8話 ヒロインと悪役令嬢
──そして、その日は訪れた。
社交界でも「聖女のごとく美しい」と名を馳せる令嬢、ルチア・ブランシュと、「醜い悪役令嬢」と囁かれてきた私――エリザベート・グラシエルの邂逅。
舞台は、王家主催の春の親睦茶会。
春の陽光が降り注ぐ王宮のバラ園では、色とりどりの花々が咲き誇り、貴族たちの華やかな笑い声が風に乗って響いていた。白い石造りのテーブルには、繊細なレースのクロスが掛けられ、銀のティーセットと色とりどりの菓子が並べられている。侍女たちは静かに立ち回り、客人たちのカップに香り高い紅茶を注いでいた。
私は淡いライラック色のドレスに身を包み、庭の一角に足を踏み入れる。
「……見て、あれ……本当にエリザベート様?」
「あら、随分とお痩せになったのね……きれいになったわ」
人々のささやきが、風に乗って耳に届く。私は背筋を伸ばし、胸を張って歩を進めた。理想の姿にはまだ遠いけれど、“変わった”と、誇れる自分がいる。
ふっくらとしながらも、血色がよく、張りのある肌と艶やかな髪。それは、健康と努力の証だった。
「何よ、まだまだ太っているじゃない。私の方が細いわ」と陰口を叩く令嬢はほっそりとしているが、栄養が足りていないのだろう。頬はこけ、唇は乾いて白んでいた。
栄養の足りない“無理な美しさ”と、私の“整えられた美しさ”は違う。
そして目を向けた、白い石造りのテーブル。その中央。
そこに彼女――ルチア・ブランシュは、まるで春の化身のような姿で、椅子に身を預けていた。
淡いピンクのドレスを身に纏い、ストロベリーブロンドの髪を緩やかに結い、涙を湛えたような瞳で、どこか儚げに微笑んでいる。
この世界の人間にも関わらず、奇跡のような華奢な身体と可憐な容姿。
彼女の周囲には、幾人もの令嬢たちが集い、誰もが彼女の言葉に耳を傾け、彼女の表情に一喜一憂していた。
「そのドレス、本当にお似合いですわ、ルチア様」
ひとりがそう言い、別の令嬢がうなずきながら重ねる。
「この前の舞踏会より、今日の方がいっそうお美しいです」
ふと、ルチアがふとこちらに視線を向けた。
「まあ……エリザベート様」
ルチアの口調は、柔らかく上品で、相変わらず春風のように優しかった。
けれど、私は覚えている。彼女が王子に向ける眼差しは、宝石の価値を吟味する商人のように、冷たく、現実的だった。
他の令嬢たちと語る時はどこか興味なさげなのに、王子の話題になると、その目を輝かせるのだ。
「第一王子で、あの容姿で、しかも剣術にも秀でていらっしゃるなんて……まるでおとぎ話ですわ」と、彼女が口癖のように言っていた。
儚げな容姿とは対照的に、計算高さと執着を秘めた“ヒロイン”。私はそれを知っている。
ふふっ、とルチアは笑い声を漏らす。
「エリザベート様、こちらの席が空いておりますの。ご一緒にいかがかしら?」
彼女の指し示す席は、彼女の向かい合わせ。周囲の令嬢たちが一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに笑みを取り繕った。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
私は優雅に一礼し、ルチアの正面の席に腰を下ろした。
「とても……お綺麗になられましたのね。お噂は、耳にしておりましたけれど、まさかあのエリザベート様がと」
「ご丁寧にどうも。けれど、お褒めの言葉にしては、少し含みがあるような気がしますわね」
穏やかな口調で応じはしたが、内心の警戒は解かない。
対して、ルチアは優雅にカップを手に取り、目を伏せたまま微笑んだ。
「いえいえ、とんでもない。ただ……少し、心配なのです」
「心配?」
「はい。ご無理をされてはいないかしらと。急激に変わろうとすると、時に心も身体も、ついていかなくなることがあるものです」
――まるで、「美しくなること」は悪であるかのように。
「私、大切に思っておりますの。すべての貴族令嬢が、ありのままの自分を愛せる世界を」
そう言って、ルチアはこちらを見た。
その瞳は優しげで、しかしどこかで、上から見下ろすような憐憫の色を湛えていた。
どうせ努力したところで、私の美しさにはかないっこないのだから。
――そう言いたげな、慈愛の皮を被った優越のまなざし。ゲームで見ていた“ヒロイン”の、裏の顔。
「……ありがとうございます、ルチア様。お気遣い、痛み入りますわ」
私は笑ってカップを口に運んだ。微かに渋みのあるローズティー。
その香りが、妙に冷たく感じられた。
「でも、“自分を変えたい”と願うことは、罪ではありませんわよね?」
ルチアの表情が、わずかに凍る。
「私は、私を諦めたくないだけ。努力で手に入れた変化を、誰かに“哀れまれる”筋合いはないと思っていますの」
その瞬間、周囲の空気がわずかに張り詰めた。テーブルの上のスプーンが、カチリと静かに音を立てる。
ルチアは目を細め、唇にかすかな笑みを浮かべた。
「……エリザベート様。少し、変わられましたのね」
「ええ、変わりましたわ。まだ途中ですけれど」
心では剣を交わしながら、私は微笑み返した。
「どうぞ、楽しみにしていてください。あなたが知っている“私”とは、もう違いますから」
かつての私は、ヒロインのルチアに嫉妬し、劣等感に苛まれていた。
けど、もう、ゲームの悪役令嬢は存在しない。
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