番外編 マルグリットのダイエット奮闘記Ⅱ
ドアの前で、私は深いため息をついた。
胸の奥にたまった不安が、ため息と一緒にこぼれ落ちる。
「はあ~~やっぱり帰ろうかな……でも……」
ここが、例のサロンだ。
《ラ・ベル・レジスタンス》……みんなに噂されているあの場所。王子の婚約を自ら破棄した“悪役令嬢“が始めたというサロン。
でも、私みたいなのが入っていいの?
痩せたいって思ってるけど、ダイエットって絶食をしなければいけないんでしょ?
そんな辛いの、私にできるわけないのに……。
手のひらはじっとりと汗ばみ、足はすくんで動かない。
それでも、勇気を振り絞ろうとしたそのとき――目の前で、カチリとドアノブが回る音がした。
驚いて顔を上げる。
そこに立っていたのは、整った顔立ちをした女性だった。品のある微笑を浮かべ、勝気なルビー色の瞳がやわらかく細められている。
「お客様、よね?どうぞ、中へ入って」
その声が、思っていたよりもずっと穏やかで、私は少しだけ息を吸い込んだ。
逃げ出すなら今しかないのに……。
でも、彼女の目を見た瞬間、不思議と体が動いた。
一歩、そしてもう一歩。おずおずと敷居をまたいだ。
「あの~此処、いま、噂の……ダイエットのサポートをしてくれているサロンだって聞いたんですけど……」
声が少し震えていた。ちらりと女性を見て、すぐに視線を逸らす。
「どんな噂を聞いたか分からないけど、そうよ。ここは美と健康を育む場所よ」
美と健康……。私にとっては、仰々しいな。視線をもとに戻せない。
「ダイエットさせてくれるって……でも、ダイエットってことは、絶食しないとダメなんだよね?」
指先がスカートの裾をぎゅっと握っていた。
「わたし、食べるの好きで~……ケーキとか、甘いのとか……」
そう自分で言っておきながら、恥ずかしさが胸を押し上げて、思わず困ったように笑ってしまう。
すると、隣に立つ彼女が、ふっと優しく微笑んだような気がした。
「ダイエットが怖いのね」
図星を突かれ、言葉を失う。唇を噛んで、ただ小さく頷いた。
「変わりたいけど……絶食とか、そんな苦行に自分が耐えられるわけがないもん……」
「ふふ……あなた、勇気を出して来てくれたのね」
その言葉に、胸がじんとした。
「大丈夫。絶食なんて、私のサロンではしないわ。ここでは、ちゃんと食べて、動いて、心も体も整えていくの」
「……ほんとに?」
気づけば、私は問いかけていた。
「ええ。本当よ」
固く握りしめていた指先から、少しだけ力が抜けたのがわかった。
そのとき、ようやく私は――、
怖くてそれまで目を向けられなかったサロンの中を、ちゃんと見渡すことができた。
明るく清潔な空間。窓から差し込む柔らかな光が、床のタイルにきらりと反射している。
澄み渡った空気には、ほのかに花の香りが漂い、深く息を吸い込むたびに心が少しずつ落ち着いていく。
部屋のあちこちに置かれた観葉植物は目に優しく、自然と肩の力が抜けていく。
奥のスペースでは、華奢な令嬢たちが笑顔で体を動かしていた。誰ひとり、怖い顔などしていない。
「確かに、イメージと違っていて……怖くないかも」
窓から注ぐ光に包まれ、遠くからは楽しげな笑い声が聞こえてくる。
そのすべてが、胸の奥にこびりついていた不安を、少しずつ溶かしていった。
「でしょ。まずは、あなたのお話を聞かせてくれる?」
私は、こくりと頷いた。
そのままサロンの中のソファに案内され、ふかふかのクッションに身体を預ける。
侍女らしき女性が紅茶を淹れてくれる。
ルビー色の瞳をした女性ははカップを手に取り、口をつける。その仕草さえ優雅で惚れ惚れとしてしまう。
淡いアールグレイの香りが、ふわりと広がった。
私もおそるおそるカップを手に取る。温かさが指先から伝わり、震えが落ち着いていく。
まずはお互いの自己紹介から始まった。
「私はマルグリットって言います!」
「私は、エリザベートよ。このサロンの運営をさせていただいてるわ」
――この人がエリザベート様!?
肥っていて醜悪な悪役令嬢と噂だったけれど……とてもそうは見えなかった。
白く透き通る肌は陶磁器のように滑らかで、薔薇の花びらのように紅く艶やかな唇。
その口元がわずかに綻ぶだけで、女性の私でもどきっとしてしまいそう。
豊満な胸の下には、絞り上げたようにしなやかな曲線を描くくびれ。
華やかなドレスに包まれた肢体は、女性らしい魅力に満ちている。
蜂蜜色のブロンドは陽光を受けて金糸のようにきらめき、波打つたびに甘やかな光を散らす。
まるで、そう――美の女神。
そう呼ぶほかに形容のしようがなかった。
あれほど嘲られていた「みにくい悪役令嬢」の面影なんて、どこにもない。
ただただ私は、彼女の放つ眩いばかりの輝きに呑まれるばかり。
「……ねえ、マルグリット様」
うっとりと見惚れていた私に、エリザベート様の声が降りかかる。
はっと我に返り、慌てて背筋を伸ばした。
「はい、なんですか!?」
「まず初めに聞いておきたいの、動機を。どうして、サロンに来ようと思ったの?」
その問いかけに、私は少し迷ってから、言葉を探すように口を開いた。
「……“可愛い”って、ずっと言われて育ったの。家族にも、まわりにも。お人形みたいだって」
紅茶の表面がゆらゆら揺れる。私は視線を落としたまま続けた。
「それが、当たり前だと思ってたんです。食べるのが好きで……でも、可愛く着飾っていれば、それでよかったって……」
でも――私は息を呑んで、カップをソーサーに戻した。
「ある日、全部、嘘だったんだって気づいてしまって。友達や婚約者の影口を聞いて……」
声がかすれる。それでも、止まらなかった。
「“可愛い”って信じてたものが、ただの笑いものになってて。あんなに甘くて幸せだったはずのスイーツも、今では……ただ、怖いの」
その瞬間、頬をつたって涙が一粒こぼれ落ちた。
「……だから、変わりたいんです。綺麗になりたい。誰にも笑われない自分になりたい」
すると、エリザベート様はそっと私の手を取った。
「辛かったでしょうに……よく話してくれたわね。ありがとう、マルグリット様」
その温かさが、心に沁みた。
ぶんぶんと頭をふる。
「だから、その!わたし、今度こそ世界いち可愛くなれますか!?」
私の問いに、エリザベート様は少しだけ困ったように微笑んだ。
「そうね……“世界一”というのは、難しいわ。だって、可愛さなんて、人の数だけ基準があるもの」
その返答にすこしがっかりした。
けれど、エリザベート様は続けていった。
「でも――あなたが“自分を好きになれる為の可愛さ”を目指すなら、私は全力でお手伝いする。私のアドバイスを聞けば、痩せる事は可能な筈よ」
私はもう一度、彼女の目を見る。
その奥に、揺るぎない信念が宿っているのを感じた。
我ながら単純だけど……この人なら、信じてもいいのかもしれない。そう思えた。
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