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8話 サクラとツキシマ

カミルは巻き込まれた人々を診る為に、そのまま現場に残った。

危険だからと、私たちは半ば強引に屋敷へ戻されるかたちとなった。


与えられた座敷に腰を下ろした瞬間、張りつめていた糸がぷつりと切れたように、全身から力が抜けていく。

畳の柔らかな香りが鼻先をくすぐり、ふう……と深く息を吐く。

――気が張り詰めていたのだと、今になって気づいた。


「……今日は、疲れたわね」


そう漏らすと、隣に座るサクラが控えめに頷いた。


「はい、本当に。今日は色々ありましたからね」


私は軽く息を吐き、近くで控えていた侍女に声をかけた。


「自国から持参した紅茶を淹れてくれる? 私とサクラの二人分、お願いね」


侍女は恭しく頭を下げ、滑らかな動作で部屋を下がった。


「紅茶……ですか?」


「ええ、サクラにはヒノモトの文化を紹介してもらってばかりだから……今度は、私の国の味を知ってもらいたいと思ったのだけど、大丈夫かしら?」


「まぁ。本では読みましたが……実際に飲むのは初めてです。どんなが香りするのでしょう。とても楽しみです」


その言葉に、自然と口元がゆるむ。


「きっと、気に入にいるはずよ」


やがて、侍女が湯気を立てるティーポットと、私が持参した薄い桜色の磁器のティーカップを盆に乗せて戻ってきた。

畳の上を滑るように進み、音ひとつ立てず盆を置く。


ポットから注がれる琥珀色の紅茶。

その瞬間、ふわりと香りが広がった。


サクラの肩が小さく跳ねる。


「……まあ。こんなに華やかな香りなのですね」


「種類にもよるけれど、花の香りがするの。私の好きな茶葉よ」


侍女が紅茶を注ぎ終えると、静かに一礼して下がった。


サクラは両手でそっとカップを包み込むように持ち、一瞬ためらってから、ごく小さく口をつける。

そして。


「……っ」


瞬きが二度。唇が柔らかくほころぶ。


「ほんと。口の中で花が咲いたみたい……」


私は思わず微笑む。


「気に入ってくれてよかったわ」


サクラはこくりと頷き、嬉しそうに続けた。


「……それに、エリザベート様のお召し物も、とても素敵です」


「ふふ……ドレスのこと?」


「はい。まるでお花のように華やかで、生地も光沢があって……。触れたら溶けてしまいそうなほど繊細で……。あの、失礼でなければお尋ねしたいのですが――」


「なにかしら?」


「その……歩きづらくありませんか?」


思いもよらぬ質問に、私は堪えきれず吹き出してしまった。


「正直に言うと――動きやすいとは言えないわね。階段なんて特に大変よ。子供の頃は何度、裾を踏んで転びそうになったことか」


「まあ……! その華やかな格好にも、苦労があるのですね」


「でも、慣れてしまえば案外どうということはないの。このドレスで社交ダンスだって踊るのだから」


「社交ダンス?」


サクラが目を瞬かせる。その声音には、純粋な好奇心が滲んでいた。


「ええ」


私は微笑み、指先でカップを軽く回す。紅茶の香りがふわりと広がった。


「音楽に合わせて男女が組み、ホールの中を優雅に舞うの。単に踊るだけではなく、社交そのものでもあるわ」


サクラは息を飲むように前のめりになった。

その黒い瞳に映る期待の光が愛らしい。


「舞踏会ではね、煌めくシャンデリアが会場全体を照らしていて、ドレスの刺繍や宝石が光を反射して揺れるの」


「……まあ」


「音楽が流れ始めると――空気が変わるわ。弦楽器の音が胸の奥に響いて、鼓動までそのリズムに合い始める。そのまま手を取られ、ステップを踏んで回転すると……世界が、自分を中心に回っているみたいに感じるの」


サクラは頬に手を当てて、うっとりと目を細めた。


「なんて……素敵な世界なのでしょう」


私は少し肩を竦める。


「ふふっ、とても華やかよ。でも同時に、礼儀も格式も求められるのだけどね。その場に立つ者は、装いも振る舞いにも気を張らなくてはならないの」


「そうなのですね……」


サクラは胸の前で手を組み、ふわりと息を漏らす。


「それでも……羨ましいです。そんな景色を見てみたい。光の中で踊るって、どんな気持ちなのか……私も感じてみたいです」


そしてふと、こちらを見上げる。


「……エリザベート様の国の話、もっと聞かせていただけますか?」


その声音は、期待と好奇心に満ちていた。

まるで海の向こうの景色を、心の中で描こうとしている子どものように。

私は頷き、カップを口元へ運ぶ。


「もちろんよ。どこから話しましょう――私の国の城下町のことかしら?

それとも、社交界での騒がしい舞踏会のこと?」


するとサクラは、少し笑って小首を傾げた。


「もし、ご迷惑でなければ……全部、聞きたいです」


その言葉に思わず噴き出しそうになりながら、私は答えた。


「ええ。時間はたっぷりあるものね。順番に話してあげるわ」


そこから話題は尽きなかった。自国の食文化のこと、黒パンと白パンの違い、季節の祝祭の日にだけ卓に並ぶ甘い菓子の話。さらには、今年流行しているドレスの色や形、貴婦人たちが競うように身にまとう装飾のことまで。

私が語るたび、サクラは身を乗り出すように耳を傾け、まるでその光景を思い描くかのように目を輝かせていた。


「サクラは海外に興味があるのね」


そう問いかけると、サクラはぱっと表情を明るくし、背筋を伸ばした。


「はいっ!」


答えた声は弾むように軽く、抑えきれない興味と好奇心が滲んでいた。


「……街並みも文化も、食べ物も衣装も――全部違う世界があるなんて、考えるだけで胸が高鳴るんです。知らないものに触れるたびに、“世界ってこんなにも広いんだ”と実感します」


そう言うサクラの指先は、ティーカップのふちをそっと撫でていた。言葉だけでなく、全身が未来へ伸びていく感情を表しているようだった。


「だから、こうしてエリザベート様から直接お話を聞けること……本当に嬉しいんです」


その声音には、恐れも遠慮もない。ただ純粋な「知りたい」がある。

サクラは異国を、まるで希望を見るように語る。

未知に手を伸ばし、変化を恐れず、それどころか歓迎している。


けれど。胸の奥で、ひっそりと小さな刺が疼いた。

……それなのに、どうして。あの男――ツキシマは、あんなにも拒絶の色を隠そうとしないのだろう。


「ねえ、サクラ。あなたは異国に惹かれ、好意すら抱いているようなのに……どうしてあなたの護衛、ツキシマは、あれほどまでに冷たい態度を取るのかしら?」


あくまでも責めるつもりはなく、ただ確かめるための問いかけだった。

この国には、外国人に良くない感情を抱く者が少なくない。と理解したけど、それでも――。


「ごめんなさい、エリザベート様……」


私の独り言を拾ったサクラが、小さく頭を下げた。その声はか細く震え、申し訳なさが滲んでいる。

ほんのわずか肩を縮めた仕草から、ツキシマのあの頑なさに、彼女自身も戸惑いを覚えているのだと分かった。


「サクラが謝らないで! 態度が悪いのはツキシマで、サクラには関係ないじゃない」


思わず手を振り、言葉を遮る。

けれどサクラは、微かに俯いたまま、相変わらず申し訳なさそうな表情を崩さなかった。


「いえ。ツキシマがあのような態度を取るのは、……私のせいなのです」


「サクラのせい? どういう事?」


思わず問い返すと、サクラは小さく息をつき、ゆっくりと話し始める。


「実は……以前、エリザベート様と同郷の商人の方がこちらに来られたことがありまして……」


その商人の交渉の際も、帝国語が話せるということで、サクラが進んで翻訳役を務めたのだという。彼女は少し緊張しながらも、真摯な態度で通訳に当たった。


しかし、腹を空かせていた商人に、サクラが心を込めて握ったおにぎりを差し出したところ――

「手で握った!? こんな野蛮な食べ物を食べる訳がない!」

と、冷たく踏みつけられてしまった。


ツキシマはその様子を目の当たりにして、怒り心頭で、

「姫様の善意を踏みにじるなど……!」

と激昂したそうだ。


「元々、海外の方に良い感情を抱いてはいなかったようなのですが……それ以降は、さらに嫌悪感が強まったようでして……」


サクラは痛ましげに眉を寄せる。

その言葉の端々には、悔いとやるせなさが滲んでいた。


「なので、海外の方に敵意をむき出しにするのは……私を案じてのことなのです。だからといって、エリザベート様とあの商人を一緒するなど……本来、許されることではないのですが……」


「いえ、そんなことがあったのなら――ツキシマが私を警戒する気持ちも理解できるわ」


胸の奥がじんと痛んだ。

まさか、そんな出来事があったなんて。

彼の粗暴な態度の裏に、サクラを守ろうとした忠誠心があったのだと思うと、胸にあった怒りはしぼんでいった。


茶屋の店主が言っていたのを思い返す。以前、和菓子を泥団子だと言われたと。

……この国の人達も文化も、外から来た者から嘲られた経験は、決して一度や二度ではないのだろう。

そう思うと、この国の人々がよそ者を拒絶するのも、無理もないかもしれない。


「こちらこそ……同郷の者が本当に申し訳なかったわ」


静かに頭を下げると、今度は彼女が慌てて手を振る番だった。


「いえ、エリザベート様が謝罪なさることでは――」


「その商人の名を教えていただける?」


私はまっすぐに彼女を見据える。


「私が代わりに、正式に抗議するわ」


その一言に、サクラの瞳がはっと見開かれた。


「えっ! いえ……そんな、大げさな。もう昔のことですし、大事にするのは忍びなくて……」


けれど、私は首を横に振った。


「いいえ、そんなことはないわ。サクラの優しい心を気づ付けるなんて、決して許されることではないもの。それにね、私たちの国の者が行った愚行を許したままにしては、今後の交流に影を落としかねないの。罪は罪として正さなければ、信頼のある関係は築けないわ――」


自分でも驚くほど、言葉に力がこもっていた。

胸の奥から湧き上がるのは、怒りでも義務感でもない。この美しい国と、サクラという少女を尊重したいという、純粋な思いだった。


サクラは息を呑んだように、私を見つめていた。

その瞳が静かに潤み、光を帯びた。戸惑いと――言葉にできない感謝の気持ちが、彼女の黒曜石のような瞳に滲んでいる。


「ありがとうございます。私のために、怒ってくださって……。私、本当に……嬉しいです」


「いいえ、当然のことよ」


私が穏やかに微笑むと、サクラは涙を隠すように俯いて、指先で目尻をそっと拭った。


「――ところで、少し失礼なことを伺ってもいいかしら」


サクラがぱちりと瞬きをし、顔を上げる。

少しだけ緊張しているのが表情から伝わってきた。


「な、なんででしょう……?」


「いえ、先ほどの……そのおにぎりのことなの。私を出迎えた時にもおにぎりを持っていたでしょう? どうして、いつもおにぎりを持参しているのかしらと、少し気になってしまって……」


私の問いかけに、サクラははっとして、頬をわずかに染めた。

指先で袖の端をいじりながら、困ったように微笑む。


「……あれは、その……昔からの習慣のようなものでして」


「習慣?」


「はい。幼いころから、ツキシマによく差し入れをしていたのです」


サクラの声が、懐かしさを帯びてやわらかくなる。

まるで心の奥の引き出しをそっと開くように、ひとつひとつ丁寧に言葉を紡いでいく。


「子供の頃、私はよくツキシマのいる鍛錬場へ通っていました。ツキシマは……私が幼い頃からずっと護衛として側にいてくれた人です。いつ覗いても、あの人は休まず木刀を振っていました。朝も昼も関係なく……

だから、時々……私、おにぎりを握って差し入れていたんです。幼かった私は、それが何よりの励ましになると思っていましたから」


ふっと、サクラは微笑む。

まるで大切な思い出を愛しむように柔らかい笑みだった。


「そしたら、“姫様が作ってくださったおにぎりは世界一美味い”って、あの人、いつも照れくさそうに笑ってくれました」


サクラは少しだけ目を伏せた。

彼女の横顔に、淡い陽の光が差し込み、黒髪の一本一本が金糸のようにきらめく。


「今では、鍛錬の代わりにお仕事で忙しくしています。だから、あの頃と同じように……時々、おにぎりを差し入れしているんです。

その、少しでも力になれたらって思って」


その声に、幼い日の情景が透けて見えるようだった。

木刀を振るう少年と、それを見守る小さな少女。湯気の立つ白い米を不器用に握りしめる、幼い手。

その温もりまでも、目に浮かぶように感じられた。


「ふふっ、ふたりは、いわゆる“幼なじみ”という関係なのね。仲が良いのね」


私がそう言うと、サクラは小さく頬を染め、はにかんだ笑みを浮かべた。


「……はい。ツキシマがどう思っているかは分かりませんが、私にとっては――家族のような存在で。

とても、大切な人なんです」


その頬に浮かぶ柔らかな笑みを見て、私は感じた。

――ああ、二人のあいだには、言葉よりも確かな絆があるのだと。


その後、私はサクラから商人の名前を聞き出し、然るべき処置を取ることを約束した。公爵家の立場を使って正式に抗議し、必要なら圧力もかける。今回の件を見せしめにすれば、以後、ヒノモトとの貿易や交流の場で同じような無礼を働く者はいなくなるだろう。


その件を藩主に伝えると、そんな事があったとは知らなかったようで驚いていた。娘を蔑ろにされたことに憤慨すると同時に、私の行動に感謝もされた。

ツキシマにも伝わったのだろう。以前よりは、態度は柔らかくなったように見えた。サクラも安堵の表情を浮かべる。

ただ……完全な解決とはほど遠く。まだ、両国の溝は深い。


「それでも。……ほんの少しでも前に進めたなら、それで十分だわ」

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