9話 さよなら、私の……
──まさに、言葉という刃を交え、火花を散らしたその刹那。
「エリザベートッ!」
甲高く響く、やや裏返った男の声がバラ園に鳴り響いた。
その声に周囲がざわつく。レースの扇子を落としかける令嬢、驚いて口元を押さえる侍女、全員が同じ方向を見た。
その視線の先に現れたのは、鮮やかなロイヤルブルーの礼服を纏い、金の髪が陽光にきらめく青年。アルフォンス・リューベンハイト殿下である。
今日のこの茶会は、宮廷主催のものであり、貴族子女の社交の場として設けられた晴れの席だった。お気に入りのルチアが参加すると聞き、殿下が現れることは予想できたはずだった。けれど、まさかこの場で割って入るなど、誰が想像しただろうか。
額にうっすら汗をにじませ、胸を上下させながら、殿下は私とルチアの間にずかずかと割って入った。
「一体、ルチアになにをしてるんだ!」
「……はい?」
思わずまばたきをした。ルチアも、目をぱちくりとさせている。
その視線に気づかぬふりをして、アルフォンス殿下はやや背を丸め、ルチアを守るように前に立った。
「ルチア、無事か?また、何の罪のない君を罵倒していたのでは……!」
「い、いえ……エリザベート様と少しお話をしていただけで……」
おずおずと答えるルチアの声は、どこか芝居がかっているようにも聞こえる。
そうよ、これよ。このルチアの被害者面ムーブ。婚約者持ちの殿下にあからさまに擦り寄るのは控えるべき、という最低限のマナーについて注意しただけでも、私の方が悪者扱いされたのよね。
確かに言いすぎてしまった事もあったけど……。それじゃあ、婚約者のいる男に言い寄るのは悪女じゃないのかしらね。
殿下の脳内では完全に『聖女を傷つける悪役令嬢の構図』が完成しているらしく、私のほうにぐるりと振り返って、眉間にしわを寄せて言った。
「お前はまた……!なぜこうも彼女を目の敵にするのだ!」
「いいえ、殿下。私はただ、丁寧なご挨拶と、少しの世間話を交わしていただけですわ」
「だが、その言葉に棘があっただろう!……俺にはわかる!」
「まあ、よくもまあそこまでご自分の勘に自信が持てますわね」
呆れたように返す私に、殿下は一瞬口を噤んだ。
その隙に、ルチアがそっと殿下の袖を引く。小さな仕草ひとつさえ、いかにも可憐で無垢な乙女のそれだった。
「殿下……私は本当に、大丈夫ですの。ただ少し……エリザベート様の変化に驚いただけで」
「……ルチア……なんと慈悲深い……!」
感極まったように目頭を押さえる殿下。私は思わず心の中でため息をついた。
慈悲ってなに、美味しいの?紅茶のお供になるお茶菓子の名前だったかしら?
「……お前、少し変わったか?」
ようやく私をまともに見た殿下が目を細める、驚きとも、興味ともつかないその眼差し。
「はい。少しだけ、髪を整えました。動きやすさを優先して」
「いや、それだけじゃない。……ああ、すこし痩せたな?」
彼の視線が、肩から胸元、そしてウエストへと、まるで品定めでもするように自然と滑っていく。
気づかれないように、私は背筋をさらに伸ばした。
「ふん……驚いた。まさかお前が痩せるなんてな。まあ……以前のような醜い姿よりは、少しは“見られる”ようになった」
見られる、という表現に小さく息が漏れた。次に続いた言葉が、胸に鈍い音を響かせる。
「もっとも、まだルチアには遠く及ばないがな」
ああ、やっぱり。多少変わったところで私の努力など、彼の基準では無価値なのだと、思い知らされた。
背筋に、ぞくりとするほど冷たい記憶が蘇る。
初めて彼に「やだよ、こんなデブと結婚するの!」と告げられた日。
冷淡に見下ろされ、「まるで太った豚」と言われた瞬間。
あのときの悲しみと、無力感が、脊髄を走るように蘇った。
「だが、まあ。見苦しさが減っただけでも、大きな進歩と言えるだろう」
傲慢な口ぶりに、空気がひやりと冷えた。
善良な令嬢たちの中には、婚約者への態度ではないと顔をしかめる者もいた。だが殿下は気づかず、気づいても意に介さない。
私は、静かに微笑んだ。ほんの少しの皮肉を込めて。
「……ご評価、痛み入りますわ」
穏やかに、頭を下げる。だが胸の奥では、そっと何かが剥がれ落ちていく音がした。
私は、彼に憧れていた。前世の記憶を取り戻す前の私は、彼の容姿に、声に、振る舞いに、ただただ夢を見ていた。
けれど今、それがどれほど偏った視野と、幼さに支えられていたのか、ようやく分かる。
……一目ぼれだったのよね、私。
子どもじみた恋。物語の中の王子に重ねて、夢を見ていただけ。
でも、もういいわ。
前世では、殿下に振り向いてもらえるようにエリザベートも努力すればいいいのにと、考えたこともあったけど、この男にそんな価値なんてない。
私は、椅子から立ち上がる。軽くドレスの裾を摘み、優雅に一礼をした。
「では、失礼いたします。どうかルチア様と楽しいお茶の時間をお過ごし下さいませ」
それは、最後の言葉だった。二人に背を向けその場を後にする。
私はもう、過去の私じゃない。
醜いと嘲られ、涙をこらえ、運命に逆らうこともできなかった少女は、もう、どこにもいない。
私は私自身の手で、自分の人生を変えていく。
アルフォンス殿下がどう見ようと、どう評価しようと――、
私が、私を誇れるようになるまで。
でも、少しだけ……少しだけなら、泣いてもいいわよ。エリザベート。
そう、心の奥でそっと呟いたとき。一粒の涙が、頬をすべり落ちた。
“さようなら、私の初恋”
バラの香りが風に乗って、頬を撫でていった。
毎日12時10分に更新予定!面白いと思っていただけたら、☆マークから評価・お気に入り登録をしていただけると嬉しいです。




