番外編 マルグリットのダイエット奮闘記Ⅷ
陽射しがやわらかく降り注ぐ、静かな午後のこと。
サロンの中庭にはやさしい光が満ちていた。
ウォーキングのために整えられた小道を歩いているのは、わたしとジャン。二人きりだった。
小鳥のさえずりと、風に揺れる草花のかすかな音。
それ以外のすべてが遠く、世界が静止したような穏やかな時間だった。
ふと見ると、ジャンが歩みを止めていた。
その視線の先、ガラス窓の向こうにはエリザベート様がいる。
誰かと穏やかに談笑するその姿を、彼は無言のまま見つめていた。
その横顔に気づいた瞬間、胸がざわめく。
「……ねえ、ジャン。あなたは、エリザベート様のことを――」
言いかけたわたしの言葉を遮るように、彼が静かに口を開いた。
「……ああ、お慕いしている。尊敬しているんだ」
ああ、やっぱり。
驚きも少しあったけれど、同時に納得した。
彼は深く息を吸い込み、顔をこちらに向ける。
彼の声には熱が宿り、静かな中庭の中で重く響く。わたしは胸の奥が締め付けられるのを感じた。
「エリザベート様は昔……太っていて、陰で笑われていた。今の彼女からは想像もできないほどにな」
確かにジャンはわたしの目を見て話しているのに、彼の瞳は遠くを見つめているようだった。
「それでも、あの人は諦めなかった。血が滲むような努力を積み重ね、自らの手で美を勝ち取った。誰もが振り返る令嬢に生まれ変わったんだ」
――ああ、そうか。
彼の瞳に映っているのは、わたしじゃない。
風が頬を撫でる。
その言葉に宿る熱が、冷たい空気を震わせるようだった。
「俺は……その姿に圧倒された。あの人の努力は奇跡だった。どんな苦しみも、意思ひとつで超えられるのだと。俺はただ、その背中に惹かれた」
次いで、彼の横顔は、憧憬と哀しみの入り混じったものに変わる。
「だが……」
彼の瞳が少し翳る。
「だが、俺は、あの人が苦しんでいるときに助けられなかった。それどころか、彼女を馬鹿にしている連中と変わらなかった。その償いじゃないが、同じように努力している女性を助けてやりたいと思っているんだ」
彼の言葉がわたしの心を真っ直ぐに突き刺す。
誰かを尊敬する心、誰かを守りたい気持ち。
そのすべてが、わたしに突きつけられた。
胸が熱くなり、涙が込み上げる。怒りと切なさ、悔しさが渦巻き、思わず声を荒げてしまった。
「……エリザベート様はもう結婚されているのよ。素敵な旦那様がいて、幸せに暮らしている。ジャンがどんなに想ったって……叶わない恋なのに!」
その声は風にかき消されず、確かに彼に届いた。
ジャンが傷ついた顔をした。口をついて出た次の言葉は、もう抑えようもなかった。
「勿論、分かってる。二人の邪魔をする気はない。ただ、エリザベート嬢の活動を陰から応援出来たらと……」
「だから、わたしのダイエットも応援してくれるの?」
「ああ、そうだ……」
胸の奥に溜まっていた言葉が、とうとう零れた。
「……ジャン」
視線を逸らさず、震える声で続ける。
「貴方がダイエットを指導してくれてるのは助かってるわ。感謝もしてる。けどね……、わたしとエリザベート様を比べないで欲しいの」
風が枝を揺らし、ざわめきが耳に届く。
鏡のように静かなガラス窓の向こうで微笑むエリザベート様と、汗で乱れた自分の姿が重なって見えた。
「わたしは、わたし。エリザベート様じゃない。エリザベート様みたいになりたくても、なれない。でもね……それでも、わたしは、わたしなりに努力しているの」
ジャンははっとした顔になる。
「わたしは……エリザベート様の代わりじゃない!」
わたしはもう、これ以上耐えきれなかった。
涙に滲む視界のまま、ジャンの前を駆け抜けた。
「……っ!」
背後で彼が何か呼びかけた気配がしたけれど、振り返る余裕なんてない。
サロンを飛び出し、馬車に乗り込むときも、胸の奥はざわめきでいっぱいで、鼓動が耳の奥でうるさく響いていた。
扉を閉める音が、やけに大きく胸に響く。
そのまま背中を預け、ずるずると床に座り込んだ。
「……ああ、わたしって本当に馬鹿」
両手で顔を覆いながら、呟きが漏れる。
ジャンに酷いことを言ってしまった。
彼を傷つけるつもりなんてなかったのに。
比べられたくない――その気持ちは確かに本物。けれど、あんなに感情的に叫ぶ必要はなかった。
どうして、あんなふうに言ってしまったんだろう……。
わかってる。
その理由なんて、痛いほど分かり切っている。
認めたくないけれど、わたしは彼を――好きなのだ。
心の奥で彼に届かない現実を思い知らされたから、あんなことを口にしてしまったんだ。
後悔は深く、夜が明けてもなお痛みとなって胸を締め付けていた。
サロンに行くのも、正直気まずい。
それでも翌日、わたしは気まずさと後悔を抱えたまま、サロンに足を運んだ。
ジャンが居ないことにほっとしながら、浮かない顔でトレーニングをしていると背後から声が掛かる。
「マルグリット?」
振り返ると、そこにはエリザベート様がいた。
相変わらず品のある微笑みをたたえ、けれど瞳には心配そうな色が宿っている。
「まあ、顔色が良くないわ。ねえ、こちらに座らない?」
逃げ場を失ったわたしは、促されるまま彼女の隣に腰を下ろした。
白いクロスの上に並ぶティーカップから甘い香りが漂うが、喉はひどく乾いているのに、何も通りそうにない。
「……元気がないように見えるわ」
柔らかい声に、思わず取り繕う。
「そ、そんなことないわ。少し疲れているだけです」
けれど、彼女の優しい眼差しに触れた瞬間、胸の奥が決壊した。
握りしめた指が震え、声がかすれる。
「……ジャンと、喧嘩をしてしまったの」
最初は言うつもりなんてなかった。
でも、一度こぼれ落ちた言葉は止められない。
「比べられたくなくて……悔しくて……!
エリザベート様に比べられるたびに惨めにな気持ちになるんです。わたしなんて、結局、甘ったれで我儘な子供なんじゃないかって……!」
涙が視界を滲ませる。慌てて目元を押さえると、彼女が静かにハンカチを差し出してくれた。
「マルグリット」
その声音は驚くほど穏やかで、わたしの心を優しく受け止めてくれる。
「貴方が抱いた感情は、自然なものよ。
私だって、かつては誰かと比べられて、悔しくて、必死に認められたくて……その気持ちを糧にしていたの」
エリザベート様は紅茶を一口含み、淡く微笑んだ。
その姿は、まるで花が陽を浴びてほころぶ瞬間のように美しい。
「でもね、最後まで歩みを止めなかったのは――“私が、私のために美しくなりたい”と心から思えたからなの」
胸の奥に、その言葉が真っ直ぐに落ちていく。
わたしは、息を呑み、ハンカチで涙を拭いながら、心の中で自分に問いかけた。
ジャンが好きだから。彼に見てほしいという思いが芽生え始めた。
でも――それだけじゃない。
幼い頃の記憶が胸をよぎる。母に髪を結ってもらい、ふわりとしたドレスを着せられた日のこと。皆が「可愛い」と笑ってくれたあの瞬間は、間違いなく幸せだった。
あの頃のわたしを、取り戻したい。けれど、ただ昔の姿に戻るのではない。
「わたしは……わたしのために、美しくなりたい、です」
誰かに笑われないためでも、誰かに認められるためでもない。
わたしは、わたしの手で、自分の可愛さを取り戻すんだ。
もう二度と、陰で囁かれて嗤われるあの痛みに支配されたくない。
「わたしは……もう一度、世界で一番かわいいお姫様になりたい――」
「その顔、とても素敵よ」
エリザベート様がそっと微笑み、わたしの手を包む。
「もう迷っていない顔だわ。……マルグリット、あなたはきっと大丈夫」
その一言で、胸の奥に新しい力が灯るのを感じた。
――そうよ。誰かのための「可愛い」じゃなくて、わたし自身のための「可愛い」を手に入れるんだ!
その決意を胸に、わたしは静かに紅茶を飲み干した。




