1話 いざ、ヒノモトへ!
暖炉の火がぱちぱちと弾ける音が、静かな部屋に反響する。
伯爵家の応接室は、まるで白銀の間のようだった。厚手の白金色のカーテンは、外光も冷気も厳しく拒むようにぴたりと閉じられ、その生地には、細やかに雪の結晶模様が縫い上げられている。
壁に飾られたタペストリーには、雪原に立つ白鹿と凍った湖畔の情景が描かれており、静けさと気品に満ちていた。
その日、私はお茶会に招待されていた。
重ねられた絹のドレスの下から、足先へと冷気が忍び込むような感覚に、私は密かに身を引き締める。
私は静かに背筋を伸ばし、微笑みをたたえたまま、歩み出る。
「ご機嫌よう、リヴィエール伯爵夫人。招待してくださり、ありがとうございます」
私を招待した人物、このお茶会の主催者であるリヴィエール伯爵夫人は、笑顔で出迎えた。
「エリザベート公爵夫人。ようこそ、いらっしゃいました。あなたの最近の活動、興味深く拝見しております。ぜひお話を聞かせてくださいな」
伯爵夫人の言葉に、その場にいる夫人の視線は一斉に私へと注がれた。
エリザベート・グラシエル。
今、王都でもっとも話題を集める名前のひとつ。
かつては“悪役令嬢”とさえ囁かれた女――肥え太り、傲慢で、殿下の婚約者として世間の嘲笑の的だった私。
だが、自ら婚約を破棄し、姿も生き方も変えたことで――今では“運命を切り拓いた令嬢”として、そして“美と自由の改革者”として、若い令嬢たちの憧れの的となっていた。
私が開いたサロンも、貴婦人たちの間で話題を呼んでいる。
それは単なる香水や化粧品を売る場所ではない。
外見を飾るだけでなく、心身の内側から健やかで美しくありたいと願う女性たちが集う、そんな新しい時代の場。
「美しくなる」という言葉の意味を、根底から問い直す場所。
皆、私の話に関心を寄せている。その視線には、憧れと好奇心が入り混じる一方で、妬みや疑念の影も感じられた。
いい意味でも、悪い意味でも、私は今、注目の的なのだ。
「ええ、是非。お話出来たらと思います」
私は優雅な笑みで返した。
中には、ただ単にゴシップが好きな婦人方もいるけれど、本気で私の美容事業に関心を抱いてくれている人もいるだろう。
痩せるには絶食するしかなかった中で、食事内容の改善と運動で痩せるという、革命的なダイエット方法。そして、健康と美を両立させる新しい生き方――その一端に、彼女たちは希望や興味を見出している。
このお茶会は、単なる社交では終わらない。
これは戦場。
美辞麗句と笑顔の裏に張り巡らされた探り合いと、評価の場でもある。
そして同時に、私の事業を世に広める絶好の舞台でもあるのだ。
一度火がつけば、貴婦人たちの噂話は瞬く間に王都中を駆け巡る。
逆に、ここで印象を損ねれば、信用を失いかねない。それが、貴族の世界の“情報戦”というもの。
微笑を絶やさぬまま、私は心の中でそっと戦支度を整えるように、気合を入れなおした。
「こちらへどうぞ、エリザベート公爵夫人」
応接室の奥、柔らかな日の差す窓際に用意されたティーテーブルへと、侍女の案内で腰を下ろす。
すぐさま社交辞令の皮を被った、探りを入れられる。
「事業の調子はいかが? 女性が事業を始めるとなると、苦労も多かったでしょう?」
まるで気遣うような口ぶりだが、その裏には興味本位と値踏みの気配が見え隠れしている。
けれど、こうしたやりとりはもう慣れたものだ。
「ええ、けれど、今のところは順調ですわ」
それは、試合開始の合図のようなもの。
軽く放たれたジャブを、笑顔を崩さずさらりとかわす。
「それにしても、エリザベート様は本当にお美しくなりましたわね。ぜひその美貌の秘訣を教えていただきたいものですわ」
別の夫人が、好奇心を抑えきれない様子で訊ねてくる。
「あら、隠し立てしているつもりはございませんわ。私のサロンにお越しいただければ、手取り足取り、じっくりとお教えいたしますわ」
にっこりと微笑み返すと、夫人たちは「あらまあ」「それは楽しみですこと」と言いながら、小さく笑い合う。
「でも、運動をなさるんでしょう……? 私、普段からあまり体を動かしておりませんから、ついていけるかどうか……」
「そうそう、新作のコスメ……あれ、とても手に入りにくいと聞きましたの。少しだけでも都合していただけませんこと?」
束の間の雑談が続く中、音もなく侍女が押し出したワゴンに、ふと視線が引き寄せられる。
――その瞬間、私の胸が、ふっと跳ねた。
「……この茶器……!」
思いがけないその器の意匠に、言葉が漏れた。
「あら、珍しいティーポットにカップですのね」
同席していた夫人のひとりが、興味深そうに目を細めて言う。
確かに、この国ではまず見かけない、異国の雰囲気を漂わせていた。ティーポットには珍しく横ではなく、上に取っ手がついている。カップの方には取っ手を持たず、掌でそっと包み込めるほど小ささだった。
淡く光を受けて揺らめく磁器は。
緑というより、雨上がりの晴れた空の色のよう。青みを帯びた洗練された色調が、どこか高貴な雰囲気を醸し出している。蓮の花と葉が美しく浮彫されており、光に透かすと浮き出るようだった。
やがて、侍女が静かに湯を注ぐ。
白磁のカップに広がったその色に、私は目を見張った。
――緑。
透き通るような、柔らかな緑色。
この国では、まず見かけない茶の色だった。
「……これは、緑茶ですわね?」
言葉にした途端、心の奥に微かに震えるものを感じた。
懐かしさとも、驚きとも言えぬその感覚が、胸の奥に波紋を広げていく。
「流石、エリザべート様。博識でいらっしゃるわ。そう、東の国の、遠く離れた島国・ヒノモトからわざわざ取り寄せたものなの」
そう伯爵夫人が微笑む。
「ヒノモト? どんな国ですの。初めて聞きましたわ」
別の婦人が興味津々に訊ねる。
「東の海の片隅に浮かぶ島国ですの。その国の人々は、“和食”と呼ばれる独自の食文化を持っておりますのよ。主食は“米”と呼ばれる穀物で、味噌や醤油といった発酵調味料を使うのだとか」
そう言って彼女は、口元を扇子で覆い隠した。ふふっ、と笑い声を零す。
「しかも……ここだけの話、生魚を好んで食べるようですわよ」
「まあ、生魚を!? 信じられませんわ……。まさか、野蛮な国民が住んでいるのではなくて?」
「すごい国もあるものですわねぇ。おほほ……まるで想像もつきませんわ」
貴族婦人たちはそう口々に笑いながら噂話に花を咲かせていたが、私はそれどころではなかった。
和食が、この世界にも存在する……?
胸の奥がじんわりと熱くなる。まさかと思っていた前世のような食文化が、この世界にもあると知って、私は深く感動していた。
――また、お米が食べれるのね!
ご飯のふっくらとした蒸気、味噌汁のやわらかい香り、醤油の甘く香ばしい匂い……。久しく縁のなかったあの味を、もう一度!
私はカップを手に取り、縁にそっと口づける。
口の中に広がるのは、ほろ苦さと優しい甘み。舌の上で茶葉の旨味がじんわりとほどけ、喉を通るころには、爽やかさとほのかな渋みがゆっくりと余韻を残す。
「ああ……やっぱり、緑茶だわ……」
なんて懐かしいのかしら……。
ほっと息を零す。体の芯まで温かさが染み渡り、心までゆるやかにほぐれていくようだった。前世で何気なく口にしていた緑茶の味が、異世界でこうして再び出会えることに、胸の奥がじんわりと満たされていった。
***
――そして翌日。
サロンの一室。
机いっぱいに広げられた航海図を前に、私は真剣な面持ちでその青い海原を見つめていた。
「……遠いわね」
短く息を吐きながら、指先で地図の端から端までをなぞる。インクで描かれた航路の果て、そこに小さく記された島影がひとつ。
「この世界の航海技術は、思っていたより進んでいるけれど……」
我が国――“リューベンハイト王国”からは、およそ一カ月。大陸の東端からさらに海を越えねば辿り着けない、遥かなる島国。
“ヒノモト”
その名を知ってからというもの、私はその国に対する興味を抑えきれずにいた。
和食を口にしたいだけなら、わざわざ自ら赴く必要はない。
抱えている商人に指示して、目当ての食品を買い付けてこさせれば済む話だ。けれど、それでは足りなかった。私は――どうしても、その国をこの目で見たいと思ってしまった。
ヒノモトについて調べれば調べるほど、そこに感じる懐かしさが増していく。
そこはまるで、かつての前世で過ごした日本そのもののようで。
知らず、胸の奥がじんと痛むような感覚にとらわれる。
それは故郷を恋しがるような……一種のホームシックに近いものだったかもしれない。
叶うことなら、一度だけでいい。あの懐かしい空気を、もう一度味わいたい。
――日本に……、帰りたい。
「はあ。何を馬鹿な事を考えているのかしら…」
小さく首を振る。
そのときだった。背後から、不意に声が掛かった。
「なにを悩んでるんだい?」
「カミル……」
振り返ると穏やかな眼差しを向ける夫がそこにいた。
独り言を聞かれてしまったらしい。少し、恥ずかしい。
「実はね……ヒノモトという国に興味があるの。どうやら、そこの食文化が健康と美にとても良いみたいなのよ」
「へえ、それは興味深い話だね。悩んでいるということは……我が国と交易を結んでなかったりするのかな?」
「いえ、まあ……長く鎖国していたそうなのだけど、現在は我が国とは個人の商人と交易があるようだわ」
「そうか。……なら、何を悩んでいるの?」
なんと答えたらいいものか。
上手く言葉に出来ない。まごつきながらも答えた。
「あの……ね。ヒノモトに実際に行ってみたいの。いえ、もちろん事業もあるし、現実的じゃないのは分かってるのだけど」
カミルは明るい声で、あっけからんと言った。
「なら、行こうよ」
「え……?」
思わず聞き返してしまった私に、カミルは変わらぬ微笑を続けた。
「事業なら、その間、信頼できる人に任せればいい。企業も波に乗ってきたところだし、問題ないと思うよ」
カミルは冗談めかすでもなく、真剣だった。
はたから見れば、思い付きで口にしたような願いにも、軽くあしらうことなく受け入れてくれる。
「それに僕たち、新婚旅行もまだだったじゃないか。働いてばかりだったし、まとまった休みを取って、ヒノモトに行こう」
「行ってもいいのかしら?」
「行きたいんだろう? なら、行こう。いつだって、決めたらすぐにでも行動する君らしくないな」
確かに、その通りだった。
私はこれまで、迷いなど見せずに突き進んできた。やると決めたら、即座に動いた。
なのに今回ばかりは、胸の奥に小さなためらいが残っていた。
行きたい、と心の底から思うのに。けれど、同時に理由もなく足がすくむような、何故か躊躇する気持ちもあって……。
けれど、カミルの言葉に背中に押されるようにして決心する。
私は力強く頷いた。
「ええ、そうね。……ヒノモトへ行きましょう!」
そうと決めたら、私はすぐに船の手配を進めた。
もともと外交や交易に備えて公爵家が所有していた船がある。その船体を丁寧に磨き直し、帆や装備を整え、必要な補給物資を積み込む。侍女や護衛も厳選し、万全の体制を整える。
どんな困難が待ち受けていようとも、私はこの旅を成功させる、と。準備の過程はまるで心の整理にも似ていて、準備が進んでいくたびに私自身の覚悟が、少しずつ形になっていくのを感じた。
そして、一番気がかりだった事業のことも、ようやく安心して任せられる目途が立った。
「サロンのことは私に任せてください! お姉さまたちは新婚旅行を心行くまで楽しんできてください!」
リリィが胸を張ってそう言うものだから、微笑ましくて笑ってしまった。
「ずいぶん、頼もしくなったわね……」
心の中でそう呟きながら、私は小さく頷いた。
それでも、やはり少し心配で、私付きの侍女であり、長く事業を支えてきたアメリアにサポートを頼むことにした。
「承知いたしました。エリザベート様の傍で学んできた経験、きっとお役に立てるかと存じます」
彼女の落ち着いた声に、胸の奥がふっと軽くなる。
そして迎えた、出航の日。
潮の香りが風に乗って頬を撫でる。港には、私たちを見送る仲間たちの姿があった。
「それじゃあ、ふたりとも行ってくるわね」
「くれぐれも、お身体には気を付けて! いってらっしゃいませ!」
リリィの声が波の音に溶けていく。
さあ、健やかな美を育む食材を求めて――海を越えて、ヒノモトへ!
第2章では、エリザベートたちが未知の国・ヒノモトへ旅立つ物語になります。
全体で約10万文字を予定しており、読み応えのある内容になるかと思います。
ただいま執筆中で、完成の目途が立ち次第、連載を開始する予定です。
しばらくお待ちいただけますと幸いです!




