番外編 マルグリットのダイエット奮闘記Ⅹ
そのまま、冷たい外気を求めてテラスへ出る。
遅れて聞こえる足音。振り返らずとも、ジャンが隣に立ったのがわかった。
「あいつらは……」
「わたしの元婚約者」
「元……」
「うん。この間、婚約破棄してやったの」
唇に笑みを浮かべながらも、その言葉には少しだけ苦みが混じった。
「肥ってたわたしを裏では馬鹿にしてたのよ、彼。彼女たちもそうよ」
「それは――そうか……、辛い思いをしてたんだな」
ジャンが気遣わしげにこちらを見ている。
「でもね、今はもう違うの」
わたしはそっと胸に手を当てる。
「努力して、美しくなったことが嬉しいけれど……本当に大切なのはそこじゃないの。
わたしはずっと――両親にとって世界一のお姫様だった。それを思い出したの。
だから、自分を大事にしてあげようって、ようやく気づけたのよ」
ジャンは何も言わず、ただ穏やかに頷いた。
その仕草が不思議とあたたかく、胸の奥に柔らかな灯がともる。
「だから、婚約は破棄したわ。――わたしを馬鹿にしてた人たちとは、今日でお別れ」
「……そうか」
彼の声は低く、でも柔らかさを帯びていた。
「うん。だから、わたし、もう大丈夫」
わたしは笑ってみせた。
夜のテラスに流れる風が、過ぎた日の痛みを連れ去ってくれるようだった。
「……マルグリット、その、先日はすまなかったな」
「!? な、なにを急に……」
その言葉に、思わず肩が跳ねる。
え、今、謝った……? 心臓がほんの少し早鐘を打つ。突然の謝罪に、どう返せばいいのか言葉が詰まった。
「……謝らないでよ。……失礼なことを言ったのはわたしの方でしょ」
「いや、オレは……また間違いを犯すところだった」
「……?」
眉を寄せ、首をかしげる。
「また……目の前の人に向き合わず、思い込みでその人の努力を決めてしまうところだった。マルグリットの言葉は効いたよ」
彼は少し間を置き、深く息をつく。
「他人と比べたりしたらいけない。見た目で人を判断してはいけない。……以前、嫌ってほど、思い知ったつもりだったのにな」
彼は少し間を置き、夜の風に揺れるテラスの木々を見つめながら、深く息をつく。
「エリザベート夫人に言われたんだ。自分にできることだからって、他人も同じようにできるとは限らない――って。
その人にはその人の事情があって、その人なりのペースや苦労がある。
どれほど努力しているかも、どれだけ悩んでいるかも、オレには見えない。だから……、勝手に決めつけてはいけなかったんだ」
彼の言葉が、夜風に乗ってそっとわたしの胸に届く。
“比べないで。”先日の叫びは、わたしの正直な感情の証。今、ジャンは真摯に目を見てくれている。
目の前のわたしと、ちゃんと向き合おうとしているのだ。
「だから、……本当に申し訳なかった」
わたしは深く息をつき、彼を見つめ返す。
「わたしこそ、ずけずけと無遠慮に踏み込んでしまってごめんなさい」
お互い見つめあって、暫くした後にジャンが言った。
「それじゃあ……今回はお互い様ということで、どうだろう」
「……うん。わかったわ」
「わたし、エリザベート様のようにはなれなくても、わたしのペースで頑張るわ。他の……誰でもない、わたしの為に!」
ジャンは頷き、短く微笑む。
「それでいい。オレは、全力でお前をサポートしよう」
テラスの静寂の中で、心がすっと軽くなる。
今まで涙も後悔も、すべてこの瞬間のためにあったのだと、やっと思える。
「うん、ありがとう! よろしくね!」
***
ラウルとの婚約を破棄する決心がついたのは――、
両親が「可愛いね」と微笑んでくれた、あの幸福な時間を思い出したからだった。
そんな幼い日のことを、ジャンと揉めた翌日、エリザベート様との会話の最中にふと思い出したわたしは、胸に秘めた勇気を振り絞り、両親に打ち明けた。
婚約者が、陰でわたしのことを嘲っていたのだと。
「……あんな人と結婚なんて、したくないの。ごめんなさい。婚約が簡単に破棄できるものじゃないのは分かってるけど……」
言葉を絞り出すようにして告げたわたしに、両親はしばらく黙っていた。
貴族にとって婚約とは、単なる恋愛の延長ではない。家と家とを結ぶ契約であり、盟約だ。
婚約破棄はそう簡単なものではなく、決して軽い気持ちで口にするものではないと分かっていたけれど――
わたしは唇をきつく噛みしめる。
静寂を破ったのは、母のやさしい声だった。
「……あのね、可愛い、可愛いマルゴ」
両手がそっとわたしの頬を包み込む。
幼いころから何度も聞いたその愛称に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「誰が何を言おうと、あなたは私達にとって世界で一番かわいい子なのよ」
「そうだ、世界で一番の宝物だ」
父の低く穏やかな声が、心の奥に深く沁みていく。
その言葉は重く、温かく、まるで長い旅路の果てに差し伸べられた手のようだった。
「マルゴ、あなたは素直で、誰よりも優しい子。そんなあなたを傷つける人たちを、私達が許すわけないわ」
胸がきゅっと締めつけられ、視界が滲んだ。
父がゆっくりと口を開く。
「貴族には確かに責務がある。だがな、マルゴ……たとえ“貴族失格”と呼ばれようとも、そんなものはどうでもいい。お前が幸せでいること――それが、私達にとっての一番の幸せなんだよ」
嗚咽が漏れ、わたしはもう堪えきれなかった。気づけば家族の腕の中に飛び込んでいた。母の手が背を撫で、父の掌が髪を撫でる。
その温もりが、砕けかけていた心をひとつひとつ丁寧に繋ぎ合わせていく。
――ああ、そうか。
わたしは、まだ「お姫様」だったんだ。
愛されている、かけがえのないお姫様。
わたしは両親に抱きしめられ、子どもに戻ったかのように、うわあんと泣き声をあげた。
***
夜会のあと、数週間後――相変わらず、わたしはサロンでダイエットに励んでいた。
サロンの中庭には、柔らかな春の光が降り注いでいる。
いつかの涙も、痛みも、今では遠い記憶のようだった。
汗に濡れた髪を結い上げながら、わたしは鏡の前に立つ。
映っているのは、世界一可愛いお姫様だった。
努力で身体を、そして自信を取り戻した――“わたし自身”だ。
「……よく頑張ったじゃないか」
背後から静かな声がした。
振り返れば、ジャンがいつもの無愛想な顔で立っていた。
けれどその目には、かすかな微笑みが宿っている。
「ありがとう、ジャン。あなたがいたから、ここまで頑張れたわ」
「……オレは何もしていない。お前が自分で掴んだんだ」
彼は短くそう言って、視線を逸らす。
その横顔に照れ隠しの気配が見えた気がして、思わずくすりと笑ってしまった。
風が吹き抜け、サロンの白いカーテンがやわらかく揺れる。
わたしは両手で胸に触れた。
脈打つ鼓動が、これまでのすべてを肯定してくれるようだった。
――もう、わたしは決めたのだ。
世界にどう見られようと、わたしは可愛いって。両親からもらったたくさんの愛を胸に、わたしはこれからの毎日を、自分自身のために生きていく。
番外編・マルグリット編はこれでおしまいです。ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました!また、誤字脱字をご報告くださった方々にも感謝いたします。
ただいま第二章を執筆中です。
ダイエット食を求めて、エリザベートたちが未知の国・ヒノモトへ旅立つ物語になります。
全体で約10万文字を予定しており、読み応えのある内容になると思います。
もしよろしければ、第二章もお楽しみに!
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