表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

50/62

番外編 マルグリットのダイエット奮闘記Ⅷ


陽射しがやわらかく降り注ぐ、静かな午後のこと。

サロンの中庭にはやさしい光が満ちていた。

ウォーキングのために整えられた小道を歩いているのは、わたしとジャン。二人きりだった。

小鳥のさえずりと、風に揺れる草花のかすかな音。

それ以外のすべてが遠く、世界が静止したような穏やかな時間だった。


ふと見ると、ジャンが歩みを止めていた。

その視線の先、ガラス窓の向こうにはエリザベート様がいる。

誰かと穏やかに談笑するその姿を、彼は無言のまま見つめていた。


その横顔に気づいた瞬間、胸がざわめく。


「……ねえ、ジャン。あなたは、エリザベート様のことを――」


言いかけたわたしの言葉を遮るように、彼が静かに口を開いた。


「……ああ、お慕いしている。尊敬しているんだ」


ああ、やっぱり。

驚きも少しあったけれど、同時に納得した。


彼は深く息を吸い込み、顔をこちらに向ける。

彼の声には熱が宿り、静かな中庭の中で重く響く。わたしは胸の奥が締め付けられるのを感じた。


「エリザベート様は昔……太っていて、陰で笑われていた。今の彼女からは想像もできないほどにな」


確かにジャンはわたしの目を見て話しているのに、彼の瞳は遠くを見つめているようだった。


「それでも、あの人は諦めなかった。血が滲むような努力を積み重ね、自らの手で美を勝ち取った。誰もが振り返る令嬢に生まれ変わったんだ」


――ああ、そうか。

彼の瞳に映っているのは、わたしじゃない。


風が頬を撫でる。

その言葉に宿る熱が、冷たい空気を震わせるようだった。


「俺は……その姿に圧倒された。あの人の努力は奇跡だった。どんな苦しみも、意思ひとつで超えられるのだと。俺はただ、その背中に惹かれた」


次いで、彼の横顔は、憧憬と哀しみの入り混じったものに変わる。


「だが……」


彼の瞳が少し翳る。


「だが、俺は、あの人が苦しんでいるときに助けられなかった。それどころか、彼女を馬鹿にしている連中と変わらなかった。その償いじゃないが、同じように努力している女性を助けてやりたいと思っているんだ」


彼の言葉がわたしの心を真っ直ぐに突き刺す。

誰かを尊敬する心、誰かを守りたい気持ち。

そのすべてが、わたしに突きつけられた。


胸が熱くなり、涙が込み上げる。怒りと切なさ、悔しさが渦巻き、思わず声を荒げてしまった。


「……エリザベート様はもう結婚されているのよ。素敵な旦那様がいて、幸せに暮らしている。ジャンがどんなに想ったって……叶わない恋なのに!」


その声は風にかき消されず、確かに彼に届いた。

ジャンが傷ついた顔をした。口をついて出た次の言葉は、もう抑えようもなかった。


「勿論、分かってる。二人の邪魔をする気はない。ただ、エリザベート嬢の活動を陰から応援出来たらと……」


「だから、わたしのダイエットも応援してくれるの?」


「ああ、そうだ……」


胸の奥に溜まっていた言葉が、とうとう零れた。


「……ジャン」


視線を逸らさず、震える声で続ける。


「貴方がダイエットを指導してくれてるのは助かってるわ。感謝もしてる。けどね……、わたしとエリザベート様を比べないで欲しいの」


風が枝を揺らし、ざわめきが耳に届く。

鏡のように静かなガラス窓の向こうで微笑むエリザベート様と、汗で乱れた自分の姿が重なって見えた。


「わたしは、わたし。エリザベート様じゃない。エリザベート様みたいになりたくても、なれない。でもね……それでも、わたしは、わたしなりに努力しているの」


ジャンははっとした顔になる。


「わたしは……エリザベート様の代わりじゃない!」


わたしはもう、これ以上耐えきれなかった。

涙に滲む視界のまま、ジャンの前を駆け抜けた。


「……っ!」


背後で彼が何か呼びかけた気配がしたけれど、振り返る余裕なんてない。

サロンを飛び出し、馬車に乗り込むときも、胸の奥はざわめきでいっぱいで、鼓動が耳の奥でうるさく響いていた。


扉を閉める音が、やけに大きく胸に響く。

そのまま背中を預け、ずるずると床に座り込んだ。


「……ああ、わたしって本当に馬鹿」


両手で顔を覆いながら、呟きが漏れる。


ジャンに酷いことを言ってしまった。

彼を傷つけるつもりなんてなかったのに。

比べられたくない――その気持ちは確かに本物。けれど、あんなに感情的に叫ぶ必要はなかった。


どうして、あんなふうに言ってしまったんだろう……。


わかってる。

その理由なんて、痛いほど分かり切っている。


認めたくないけれど、わたしは彼を――好きなのだ。

心の奥で彼に届かない現実を思い知らされたから、あんなことを口にしてしまったんだ。


後悔は深く、夜が明けてもなお痛みとなって胸を締め付けていた。

サロンに行くのも、正直気まずい。


それでも翌日、わたしは気まずさと後悔を抱えたまま、サロンに足を運んだ。

ジャンが居ないことにほっとしながら、浮かない顔でトレーニングをしていると背後から声が掛かる。


「マルグリット?」


振り返ると、そこにはエリザベート様がいた。

相変わらず品のある微笑みをたたえ、けれど瞳には心配そうな色が宿っている。


「まあ、顔色が良くないわ。ねえ、こちらに座らない?」


逃げ場を失ったわたしは、促されるまま彼女の隣に腰を下ろした。

白いクロスの上に並ぶティーカップから甘い香りが漂うが、喉はひどく乾いているのに、何も通りそうにない。


「……元気がないように見えるわ」


柔らかい声に、思わず取り繕う。


「そ、そんなことないわ。少し疲れているだけです」


けれど、彼女の優しい眼差しに触れた瞬間、胸の奥が決壊した。

握りしめた指が震え、声がかすれる。


「……ジャンと、喧嘩をしてしまったの」


最初は言うつもりなんてなかった。

でも、一度こぼれ落ちた言葉は止められない。


「比べられたくなくて……悔しくて……!

エリザベート様に比べられるたびに惨めにな気持ちになるんです。わたしなんて、結局、甘ったれで我儘な子供なんじゃないかって……!」


涙が視界を滲ませる。慌てて目元を押さえると、彼女が静かにハンカチを差し出してくれた。


「マルグリット」


その声音は驚くほど穏やかで、わたしの心を優しく受け止めてくれる。


「貴方が抱いた感情は、自然なものよ。

私だって、かつては誰かと比べられて、悔しくて、必死に認められたくて……その気持ちを糧にしていたの」


エリザベート様は紅茶を一口含み、淡く微笑んだ。

その姿は、まるで花が陽を浴びてほころぶ瞬間のように美しい。


「でもね、最後まで歩みを止めなかったのは――“私が、私のために美しくなりたい”と心から思えたからなの」


胸の奥に、その言葉が真っ直ぐに落ちていく。

わたしは、息を呑み、ハンカチで涙を拭いながら、心の中で自分に問いかけた。


ジャンが好きだから。彼に見てほしいという思いが芽生え始めた。

でも――それだけじゃない。


幼い頃の記憶が胸をよぎる。母に髪を結ってもらい、ふわりとしたドレスを着せられた日のこと。皆が「可愛い」と笑ってくれたあの瞬間は、間違いなく幸せだった。

あの頃のわたしを、取り戻したい。けれど、ただ昔の姿に戻るのではない。


「わたしは……わたしのために、美しくなりたい、です」


誰かに笑われないためでも、誰かに認められるためでもない。

わたしは、わたしの手で、自分の可愛さを取り戻すんだ。

もう二度と、陰で囁かれて嗤われるあの痛みに支配されたくない。


「わたしは……もう一度、世界で一番かわいいお姫様になりたい――」


「その顔、とても素敵よ」


エリザベート様がそっと微笑み、わたしの手を包む。


「もう迷っていない顔だわ。……マルグリット、あなたはきっと大丈夫」


その一言で、胸の奥に新しい力が灯るのを感じた。


――そうよ。誰かのための「可愛い」じゃなくて、わたし自身のための「可愛い」を手に入れるんだ!


その決意を胸に、わたしは静かに紅茶を飲み干した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
某先生「まるで成長していない……っ!」 ジャンはまた間違ったな。というかずっと間違えっぱなし。 お前が崇拝しているエリザベスは外見だけの女じゃないだろうが。内面も磨き上げてきただろうが。お前は外見し…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ