65.あれからひと月後
「ルア、料理が出来たぞ!」
「はいっ!」
ノットの声が厨房から聞こえ、私はぱたぱたと小走りで駆け寄った。湯気の立つ料理を丁寧にトレーに乗せ、笑顔を作って客席へと運んでいく。
今の私は、また獅子の大皿亭で忙しく働く毎日を送っている。以前と変わらない、慌ただしくも温かな日々。だけど、ふとした瞬間に思うのだ。あのリディアとの時間は、本当に夢だったのではないかと。
けれど、あれは確かに現実だった。私はあの仕事をやり遂げ、そしてリディアと過ごした時間は、胸の奥にしっかりと刻まれている。
あの日、リディアが馬車に乗り込むと、シリウスが私に声をかけてくれた。今回の件への感謝と、後日正式に報酬を届けるという約束の言葉。
リディアは静かに手を振りながら、王宮へと戻っていった。私は、その馬車が見えなくなるまで、ずっとその背中を見送っていた。
任務を終えたあと、情報屋のおじさんに報告を済ませ、私は再びこの獅子の大皿亭へ戻ってきた。そこからの日々は、まるで何事もなかったかのように穏やかで、同じように流れていく。
けれど、どんなに忙しく働いていても、心のどこかでリディアのことを思い出してしまうのだった。
「おまたせしました!」
「おぉ、ありがとよ!」
「あの……リディア王女様のことで、何か新しい話はありませんか?」
「んー、今のところは何も聞いてねぇな」
「そうですか……ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ」
その答えに、ほんの少しだけ胸がしぼむ。けれど、すぐに表情を引き締めて、次の仕事へと向かった。
私は今、リディアのことをお客さんたちから少しずつ聞き集めている。どうしてあの方は、王女でありながら身を隠すように暮らしていたのか。その理由を、知りたかった。
そして、集まった断片をつなぎ合わせるうちに、一つの仮説が見えてきた。
リディア様は側妃の子でありながら、王家に受け継がれる特別な力、アルディアの瞳を宿していた。
それは、見た者の意識を縛り、肉体の自由を奪うという恐るべき力。この瞳を持つ者こそ、代々アルディア王国を治めてきた真の王の証とされている。
本来なら、リディア様こそが次代の王となるはずだった。だが、それを快く思わない者がいた。王妃だ。
王妃には一人の息子がいる。彼女はその息子を王に据えたいと望んでいた。けれど、息子にはアルディアの瞳が宿らなかった。だからこそ、王妃は密かにリディア様の命を狙うようになった。
現王はそれを察し、リディア様を守ろうとした。
だが、側妃の実家は力のない伯爵家。一方で王妃の実家は公爵家。その差はあまりにも大きい。
王が外遊で不在になると聞いた時、側妃は娘を守るための奇策に打って出た。それが、替え玉を王宮に残し、本物のリディア様を市井へと隠すという計画。
結果として、その策は成功した。リディア様は王宮を離れながらも無事に過ごし、そして今は再び王宮へと戻られた。
これが、私が聞き集めた話をもとに立てた推測だ。どこまで真実かは分からない。でも、きっと大筋は間違っていないと思う。
……他にも気になることはある。けれど、今の私にできることは何もない。ただ、ホールでお客さんと話をしながらも、心の中でそっと願う。
どうか、リディア様が無事でありますように。
そう思っていると、店の扉が静かに開いた。私は反射的に顔を上げ、笑顔を作って声をかける。
「いらっしゃいま――」
「失礼する。ここに、ルアという少女がいるはずだが?」
扉の向こうに立っていたのは、見慣れない人物たちだった。深い青の官服に身を包み、胸元には王家の紋章が輝いている。どう見ても、ただの客ではない。
厨房の奥からハリーが慌てて出てきて、警戒しながら声をかけた。
「えっと、失礼ですが……どちら様でしょうか?」
「我々は王宮から派遣された官吏である。ルアという名の少女に、正式な報酬をお渡しに参った」
「ルアに、報酬……? あ、あの、少々お待ちください!」
ハリーは目を丸くして、急ぎ足でこちらへ向かってくる。
「ルア、あなたのことみたいよ。どうやら、悪い人たちではなさそう。行ってきなさい」
「は、はい……!」
背中を押され、私は緊張しながら官吏たちの前に進み出た。心臓がどくどくと音を立てる。
「あの……私がルアです」
先頭に立つ官吏が、厳かに頷く。
「そうか。では、これより王命により、あなたに書状を読み上げる」
そう言って、彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。厚みのある紙が、静まり返った店内の空気を切るように開かれる。その瞬間、周囲の空気が少しだけ張りつめた気がした。
官吏は手にした書状を丁寧に広げ、店内に響くようなはっきりとした声で読み上げた。
「アルディア王国より、功績を称える報せを伝える。
身分を明かさぬある御方を護衛し、その安全を守り抜いた少女、ルア。その勇気と誠実なる行動は王国の誉れであり、深く称賛に値するものである。
よって、これを褒章とし、ルアをエルヴァーン伯爵家の養女として迎えることを許可する。以後、ルアは同家の庇護のもと、新たな道を歩むことを認める」
官吏は書状を静かに閉じ、深く一礼した。
「以上が、あなたの功績を讃える正式な通達である。明日、迎えが来る。それまでに、エルヴァーン伯爵家に行く準備を終わらせておくように」
話が終わると、官吏たちは丁寧に一礼し、店を後にした。扉の鈴が鳴り、静けさが戻る。私はその場に立ち尽くしたまま、何も考えられなかった。
まるで、夢を見ているみたいだった。
――が。
「い、今の話、聞いたか!? ルアが……伯爵家の養女だって!」
「すごいじゃないか、ルア!」
ハリーとノットの声が一気に現実に引き戻してくれる。二人は信じられないといった顔で私の周りに駆け寄った。
「わ、私が……伯爵家の、養女? し、信じられません……」
「嘘を言ってるような雰囲気じゃなかったわ! 本当によかったわね、ルア!」
「一体どんなすごいことをしたんだよ!」
ハリーとノットの笑顔を見ているうちに、じわじわと実感が湧いてきた。すると、お店の中で様子を見ていたお客さんたちが、次々と立ち上がる。
「おい、今の聞いたか!? ルアが伯爵家の娘様になるんだとよ!」
「やったじゃないか、ルア!」
「すげぇ! あのスラムの子が……本物の貴族になるなんて!」
「ルアならやると思ってたわ! いつも頑張ってたもんね!」
気づけば、店中が歓声に包まれていた。誰もが笑っていて、誰もが私を祝福してくれていた。ハリーは涙ぐみながら私の肩を抱き、ノットはいつになく真面目な顔で言った。
「……本当に、よく頑張ったな。お前は、胸を張っていい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥があたたかくなった。嬉しくて、涙がこぼれそうになる。
「みんな……ありがとう……!」
そう言うと、周囲からさらに大きな拍手と歓声が起こった。笑い声と祝福の言葉に包まれて、私は小さく笑った。
あの頃、スラムの片隅で、ただ生きることだけを考えていた自分が。今、こんなにも多くの人に祝ってもらっている。
夢のような出来事だけど、それでも確かに、私はここにいる。温かな光の中で、胸にそっと手を当てた。
ありがとう、リディア。あなたに出会えたから、今の私がある。その想いを静かに噛みしめながら、私は笑顔で涙を拭った。
そして、新しい人生の幕が、静かに開こうとしていた。
第一章完。
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