68.エルヴァーン伯爵家の疑問
「うぅ……疲れた」
自室のソファーに腰を下ろし、ぐったりと背もたれにもたれかかる。やっと終わった。そう思うだけで、全身の力が抜けていった。
ついさっきまでの夕食。華やかな料理が並んでいたのに、あの場の空気はどうにも重たかった。
伯爵――養父となったはディアスは終始穏やかな表情を保ちながらも、私に対して慎重に言葉を選んでいた。
「ルアは……以前はどんな本を読んでいたのだ?」
「えっと、文字が読めないので本は読めませんでした」
「そうか。なら、勉強を頑張ろう」
そんな感じで、当たり障りのない質問が続いた。
「好きな食べ物は?」「どんな勉強をしてきた?」――どれも優しい質問なのに、心の奥まで届かない。まるで、見えない距離があるみたいだった。
時折、伯爵夫人――エレノアが微笑んで話題を繋ごうとする。
「この料理は、ルアの口に合うかしら?」
「ええ、とても美味しいです」
「そう、それは良かったわ」
そこまではよかった。でも、それで会話が終わってしまうのだ。
せっかく気を使ってくれているのに、どうしても自然に続かない。私もどう答えていいか分からず、無理に笑うだけで精一杯だった。
そして、対面に座る義弟――ルークは、食事の最初から最後までほとんど口を開かなかった。
ちらりと視線を向けると、静かにナイフとフォークを動かし、時折こちらを見ては目を逸らす。
不機嫌というより、どう接していいか分からない、そんな表情だった。
結局、賑やかになることもなく、伯爵が「ごちそうさま」と締めるまで、食卓には穏やかで、けれどどこか冷たい沈黙が流れていた。
「……なんか、静かすぎて逆に疲れる」
誰も怒っているわけでも、責めているわけでもない。ただ、まだ家族になりきれないぎこちなさが、食卓全体を包んでいた。
豪華な食事よりも、お店で食べた食事の方がとても美味しかった。あの賑やかな食卓を思い出して、少しだけ切ない気持ちになった。
その時、扉をノックする音が聞こえた。慌てて姿勢を正し、返事をする。すると、扉が開き、そこには一人のメイドがいた。茶色い髪をポニーテールにした二十台前半の女性だ。
「恐れ入ります。本日付けでルア様の専属メイドを拝命しました、ファリスと申します。これから、よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします」
まさか、私専属のメイドが付くなんて思いもしなかった。こんなに手厚いのだから、私が嫌われているということはなさそうだ。
「生活を始められて、不安な事があると思います。気になった事でしたら、なんでも話してください」
「……なんでもいいんですか?」
「はい、大丈夫です」
おずおずと聞くと、ファリスは二コリを笑って頷いた。少し戸惑う気持ちはあるけれど、聞いてみたいことはある。
「食事の時、とても穏やかな感じでした。いつも、あんな感じですか?」
「いつもは会話はありません。今日はよく喋っていらしたと思います」
「い、いつもは会話がないんですか!?」
そんな……。いつもは会話がないなんて。貴族の家ってそれが普通なんだろうか? マナー的な理由で話をしていないのだろうか?
考えに耽っていると、ファリスは少し困ったように笑いながら口を開いた。
「エルヴァーン家は、もともと会話が少ない家風なんです。けして仲が悪いわけではありません」
「そうだったんですね。てっきり、私が入ってから気まずくなったのかと思ってました」
「そんなことはございませんよ。皆様、ルア様のことを心待ちにしておられました」
……あの、微動だにしない食卓の光景が楽しみにしていたってこと?
エルヴァーン家って、感情を表に出すのが苦手なのかもしれない。
「確かに、他のご家庭に比べると物静かな印象があります。でも、皆様とてもお優しい方々なんです」
「そうなんですね。教えてくださってありがとうございます」
「ルア様は、明るい雰囲気のほうがお好きですか?」
「はい。明るいと、自然と楽しい気持ちになりますから。だから、もっとお話したりして仲良くなれたら嬉しいです」
「それは素晴らしいことです!」
ファリスはぱっと顔を輝かせ、勢いよく身を乗り出した。
「実は、私どももずっとエルヴァーン家をもう少し明るくできたらと思っていたんです。でも、なかなかうまくいかなくて……。けれど、ルア様が養女としてお越しになると聞いて、『これはチャンスだ!』と」
「チャンス……ですか?」
「はい。ルア様のお力で、この家を少しでも和やかにしていただけたらと」
ファリスの瞳がまっすぐに私を見つめてくる。確かに今のままでは、息が詰まりそうだ。けれど、ほんの少し明るくなれば、この家はきっと変われる。
せっかく養女として迎えてもらったのだから、本当の家族のように笑い合える関係になりたい。だったら、私がそのきっかけになれたらいい。
「どれだけのことが出来るか分かりませんが……エルヴァーン家を、少しでも明るくしてみようと思います」
「本当ですか!? でしたら、私も……いえ、私たち皆で全力でお手伝いさせていただきます!」
ファリスは心から嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見て、胸の奥に小さな灯りがともるのを感じた。
もちろん、すぐに家族になれるとは思っていない。けれど、少しずつ言葉を交わして、互いを知っていけたならきっと、関係は変わっていく。
その過程で、エルヴァーン家が少しでも明るくなれたらいい。ううん、そうじゃない。
私が、エルヴァーン家を変えてみせる。




