25.煙突掃除(6)
両手が食べ物で塞がっているので、慎重に手放しで梯子を登っていく。足元に気をつけながら上がっていくと、やがてくすんだ橙色の屋根が視界に入った。屋根の上に登り、煙突のそばまで近づく。
「お待たせしました」
「おう。じゃあ、食うか」
午前中の煙突掃除を終え、私たちはようやく昼食の時間を迎えた。私はいつものように、お店でパンと肉の串焼きを買ってきたところだ。
「買いに行くのも手間だからな。明日からは先に用意しておいた方がいいぞ。休憩時間が短くなっちまう」
「そうですね。少しでも休めるように、明日からは気をつけます」
「体力を回復させるのも、仕事のうちだからな。頼んだぞ」
オルガの言葉はもっともだった。時間があるなら、食べるだけじゃなくて体も休めたい。今日は初めての煙突掃除で勝手が分からなかったけれど、次からはうまくやれるはずだ。
私たちは煙突を背に並んで腰を下ろし、食事を始めた。オルガは包みをほどき、中から手作りのサンドイッチを取り出す。
「それ、家で作ってきたんですか?」
「ああ。トレビが作ってくれるんだ」
「へぇ……じゃあ、家のご飯は全部トレビさんが?」
「そうだな。俺たちの面倒を色々と見てくれる。普段は厳しいけど、ちゃんと優しいところもあるんだ」
一見厳格に見えるトレビだったけれど、その言葉からは彼なりの愛情が伝わってきた。ちゃんと子供たちのことを考えてくれている。そんな大人がいる場所で働けて、私は本当に良かったと思った。
空を見上げれば、澄み渡った青に白い雲がゆっくりと流れていた。昼下がりの陽射しはやわらかく、屋根の上にも心地よいぬくもりを落としている。
串焼きの香ばしい匂いが鼻をくすぐり、私はひとくちかぶりついた。じゅわっと広がる肉の旨みと、こんがり焼けた皮の香ばしさが、朝からの疲れをすっと消してくれるようだった。
「……こうして空の下で食べると、いつもより美味しく感じますね」
そう言うと、オルガはふっと笑った。
「屋根の上ってのも、なかなか贅沢な場所だからな。風が気持ちいい」
風が、煙突の隙間をすり抜けていく。少しだけ煤の匂いが混ざっていたけれど、不思議とそれも悪くない。街の音が遠く、まるで空の上で休んでいるみたいだった。
私はパンを頬張りながら、横目でオルガを見た。無言でサンドイッチをかじるその横顔は、どこか穏やかで、今日の空みたいに澄んでいた。
こんなふうに、何気ない日常の中にも、小さな幸せはあるのだと思う。空の下で誰かと一緒に食事をするだけで、心が少しあたたかくなる。
私は空を見上げながら、そっと息を吐いた。
「ここで食べると元気が出ますね。午後も頑張れそうです」
「おう、しっかり食って、午後も頑張ろうな」
短いやり取りだけど、それがやけに心地よくて、私は自然と笑みをこぼしていた。
やがて、私たちは昼食をあっという間に平らげ、空っぽだったお腹をしっかり満たした。すると、オルガが屋根の上でごろりと横になる。
「ちょっと横になろうぜ。こうして寝転がったほうが、座ってるより体力が回復するんだ」
えっ、そうなの? 半信半疑のまま、私も彼の隣に身を預ける。ゴツゴツした屋根の感触が少し気になるけど、不思議と悪くない。見上げた空は抜けるように澄んでいて、じんわりと疲れが溶けていく気がした。
「……本当ですね。なんだか楽になってきたかもしれません」
「だろ? 午後の仕事はキツいからな。こういう工夫で少しでも体力を残しておくんだ。これも仕事のうちさ」
ちょっと得意げにそう言って、オルガは目を細める。まるで頼れる兄さんのようなその言葉に、思わず口元がほころんだ。口は軽いけど、彼の言うことはいつも実感がこもっていて、どれも役に立つ。
そのまましばらく、静かに並んで寝転び、ただ空を眺めた。夏の匂いが風に乗って流れてくる。遠くで小鳥の声が聞こえてきて、それすらも心地いい。
こういう時間も、きっと、大切な仕事のひとつなんだと思った。
「あー、これでお腹いっぱいだったらいいんだけどなー」
「サンドイッチ一つだけでしたもんね」
「でも、仕方ないんだ。体が大きくなると、この仕事が出来なくなるから。この仕事が出来なくなったら、家を出て行かなくちゃいけないから」
ポツリと呟いたオルガの言葉が気になった。そういえば、トレビが言っていた。体を大きくしないために、食事を節制するようにって。成長すれば、煙突の仕事ができなくなる。だから、腹いっぱい食べることすら許されないのだ。
「たくさん食べたいけど、食べられないって……辛いですよね」
私がそう言うと、オルガは目を閉じたまま、わずかに笑った。
「まあな。でも、スラムに行くよりはマシだ。……そのためだったら、いくらでも我慢できる」
その言葉は、決して大げさでもなんでもない。
スラムで暮らしていた私には、痛いほど分かる。あの場所に戻るくらいなら、食べたいものを我慢するくらい、なんてことないって思える。
飢えも、寒さも、暴力も。全部が、日常だった。それを思い出すだけで、胃の奥が冷たくなる。
「……私もいつかスラムから出られる日が来るでしょうか?」
そう言った私に、オルガは小さくうなずいた。私たちは言葉を交わさず、ただ同じ方向を見つめる。
「ルアなら絶対に出られるさ! 大丈夫!」
根拠のない励ましだと分かっていても、胸がほんのり温かくなる。暗がりの中に灯る小さな光のように、たとえわずかでも希望があるだけで、心が軽くなるものだ。
「……うん、ありがとうございます」
私は素直に頷いて、立ち上がった。少しだけ息を整えて、服の煤を払う。
「さて、と。そろそろ次に行こうか。休憩も十分だ」
「はい。次は……新しい煙突ですね」
「今度は、あんまり汚れてないといいな……使用後すぐとかは、ほんと勘弁してほしい」
肩をすくめて苦笑いする私に、オルガも笑って頷く。
そうして、私たちは再び梯子を降りて行く。午後の仕事が待っている。まだ道のりは長いけれど、少しずつでも進んでいくしかない。
スラムから抜け出すために。自分の力で未来を変えるために。
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