5話 エリザベートの過去
子供の私は、ただ純粋に、その日を心待ちにしていた。
婚約者であるアルフォンス・リューベンハイト殿下と、初めての顔合わせ。私と母は王宮に招かれた。
「殿下とのご対面よ。しっかりとご挨拶なさい」
母の言葉に、こくりと頷いた私の心は、不安と期待とでぐるぐるに渦巻いていた。それでも、どちらかと言えば、期待のほうが大きかったと思う。
だって、将来を誓い合う“婚約者”との初めての出会いなのだもの。夢見ずにはいられなかった。絵本に描かれるお姫様と王子様のように、手を取り合い、心を通わせ、いつか愛し合える未来が来ると信じていた。
季節は春。王宮の庭園には、桜に似た薄紅の花びらがはらはらと舞っていた。
その中心に佇むのは、白亜の石造りのガゼボ。絡みつく蔦のあいだからは、春を告げる小さな花々が可憐に顔を覗かせていた。
丸く優雅に反った屋根の頂には、繊細な金細工の飾りがきらりと陽を受けて輝いている。
中へと足を踏み入れると、そこには籐で編まれた椅子とテーブルが、同じ意匠で揃えられていた。
テーブルの上には、磨かれた銀のポットと、二客のティーカップが静かに並んでいる。
「エリザベート・グラシエルでございます。お目にかかれて、光栄ですわ、アルフォンス殿下」
目の前のアルフォンス殿下は、まるで絵本の中から抜け出してきたかのような存在だった。整った顔立ち。陽に透けるような金の髪。澄んだ青い瞳。その姿を目にした瞬間、私は胸の奥がふわりと浮かぶような感覚を覚えた。
震える指先と心臓の高鳴りを抑えながら、私は丁寧にお辞儀をした。お気に入りのピンクのドレスが、そんな私に少しだけ勇気をくれた。
──けれど。
「……え? こいつが、俺の婚約者?」
その言葉が耳に届いた瞬間、思考が止まった。確かに、彼はそう言った。殿下の青い瞳には、はっきりとした嫌悪が宿っていて、それを隠そうともしなかった。
「やだよ、こんなデブと結婚するの!」
あまりに衝撃で、言葉が出なかった。顔が熱くなるのを感じた。耳の奥で血が脈打ち、心臓がバラバラに砕ける音が聞こえた気がした。
「アルフォンス殿下っ、それは――」
誰かが止めようとしたけれど、殿下は小さく鼻を鳴らして、つまらなさそうにくるりと背を向けた。
私は立ち尽くしていた。何も言えず、何もできず、ただ唇を噛んで、その場から消えてしまえばいいと思った。
「だってさ。あんな子が将来のお妃だなんて、王国の恥だよ」
遠ざかる声が、背中を切り裂いた。鋭く、容赦なく。
お茶の席に着く暇もなかった。銀のポットも、用意されたカップも、すべてが虚しく沈黙を守っていた。
視界がぼやける。滲んだ世界の中、熱い涙が頬を伝った。泣き声すら出せなかった。ただ、静かに、涙が流れていくのを止められなかった。
その日、私は知った。私は肥っていて醜いのだと。
ふくよかな私を誰も咎めなかったのは、私が公爵家の娘だったから。彼の婚約者に選ばれたのも、私自身ではなく、その肩書きと家柄のせい。ただ、それだけの理由だった。
私は、美しいお姫様なんかじゃなかった。
それから、数年の月日が流れた。殿下との距離が縮まることは一度もなく、私たちの関係は冷え切ったまま、淡々と時間だけが過ぎていった。
そしてある晩――アルフォンス殿下主催の舞踏会が、王宮で盛大に催された。
煌びやかなシャンデリアが天井からいくつもぶら下がり、貴族たちの笑い声があちこちに咲いていた。ピアノとヴァイオリンの優雅な旋律が会場を包むなか、私は緊張とわずかな希望を胸に、静かに立っていた。
形式上とはいえ、私は殿下の婚約者。この舞踏会に顔を出すのは、当然の務めだった。
「殿下」
私は、刺繍が織り込まれたミルクティー色のドレスの裾をそっと持ち上げて、彼のもとへと歩み寄った。
幼い頃から、ずっと冷たかった彼。でも、少しは私を認めてくれる瞬間があるかもしれない。そんな淡い期待を、胸の奥に抱いて。
彼はいつも通り、冷たい瞳をこちらに向けて口を開いた。
「……来なくていいと言ったはずだが?」
その一言が、刃物のように私の胸を裂いた。痛みに耐えながら、私は必死に言葉を絞り出す。
「で、ですが……殿下の婚約者として、このような場に同席するのは当然かと……」
必死に笑みを保ちながら返す私に、彼はあからさまに眉をひそめた。
「ふん……誰が、お前のような醜い飾りを必要とする?ドレスに着られている姿を見るのも不快だ」
ドッ……と周囲に小さく、でも確かに聞こえる笑い声が広がった。
ルチアの甘ったるい声が、私の耳にまとわりつく。
「まあ、殿下ったらお厳しい。でも……たしかに少し、そのドレス、窮屈そうですものね」
まただ、私の容姿への遠回しな皮肉。誰かが、扇子の奥で笑いを噛み殺した。
顔が熱い。視線が、痛い。心臓がどくどくと音を立てていた。悔しさで。羞恥で。だけど、黙って笑われるだけなんて嫌だった。
「……ふ、ふんっ。そ、そちらこそ……そのドレス、そのドレス、まるで舞踏会の主役気取りですわね。もっと高位の方々を差し置いて、目立ちすぎでは?」
喉の奥が詰まる。何か、もっと辛辣な言葉を投げつけたかったのに、出てきたのは幼稚な反撃だった。けれど、言っていることそのものは、決して的外れではない。高位貴族の、しかも王太子殿下の婚約者である私が出席しているのに、誰よりも目立つ装いを選ぶとは。ルチアの華美な深紅のドレスは、慎みを欠いた礼節知らずの証に他ならない。
扇子の先でルチアを指すようにして、私は無理に笑ってみせる。
「――まぁ」
一瞬の沈黙のあと、ルチアは涼しい顔で微笑む。
「このドレス、アルフォンス殿下が私のために誂えてくださったものですのよ?」
胸の奥が、すっと冷えた。
まるで、心臓の芯を氷で包まれたようだった。
「え……?」
「『ルチアには、薔薇のような深紅が似合う』って……わざわざ王都の仕立て屋に特注で。私の肌の色も髪の色も、いちばん美しく映えるようにって、殿下自ら悩んで選んでくださったのです」
ルチアがドレスの裾を持ち上げ、くるりと一回転してみせた。ドレスの裾が優雅に広がり、金糸の薔薇模様がきらめいた。
その首にはアルフォンス殿下の瞳と同じ色をした宝石がきらりと煌めいた。
そして、ほんの少し、目を伏せ、声を落とす。
「それなのに……折角、殿下に贈られたドレスをそんな風に言われるなんて悲しいわ」
その言葉に、場が揺れる。誰かが「あら、婚約者のはずのエリザベート様は、ドレスの贈り物すら届いていないのね」と囁いた。
「まさか、夜会がある時は婚約者にドレスを贈るのが男性の義務なのに?」
「けど、御覧なさいな。エリザベート様は殿下の色を何一つ身に着けてませんわ」
そんな声が、私の耳元で生々しく、何重にも重なった。
私は……殿下からドレスなんて、もらったことはない。
贈り物も、言葉も、優しさの欠片すら……何ひとつ。
扇子を持つ指が震えるのを止められない。
視線をあげれば、殿下はただ冷めた目でこちらを見ていた。
「……口を慎め、エリザベート。見苦しいぞ」
刃のような一言。
ルチアの勝ち誇ったような笑み。
私は、自分の唇を噛みしめた。血の味がした。声も出ない。言い返す言葉すら見つからない。私は、立ち尽くすしかなかった。
私なりに努力はしたのだ。殿下の横に、恥ずかしくない姿で並ぶために。けれど、当時の私は正しい知識を持たず、この世界にある唯一の手段――“絶食”という無謀な方法にすがった。
一日二日、何も口にせず、水で胃を満たしながら、途中で腹が鳴っても、抱きしめた枕に涙を吸わせた。
でも、限界はすぐに来て、空腹に耐えきれず、我を忘れて食べてしまった。
結果、私は逆に……以前よりも太ってしまった。
それから何度も繰り返したが、上手くいかなかった。でも、周囲の嘲笑や陰口がストレスとなって、過食に走る悪循環から抜け出せなかった。
ならせめて、と私は今度は勉強に打ち込んだ。
歴史書や政治の基礎を学び、マナーの講座では何度も姿勢矯正を繰り返し、歩き方や礼の角度を血のにじむ思いで覚えた。
でも、駄目だった。
「見た目も振る舞いも、すべてが醜い。王太子の婚約者に相応しい器ではない」
それが、アルフォンス殿下の評価だった。
「エリザベート様?顔色が悪いわ、お疲れかしら?立っているだけで大変そうだものね」
「ふふっ……!ルチア様ったら」
みんなの笑い声が、波のように押し寄せてくる。ひとつ、またひとつ。小さな嘲笑が、私を絶望の淵に追いやる。誰も助けてくれない。いや、助けなんて求められない。泣くことすら赦されないこの場で、私ができる唯一の選択はその場から逃げることだけだった。
私は踵を返した。
涙をこぼすまいと奥歯を噛みしめ、顔を上げたまま。会場の視線が追いかけてくるのを背中に感じながら、ゆっくりと、けれど確かな足取りで舞踏会場を後にした。
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