69.ぎこちない朝食(1)
「ルア様、おはようございます」
シャッという音とともに、厚手のカーテンが開かれ、朝の光が部屋に差し込んだ。まぶしさに目を細めながら、私はゆっくりと体を起こす。
今日から、エルヴァーン家の一員としての日々が始まる。彼らは私を受け入れてくれたけれど、まだ心の距離はある。これからの行動次第で、この家での私の立場が決まっていくのだ。
だから、最初が肝心。ちゃんと絆を深めて、認めてもらわないと。
「それでは、お支度をいたしましょう」
「お願いします」
ベッドから降りると、ファリスが手際よく洗面台へと案内してくれる。歯を磨き、顔を洗う。
スラムにいた頃には縁のなかった朝の支度という習慣に、まだ少し戸惑いを覚える。でもこれからは、きちんと身につけていかないと。
支度を終えると、ファリスが衣装を抱えて近づいてきた。寝間着を脱ぎ、滑らかな生地のワンピースに袖を通す。思わず指先で布地をなぞる。
……すべすべしてる。こんな服、初めて。
「では、鏡台の前にお座りくださいませ」
言われるままに腰を下ろすと、ファリスが櫛を手に取り、丁寧に髪を梳き始めた。髪が引かれるたび、さらさらと柔らかい音が響く。
「髪をまとめるのも素敵ですが……このままでも十分に可愛らしいですね。何かご希望はございますか?」
「できれば、このままでお願いします。まだ慣れていなくて……。あまり変えるのが怖いんです」
「承知いたしました。では、整えるだけにしておきますね」
ファリスは手早く整えたあと、髪の横に小さな花飾りのピンを留めてくれた。
「はい、出来上がりました。飾りをつけると、より一層可憐です」
「ありがとうございます」
「ふふっ。ルア様はもう貴族令嬢なのですから、お礼を言わなくても大丈夫ですよ」
「でも……言わないと、なんだか落ち着かなくて」
「まぁ……お優しいこと。きっとその優しさで、エルヴァーン家の皆様の心も溶かせますよ」
そう。昨日、心に決めたんだ。この静かな屋敷を、少しでも明るくしたい。
「では、食堂へ参りましょう」
私は深く頷き、背筋を伸ばして立ち上がった。小さな一歩でも、ここから始めよう。
◇
食堂に着くと、まだ誰の姿もなかった。朝の光がテーブルクロスの上に柔らかく広がっている。私は指定された席に腰を下ろし、静かに家族を待った。
やがて、扉がゆっくりと開く音がする。入ってきたのは、義弟のルークだった。
「おはようございます」
私は出来るだけ明るい声で挨拶をする。けれど、返ってきたのは小さな、か細い声だった。
「……おはようございます」
ルークは視線を落とし、ちらちらとこちらを伺ってくる。興味はありそうなのに、どう話していいのか分からない――そんな様子だ。彼は私の隣の席に静かに腰を下ろした。
ここは、話すチャンスだ……!
「ルークは早起きなんですね。朝からきちんと起きられるなんて、すごいです」
勇気を出して声を掛けると、ルークは少しだけ顔を上げた。
「……普通です」
「普通にできることがすごいんですよ。毎日続けるって、なかなか出来ませんから。ルークは立派ですね」
そう言うと、ルークの瞳が一瞬だけ揺れた。けれど、すぐに俯いてしまう。
「僕は……立派じゃない」
「え?」
思わず聞き返すと、ルークは小さな声で続けた。
「だって……貴族なのに、魔法が使えないから」
その瞬間、彼の声がかすかに震えた。胸の奥にしまっていた劣等感が、ぽつりと零れ落ちたのだろう。
「お父様も、お母様も使えるのに……僕だけ出来ない。だから、僕は……本当の子供じゃないんだ」
ルークは唇を噛みしめ、目を伏せた。幼い顔に似つかわしくない、深い影が落ちる。
貴族の家の事情なんて、私にはよく分からない。けれどその言葉の重さだけは、痛いほど伝わった。きっと、長いあいだ一人で悩んできたのだろう。
「貴族にとって、魔法というものは大事なんですね」
「……うん、とっても。ルアには分からないかもしれないけど」
ちょっと冷たく突き放すような言い方だ。だけど、子供らしい言葉でもある。だから、私は素直にその言葉を受け取る。
「私も昨日来たばかりだから、何にも分かりません。だから、これから少しずつ学んでいこうと思います。ルークは私にとって義弟でもありますが、貴族としては先輩に当たりますね」
「……先輩?」
「ルークは私よりも色々知っていて、凄いって事です。だから、色々と教えてくださいね」
そう言って笑顔を向けると、ルークは呆気に取られた顔をした。だけど、ハッと我に返ると、視線を逸らす。
「ま、まぁ……少しは教えてもいいよ」
「本当ですか? 嬉しいです!」
「でも、家庭教師に教わったほうがいいと思うけど……」
「ルークにしか知らないことも沢山あると思うんです。そういう事を教えてくれると、嬉しいです」
出来るだけ優しく言うが、反応はない。視線を逸らしたままだ。だけど、先ほどよりは雰囲気が良くなっているような気がする。
「……今は自分の事に集中した方が良いんじゃない? 勉強とか難しいよ」
「それは、精一杯頑張ります。だけど、それ以上にルークの事が大事です」
「僕の事が? 昨日会ったばかりなのに?」
「大事だと思うのに、時間は必要ありませんよ」
「……ふーん」
気のない様子だけど、足がブラブラと揺れていた。どことなく嬉しそうな様子なのは、少しは距離が縮まったと思ってもいいだろう。
次はどんな話をしよう。そう思っていると、また、扉が開いた。そこには義父のディアスと養母のエレノアがいた。
「待たせたな、食事にしよう」
そう言うと、待ってましたかと言わんばかりにメイドたちが動き出す。出来立ての食事を持って来ると、私たちの目の前に並べた。それが終わると、順々に手を付けていく。
さて、普通なら家族団らんの時間だ。だけど、誰一人話そうとはしない。まるで、これが当たり前かのようだ。
ここは、私が家族の団らんの時間に変える時だ。




