6話 いざ尋常に、和菓子勝負!Ⅱ
私は迷わず棚へ向かい、そっと陶器の壺を抱き上げた。壺の中には――私が自ら仕込んだ、塩漬けの桜の花。
先日、「どうしても」と頼み込んで作らせてもらったものだ。
六分咲きの桜を軸ごと摘み取り、厨房を借りて、たっぷりの水で洗い、丁寧に水気を拭き取った。花びらに紛れ込んだガクや小さなゴミを取り除き、容器に花と塩を交互に重ねる。最後にお酢をひとまわしかけ、重石を乗せた。
塩漬けすれば長く保存も利くし、自国へ持ち帰ることもできる。
クッキーにちょこんと添えたり、ケーキにあしらったりすれば、それだけで春を呼び込む菓子になるはず。サロンのみんなに出して驚かせましょう。そう思って、あのとき私はひとり、こっそり笑ったのだ。
その桜の塩漬けを使えば――春そのものを、寒天のなかに閉じ込められるんじゃないかしら。
「これなら、きっと人々の目を奪えるわ!」
夜も更け、台所には私ひとり。灯火が揺れる明かりの下で、私は小さな鍋に水を張った。
まずは寒天を煮溶かす。
乾いた棒状のものを砕き、水に浸すと、すっと透明にほどけていく。その変化に思わず息を呑んだ。この世界の寒天でも、十分使えそうね。
私は満足しながら砂糖を加えた。
満足げに小さく頷き、私は砂糖を加える。
火にかけた鍋の中で、寒天は澄んだ水へと溶け、光を含んで揺れていた。
――この透明さなら、桜を閉じ込めたら映えるに違いないわ。
私は桜の塩漬けを取り出した。蓋を開けた瞬間、ほのかな桜の香りと塩気が鼻をかすめる。水に軽く浸して塩抜きをし、花を一輪、そっとすくい上げる。
透き通った水面に浮かぶその姿は、まるで夜明けの光を待つ春の幻のようだ。
並べておいた器へ寒天液を静かに注ぐ。
そこに桜の花を沈め、竹串で位置を整える。透き通る層の中央に、淡い紅色が静かに留まった。
最後に、手元にあった金箔をひとひら。夜空に瞬く星のように、桜の隣で微かに光った。
「……きれい」
思わず声が零れた。
けれど、これだけではまだ足りない。私が目指すのは、今までなかった“斬新な和菓子”。
見た目も、香りも、味も――すべてで人の心を奪うものでなければ。
次に、煮溶かした寒天にあんこを加え、木べらでよく混ぜ合わせた。
このとき焦げ付かないよう、鍋底を絶えずなぞるようにゆっくりと混ぜ続けることが大切だ。
しっかり混ざったら、先ほど作った桜入りの透明な寒天層がきちんと固まっているのを確認する。固まっていたら、その上にあんこを加えた寒天液を静かに流し入れ、層を重ねていく。そしたら、透明な層と羊羹の層――二層仕立ての羊羹が出来上がった。
あとは冷やし固めるだけ。
待つ間にも胸の高鳴りは収まらない。気持ちが落ち着かず、布団に入ってもなかなか寝付けなかった。
そして翌朝。
器ごと冷水に浸し、ひんやりと固まった寒天を慎重に取り出す。
陽のもとでそっと掲げれば、それは夜桜そのものだった。
澄み渡る透明の層の中に、一輪の桜が静かに咲き続けている。
その下に敷かれた黒い羊羹は深い夜のように桜を引き立て、散らした金箔が星々の瞬きとなって、夜空に光を添えていた。
私は胸の奥で小さく笑った。
「うん、いい出来ね! 」
これなら、私を馬鹿にした人たちを黙らせられるじゃないかしら。
3日後……いえ、2日後の対決が、待ち遠しくてたまらなかった。
***
約束の対決の日が、ついに訪れた。
太陽が真上に差し掛かる頃、私達は茶屋へ足を運んだ。
「……まあ、すごい人ね」
通りには見物客の波。
子どもを肩車する親、興奮を押し隠せず囁き合う娘たち、仕事帰りらしい職人風の男衆。
茶屋の暖簾の前には人だかりができ、ざわめきが絶えない。
「聞いたか? 異国のお嬢さんが和菓子を披露するらしいぞ」
「おまけに挑む相手は、名の知れた職人だって言うじゃないか」
「ああ、あの娘じゃないかい」
好奇心と期待が入り混じった視線が、次々と私へと向けられる。
胸の内の鼓動が一度、強く跳ねた。私は小さく息を吸い、腕に抱えた包みをぎゅっと抱き直す。
この三日間、ただひたすらに向き合って作り上げた、私だけの“新しい菓子”。震えそうになる指先を止めているのは、腕に抱えたこの重みだけだった。
暖簾をくぐれば、茶屋の主人たる和菓子職人が腕を組んで待ち構えていた。
「おう、お嬢さん。本当に来たかい。」
「約束は守るわ」
「ほう、たいした心意気だ。で、その“新しい菓子”とやら、見せてもらおうじゃねぇか」
今日の勝敗は、サクラと、あの日偶然居合わせた客たちが判定するという。
人数の偏りを考えれば、どう考えても私が不利だった。けれど、逃げるつもりなど微塵もなかった。
まずは店主である職人から披露する番らしい。
彼は満足げに顎を上げ、腕を解くと、卓上の布をぱさりと払った。
そこに現れたのは――
淡い桃色と白の濃淡が幾重にも重なり、花弁がこぼれ落ちる瞬間をそのまま閉じ込めたような練りきり。
「……零れ桜……?」
サクラが思わず息を呑む。
職人は得意げに顎を上げた。
「そうだ。“零れ桜”。花が散る刹那――その儚さを形にした。見たことないだろう? これほどの練り切り、他にあるものか」
表面の凹凸、淡いグラデーション、散り際の花びらの繊細な配置――
確かに凄まじい技量だった。
茶屋の空気が緊張で満ち、誰かがぽつりとつぶやく。
「……すげぇな……」
職人は満足げに鼻で笑う。
「ふん、当然だ。和菓子は“美”だ。技があってこそ、新しさが生まれる」
そう言って、さらに言葉を重ねた。
「異国の嬢ちゃん――お前には、ここまで精緻な仕事ができるか?」
挑発があからさまになった。
ぐっと唸る。素人の私には、とてもじゃないけど真似は出来ない。
「怖気づいたか? 今なら謝れば見逃してやるぞ」
「まさか。挑戦もまだなのに」
ゆっくりと、腕に抱えた包みを解いた。
その動作に合わせ、周囲の視線が吸い寄せられるように集まり――そして、息を呑む音が重なった。
そこに現れたのは、艶やかな小豆色と澄んだ透明が織りなす二層の菓子。淡い桜の花びらが浮かぶその姿は、まるで静かな夜空に咲く満月の桜。
「これは……羊羹、か?」と店主。
「ええ。この菓子は――“夜桜”の羊羹。
二層に仕立てることで、夜空に咲く桜を表現してみましたの」」
群衆がざわついた。
「へえ、あんな透明な羊羹ははじめて見たな。桜が風流だねえ」
「見た目は綺麗だが、味はどうだかね」
店主は腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。
「──ふん。形だけ立派でも肝心なのは中身だ。口に入れれば本物かどうか、嫌でもわかるさ」
二人の前に小さな卓が用意され、茶屋の女将が湯気の立つ抹茶を点てる。
香ばしい香りが漂い、緊張の空気が満ちていく。
「では――どうぞ、めしあがれ」
先に店主の練り切りを口にした。私も一緒に同じものを口に運ぶ。
しっとりと融ける餡、くどさのない上品な甘さ。噛まずとも舌の上でほどけていく――まさしく老舗の技と誇りが詰まった味。
思わず心の中で感嘆の息が洩れる。素直に、美味しい。
そして次に、私の羊羹を口にする。その瞬間、場の空気が微かに揺れた気がした。
私の作った菓子は――比べればどうしたって素人の仕事。
職人の練り切りと並べば、その差は一目瞭然だ。
皆も同じことを思っているのだろう。正直な感想を口々にする。
「やっぱり、店主の方がうめぇな。さすがだ」
「嬢ちゃんのも思ったより悪くはねぇが……やっぱり素人の味だな。華やかで綺麗だがねえ」
その率直すぎる評価は、胸にまっすぐ突き刺さる。
サクラが必死に「とても美味しいです!」と声を上げてくれるものの、痛みは隠せなかった。私は苦笑にも似た表情を浮かべる。
対して店主は、ふんと鼻を鳴らし、誇らしげに腕を組んだ。
「どうやら、俺の和菓子の勝ち――ってことでいいだろうな?」
勝利宣言めいた声音。
しかし、その瞬間――観衆の中から、ぽつりと異議が上がった。
「……いや、そうかね?」
視線が一斉にそちらへ向く。
その声はひとつだけではなかった。
「この勝負、どっちが“新しい和菓子”を作れるかって話じゃなかったか?」
「味や技術はそりゃ店主の方が上だろうよ。でも、勝負の条件はそこじゃねぇだろ?」
別の男が頷きながら続ける。
「店主の練り切りは、そりゃ見事だ。だが――新しいかと言われりゃ、そうじゃねえ。昔からある味だ」
「そうそう。嬢ちゃんのは、見た目も作りも新しい。それに……なんか胸がどきっとした。俺らが知らねえ和菓子だ」
ざわ……と空気が揺れる。
否定ではなく――評価が、ゆっくりと形を変えていく。
その波を前に、店主の表情がわずかに強張った。
「異国の嬢ちゃんが作る和菓子なんざ、どれだけぶっ飛んでるかと思ってたが……夜桜とは。
こりゃ驚いた、実に粋じゃねえか」
「ほんとだねえ。見た目も味も風情がある。ヒノモトの美しさをちゃんと感じてくれたって思えるのが――それが何より嬉しいね」
私はその言葉に微笑んだ。
「ええ。この国はとても美しいわ。特にヒノモトの象徴の花とも言える桜。……夜風に揺れ、月に照らされて静かに咲く姿は……静かで、儚くて。その美しさに、心を奪われましたの」
店主が腕を組んだまま、低く唸った。
「……で、結局この勝負はどうするんだ?」
誰かが問いかけた。
その問いに、店主はふんと鼻を鳴らす。
「味と技術で言うなら、間違いなく俺の勝ちだそりゃ誰が食ってもわかる。。……だが、この勝負、“どっちが新しい和菓子を作れるか”って条件だったな。
……なら、嬢ちゃんのことを認めてやるよ」
その瞬間、ざぁっと空気が揺れ、拍手が広がった。
子どもが跳ね、若者が口笛を鳴らし、年配の客たちは深く頷く。
私は呆然とし、思わず口にしてしまう。
「ええと。……私の……勝ったの?」
震える声で問い返すと、店主は肩をすくめた。
「面白くねえがな。――良いもんを見せてもらった。和菓子ってのは、まだまだ変われるってことをよ」
声音には、先ほどまでの棘はもうない。
「最初は、ただの異国の素人が何を言ってやがると、鼻で笑ってた。和菓子の“わ”の字も知らねぇくせに、ってな」
視線が、桜を閉じ込めた私の菓子に落ちる。
その目には、もう嘲りはなく、純粋な職人の色が宿っていた。
「――あんたの菓子は、面白ぇ。悔しいが……認めざるを得ねえ」
その言葉は不器用な謝罪であり、職人としての敬意が感じられた。
私は小さく息を吸い、ゆっくりと言葉を返した。
「……ありがとう。あなたの作る練りきりこそ、本当に見事だったわ。あれほど繊細で、美しい菓子を見たのは初めてよ。とても感動したわ」
職人の眉がわずかに動いた。照れをごまかすように視線をそらす。
私はさらに言葉を重ねる。
「この前いただいた羊羹や大福も、とても美味しかったわ。――だからこそ、和菓子を広めたいと思ったの。この国の文化を、味を、美しさを」
胸の内にある想いを、真っすぐに。
「でも、新しいものは往々にして拒まれるものよね。だから私は、まず受け取ってもらえる形を探りたかった。決して、和菓子を軽んじたわけじゃない。むしろ――心から敬意を抱いているの。それを分かって欲しいの」
職人は視線を彷徨わせ、腹を括るように、ぽつりと漏らした。
「――分かるさ。見慣れねぇもんを突きつけられりゃ、人は身構える。俺があんたを警戒したみたいにな」
口調はぶっきらぼうなのに、声は静かに柔らかい。
「前にうちの和菓子を食わせた外ツ国の連中はよ、珍しいだの、変わった味だの言って終わりだった。中には面白がって“泥団子みたいだ”と茶化すやつさえいた」
悔しさと、長年積み上げてきた誇りが滲む。
「だが……味だけじゃなく、作り手の想いや、文化の重みまで口にする奴なんざ――はじめてだ。この国でもそんな奴はなかなかいねえ。
和菓子を軽んじちゃいねぇって言葉……嘘じゃねぇんだな」
「――ええ。嘘じゃないわ」
その瞬間、茶屋に漂う空気は変わっていた。
先ほどまでの張りつめた緊張は消えて、温かな空気が広がった。
職人は腕を組んだまま、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……いいだろう。そこまで言うなら、手伝ってやる。ただし勘違いすんなよ。和菓子は思いつきで作れるほど甘くねぇ。技も手間も必要だ、朝一夕で身につくもんじゃねぇぞ」
「……ありがとう」
そこから、私たちは言葉を交わした。
「へえ、寒天が濁ってねぇのは、白砂糖を使ってるからか。白砂糖はこの国じゃめったに手に入らねえからな……。使ってるのは黒糖だからな」
「……白砂糖を手に入れたい?」
「そうだな。そうなったら、この国の和菓子ももう一段階、先に進めるかもしれねぇ」
やがて彼は、いくつかの和菓子の製法を伝授することを約束してくれたうえで、「……いつかその本国とやらで本格的に和菓子をやるつもりならよ。職人を派遣することになった時は、話くらい聞いてやる」とまで言ってくれた。
その厚意に対し、私はひとつの決意とともに返す。
「それならば……私が本国に戻る際には、砂糖の輸入の手助けをするわ。白砂糖が当たり前に手に入るようになれば……和菓子はもっと変われるでしょう?」
ヒノモトの文化を、自国へ届けたい。
その願いが、ただの憧れではなく、形を持ち始めたと実感する。
それは、確かに未来へ踏み出した一歩だった。




