここに来た目的は「勉強」であり、その目的がしっかりと果たされているかと問われれば微妙なところだ。
だからこそ、もう少しだけやろうかなと。
なんかキリ悪い所で止まってて気持ち悪いし。
そんなことを思いつつ、左腕につけた腕時計をチラリ。
「17時少しすぎぐらい、か......」
ここから俺の家までは決して近いとは言えないが、さして遠いわけでもない。
まぁ、雨は降ってるし、もうとっくに外は真っ暗だが、帰れはするだろう。
「もう少しだけやるか」
「あれ? 拓海君どうしたの?」
いざやろうとしゃがもうとした時、背後からドアを開けて琴波さんが現れた。
そんな彼女の顔はキョトンとしていて、手には一人分の飲み物しか持っていない。
つまり、察するにこれから一人で勉強を再会しようとしていた感じか?
「てっきり帰ってるものだと。さっき唯華ちゃんが『拓海君も帰る』って言ってたし」
どうやら予想は当たりらしい。そして、その告げ口はやはりゲンキングか。
俺がすぐに帰るつもりはないってのはバレバレだったみだいだな。
とはいえ、俺のやることは変わらないけど。
「ごめん、やっぱりもう少しいてもいい?
ちょうど今やってる問題がキリ悪いところで中断してる感じでさ」
俺がそう問いかけると、琴波さんは少しだけ頬を紅くして、
「うん、いいよ。なんなら、泊っていけば......なんてね」
「ハハハッ、御冗談を」
顔を俯かせながらも、目線は俺を見るように。つまり、上目遣いだ。
自分の欲張りな願いに羞恥心を感じてる姿がなんともいじらしい。
正直、普通に可愛いと思ってしまう。
おぉ、俺ってばちゃんとストレートに感じ取れるようになってきたんだな。
まぁ、さすがに言葉に出すまでには至らないけど。
出来ても恥ずかしいからしないけど。
それはさておき、たとえその気持ちに本心が隠されていようとも、それは飲めない。
後が怖いというのもあるが、それ以上に男女が一つ屋根の下ってねぇ?
いやまぁ、ご両親は帰ってくるのが遅くなるって話だから、仮にそうなっても帰ってくるだろうから杞憂もいいとこなんだけど。
「......だよね、ごめん。ちょっと雰囲気を良くしないとって」
そう言って、琴波さんはそそくさと机に飲み物を置き、座った。
おおげさに腕を上げては、その腕の裾を捲って「やるぞー!」とアピールしている。
そんな彼女は明らかにごまかしの雰囲気だが、ここまで明け透けだといっそ毒気が抜ける。
これが先程のゲンキングならすぐさま裏があると考えていただろう。
......いや、裏とかそれ依然に、彼女は即実行型のトライ&エラータイプだ。
こっちの攻略を仕切るまでその勢いが収まることはないだろう。
「......そういう意味じゃ、少しばかり感謝だな」
俺はカーテンで見えない窓を通して雨を見た。いや、幻視した。
そして、視線を下ろし、机に広げたままのノートに目を向ける。
同じようにその場に座ると、勉強を再会し始めた。
それからどのくらいたっだろうか、少なくとも俺が集中力が途切れたのは、机に置いてあった俺のスマホが音を鳴らした時だった。
「ん? 母さんからだ......電話だ。ごめん、出ていい?」
「うん、いいよ」
着信に気付き顔を上げた琴波さんの許可を得て、俺は電話に出る。
「もしもし、母さん。どうしたの?」
そう言いながら、俺はチラッと腕時計を見た。
おっと、気が付けば1時間半も経ってる。こりゃ帰らな。
「あ、ごめん。ちょっと友達と勉強してて遅くなってるのに気づかなかった」
『それはいいんだけど、あ、もしかしなくても女の子でしょ?
お母さんそういうのわかっちゃうんだから。それにそれはどうでもいいの』
思わず母さんの軽口に反応しそうになったが.......ん? どういうこと?
いや、そのままの意味か。別に遅くなってても問題なしと。
その信頼は嬉しいけど、そこまで放任主義もいかがなものか。
『今、大雨警報出てるんだけど、知ってる? 外、ザッバーザッバーよ?」
「え、そうなの?」
独特な雨量表現に戸惑いながらも、俺は立ち上がって窓に近づく。
その際、琴波さんにジェスチャーで「窓開けていい?」と聞き、頷きが返って来たのでカーテンを開けた。
「わぁ、ザッバーだわ.......」
外を見るまでも無かった。窓に打ち付ける雨で理解できる。
バチバチと少し高い音を響かせながら、雨が窓にぶつかっていた。
それも大きい雨粒は一瞬弾け、広がり、そしてガラスに沿って流れ落ちる。
当然、それは一つではなく、大量に降り注ぎ、若干外の様子も見づらい。
雨粒で視界不良になる中、目を凝らして見てみれば、街灯に照らされた誰かさんの家の低木が激しく揺れていた。
『でしょー? ってわけで、今日は帰ってこなくてオーケーです』
ん? 何言ってんだ?
俺は咄嗟に窓から顔を放し、そのまま窓に背を向ける。
「え、ちょ、母さ――」
『外危ないしでずぶ濡れで帰ってこられても困るし。
というわけで、お母さんは伝えることは伝えたので切りまーす。
あと、イチャイチャしすぎないようにね。
息子のリアル昼ドラは、さすがにお母さんも堪えるから』
―――ブチッ
「.......」
俺は唖然となった。いやまぁ、あの奔放さが売りの母さんのことだ。
頭も奔放になるぐらい覚悟してた。覚悟してたけど――、
「た、拓海く――」
「あんの人はああああぁぁぁ!」
思わず魂の叫びが出る。
その声に琴波さんがビクッと肩を震わせるのが分かった。
だけど、仕方ない。仕方ないじゃないか。
だって、母さんが.......ってあれ? 母さんが俺の覚悟を一番乱そうとしてね?
読んでくださりありがとうございます(*‘∀‘)
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