26.煙突掃除(7)
ぎゅっと手に力を込めて、ブラシを押しつける。
毛の部分が少し広がり、内壁の黒い煤をこそぎ落としていく。押しつけるとじりじりと煤を削る音が微かに聞こえた。ザリ……ザリ……。その感触と音だけが、今の私の感覚のすべてだ。
目の前は真っ暗だ。ランタンは持ち込めない。火なんてつけようものなら、残った煤や油が燃えてしまうかもしれない。だから、頼れるのは指先の感覚と、手で壁を探る感触だけ。
鼻の奥にじんと染み込んでくるのは、煤の匂い。喉がいがらっぽくなるし、目もしばしばしてくる。けれど、ここで止めるわけにはいかない。
ブラシを動かすたび、細かい粉が舞って、顔にかかる。口を布で覆っているのに、咳が出そうになるのを必死でこらえた。ここでむせてしまえば、口の中に煤が入ってくる。涙も出る。だけど、それでも続けた。
光がなくても、どれだけ擦ったか、どれだけ綺麗になったかは、手の感覚でわかるようになった。ごつごつとした壁の感触が、少しずつ滑らかに変わっていく。達成感は小さいけれど、それが積み重なるのが嬉しかった。
そして、とうとう一番下まで辿り着いた。出入口の光を頼りに最後の内壁を綺麗にしていく。ここは一番煤が溜まりやすい所だから、一番力を入れて内壁を擦った。
最後の力を、ぎゅっと振り絞る。
腕はもう鉛のように重く、縄を巻きつけた腹は擦れてひりひりと痛んだ。何度も限界が頭をよぎったけれど、それでも、ここまでやってきた。
「自分なら、できる」
そう言い聞かせながら、最後のひと刷け。煤がこびりついた内壁に、毛の硬いブラシを押し当てて擦る。ガリガリと嫌な音がして、煤がぽろりと落ちた。
「……終わった」
息をつく。
わずかに開いた出入口から射し込む微かな光が、内壁をぼんやりと照らしていた。真っ黒だった壁に、ようやく石の地肌が見えている。もう十分だ。これなら、文句は言われないはず。
煤まみれの手を握りしめて、そっと目を閉じた。胸の奥にじわりと広がるのは、達成感と安堵、そして少しの誇らしさだった。
それから、私は縄を伝って登りはじめた。
だが、すでに手や腕は限界に近く、思うように力が入らない。それでも諦めず、足で壁を蹴りながら、反動をつけるようにして一気に登っていく。
やがて、煙突の出口が視界に入った。あの光を目指して、最後の力を振り絞る。
もう少し。そう思いながら、手を伸ばすと、ついに煙突の縁に指がかかった。全身の筋肉が悲鳴を上げる中、どうにか体を持ち上げる。
そして――ようやく、顔を煙突の外へ出すことができた。
「ぷはぁっ!」
縁に腰を下ろすと、すぐに顔を覆っていた布を外す。新鮮な空気が肺に流れ込んできて、思わず深く息を吸い込んだ。苦しかった分だけ、その一呼吸がたまらなく心地よい。
「よう、お疲れさん」
聞き慣れた声に振り向けば、オルガがこちらに近づいてくるところだった。
「ほらよ、水を飲みな」
「ありがとうございます」
手渡された水筒を受け取り、そのまま中の水を一気に喉に流し込む。乾いた体に水分が染みわたり、生き返るような気分だった。
「仕事終わりは、これを見なきゃな。見てみろよ」
「えっ?」
水筒を返すと、オルガがそんなことを言った。促されるままに指さす方を見て――私は思わず目を見開いた。
そこには、屋根の向こうに広がる一面の夕景があった。空は、赤とオレンジのあいだを揺れるような柔らかな光に染まり、遠くには沈みゆく太陽が、雲を金色に照らしている。
その光が町全体に降り注ぎ、瓦屋根や石造りの壁をやさしく照らし出していた。
家々の窓が夕陽を反射してきらめき、煙突から立ちのぼる煙さえも、ほんのりと赤みを帯びて揺らいでいる。
「……きれい……」
自然とそんな言葉が口をついて出た。
ここがどんな場所でも、どんなに苦しい一日だったとしても、この景色だけは、何もかもを忘れさせてくれるような気がした。
「毎日こんなもんじゃないけどな。たまに当たりの日があるんだよ。その時の光景はすげー綺麗だぞ」
「そうなんですね。その景色も見て見たいです」
オルガがそう言って笑う。私もつられて、ふっと笑った。
ふと目を向けると、他の屋根の上にも何人かの子どもたちの姿があった。みんな仕事を終えたばかりなのだろう。無言で夕陽を眺めていて、その顔にはどこか安らいだ表情が浮かんでいる。
きっと、みんなこの景色が好きなんだ。苦しい一日の終わりに、ほんの少しだけ心を軽くしてくれる――そんな光景。
私も、見た瞬間に好きになった。仕事の疲れをふわりと癒してくれるような、優しい光。すり減った心をそっと包んでくれる、静かな慰め。
明日も頑張ろうって、そんなふうに思わせてくれる。
しばらくのあいだ、私は何も考えずにその景色を眺めていた。ただ、夕陽の光と風に身を委ねるだけで、不思議と心が落ち着いていく。
きっと明日も、同じようにきつい仕事が待っている。それでも――今日を乗り越えた私なら、大丈夫だ。
「さぁ、行こうぜ。お腹が減った」
「はい」
オルガの一言で、私は名残惜しくも景色から目を逸らした。屋根の縁に立てかけられた梯子へ向かい、ゆっくりと足をかける。
降りる前に、もう一度だけ振り返る。赤く染まる空と町並みを、目に焼きつけるように見つめた。
明日は、どんな景色が見られるのだろう。今日とはまた違う色の空かもしれない。でもきっと、それもきれいなんだろう。
そんなことを思いながら、私は静かに梯子を降りていった。明日が、少しだけ楽しみになっていた。
お読みいただきありがとうございます!
面白い!続きが気になる!応援したい!と少しでも思われましたら
ブックマークと評価★★★★★をぜひよろしくお願いします!
読者さまのその反応が作者の糧になって、執筆&更新意欲に繋がります!




