番外編 SIDEジャン
18、19話 新たな攻略キャラ のジャン視点の話になります。
あの日、騎士団の支援金に関する交渉のため、公爵家の当主に話があって、俺はこの屋敷を訪れていた。
朝の空気は冷たい。だが、俺にとってはむしろ心地よかった。まだ陽が昇りきらぬ時間に剣を振るうときと同じ、清浄な冷たさと同じだったからだ。
そのとき、庭園の周りを駆ける影が視界に入った。
砂利を踏む軽快な音、規則正しい呼吸。すらりと伸びた脚が迷いなく地面を蹴り、額には汗が光る。
思わず足を止めた。
――誰だ?
かつて肥え、鈍っていた姿とはまるで違う。最初は本当に、彼女だと気づけなかった。
だが次の瞬間、驚きと共にその正体を理解し、同時に、その変貌ぶりに目を奪われた。
「……これは、失礼。朝から随分と精が出るな」
気づけば、言葉が自然と漏れていた。
振り返ったのは、公爵令嬢のエリザベート嬢だった。
だが俺が目を奪われたのは、泥にまみれた顔でも、乱れた髪でもない。彼女の走る姿、その肉体の張りと均整だった。
驚きに満ちた心の奥に、否応なく湧き上がるものがある。
――見惚れてしまったのだ。
美しいものを見たとき、人は敬意を抱く。
そう――大腿四頭筋。無駄のない張り。
ふくらはぎの腓腹筋、しなやかにして引き締まり、走者のそれに匹敵する。
日々の鍛錬と正しい姿勢がもたらす結晶だ。
「ああ……なんと、美しい筋肉なんだ」
気づけば、心の奥底から湧き出す賛美が言葉になっていた。
エリザベートは顔を真っ赤にしてうろたえた。そんな姿も好ましいと思った。
本当にエリザベートは変わった。
筋肉は……嘘をつかない。
日々の努力も、痛みも、葛藤も、すべてが正直に表れる。怠惰も、節制も、鍛錬も、一切の誤魔化しが効かない。だからこそ、美しいものだ。
正直、以前のエリザベートは、だらしない身体をしてたが、今はまるで別人だ。「悪役令嬢」などと噂されていたが、その烙印は今の彼女には似合わない。鍛錬を積み重ね、自らを律した証をこの身に刻んでいるのだから――それは何より、心を入れ替えた証拠だろう。
そう、賛美のつもりだったのだ。
「以前の君は……正直、身体が弛んでいた印象だったが、今はまるで別人だな。心を入れ替えたのだろう?君の肉体は、実に素晴らしい。これからも驕らず、一層筋トレに励んでくれ」
言い切ったあと、胸の奥に小さな満足感が広がった。
努力を見抜き、正しく評価した――そう思ったからだ。
だが。
エリザベートの笑顔は、なぜか曇ってしまった。
まるで、俺が何か取り返しのつかない失言でもしたかのように。
「それは違いますよ、ジャン殿」
低く、確かな怒気を含んだ声に、思わず振り返る。
扉の前に立っていたのはカミルだった。
「おや、君が約束の相手だったか。先日は騎士団の健康診断をありがとう。……それで、“違う”とは?」
努めて、笑みを浮かべてみせる。
だが、カミルは歩を止めず、真っすぐに俺の方へと向かってくる。その眼差しは逸らすことなく、まるで槍の穂先のように鋭かった。
「エリザベート嬢は、昔から努力を惜しまない人でした。その言い方では、まるで以前の彼女が怠惰だったと決めつけているようで、聞いていて不快です」
穏やかな調子でありながら、その言葉は鋭利な刃だった。
俺は肩をすくめ、唇に皮肉めいた笑みを浮かべる。
「いやはや、随分と手厳しいな。私はただ、今の彼女を素直に讃えただけだぞ?」
挑発するつもりはなかった。だが俺の言葉は、どこかそう響いてしまったらしい。
カミルはエリザベートの隣に立ち、視線を落とす。その態度は静かながら揺るぎないものだった。
「そもそも、見た目だけで人を判断するのは失礼です。それに、エリザベート嬢がここまで来るまでに、どれほどの葛藤と苦しみ、そして努力があったか……僕は、誰よりも近くで見てきました。だから、看過できませんでした」
語るごとに、彼の声音には熱が帯びていく。
「長く苦しみながらも、何度も立ち上がって前を向いてきた。彼女は痩せたから素晴らしいのではない。今も昔も変わらず、芯の強さを持った立派な女性です」
静かな言葉だったが、その奥に宿る強い想いが胸に突き刺さる。
俺は一瞬、返す言葉を失った。
確かに、言い方が良くなかったのかもしれない。
ただ嬉しかっただけなのだ。あまりに変わった彼女の姿に驚き、素直に感嘆を覚えた。
けれど、その言葉が彼女を過去の「怠惰」と結びつける形になっていたのなら、誤解を与えたのは俺の落ち度だ。
「そうか……誤解させたのなら、本当にすまない。ただ、彼女が変わったことが嬉しかったんだ。素直に、そう思って口にしただけだった」
苦笑を漏らしながら言った自分の声が、少しだけ掠れていた。
……そして気づいてしまった。
エリザベートがカミルを見る目。それは、俺に向ける視線とはまるで違っていた。
真っ直ぐで、迷いなく、深い信頼を寄せている眼差し。
――ああ、そうか。
そのとき理解した。
自分の胸の奥に、うっすらと恋心が芽生えていたことを。
だがそれは、芽吹いた瞬間に踏み潰されるように終わっていた。
俺はその日のうちに、失恋していたのだ。
***
そう間もなく、殿下がエリザベートに婚約破棄された――という噂が耳に届いた。
驚きはしたが、不思議と納得もあった。
ほどなくして、彼女は新たにカミルと婚約を結んだと聞いた。
その報せに、周囲の者たちは意外だと口々に驚きを漏らしていた。だが、俺にとっては納得しかなかった。二人の距離の近さを、俺はあの日、この目で確かに見ていたのだから。
エリザベートの眼差しは言葉以上に雄弁に語っていた。
「それにしたって、殿下は見る目がないというか……勿体ないですよねー」
そう言ったのは、部下のサイラスだ。
城の片隅にある訓練所で、剣を交えた後の雑談のように、彼は肩を軽くすくめながら話す。
「不敬だぞ。……だが、そうだな。あんなに努力して変わったというのに」
「んー、そうじゃなくて……」
サイラスは一瞬考えこむように黙った後、言葉を続けた。
「確かにルチア嬢は美しかったけど……妃として求められるのは美しさだけではないっしょ?外交や政治、王族としての責務……一介の騎士の俺に理解しきれない、やるべきことが山ほどあると思うんすよ」
間を置き、さらに言葉を重ねる。
「その点、エリザベート様は礼儀作法も完璧だったし、外国語や政治学もマスターしていたらしいじゃないっすか。どっちが妃に相応しいかなんて、分かり切ってるのにって」
「そう、だな……」
知らなかったとは、とても言えない。
王太妃教育がどれほど過酷かくらい、知っていて当然だ。
エリザベート嬢の噂は、どうしてもその肥えた外見ばかりが取り沙汰されていた。だが、実際に会えば、そのマナーはいつだって完璧だったのだ。
――なんという愚かさだ。
見た目だけで判断し、かつての彼女の努力を軽んじていた。ずっと前から、ちゃんと目を向けていれば、決して彼女が努力を怠っていた訳ではないことを正しく理解できていたはずだ。
多分、カミルは――彼女のそうした努力を踏みにじるような言い方をした俺に腹を立てたのだろう。
そして、そんな風に真剣に想ってくれているカミルにエリザベートは惹かれたのだろう。
「本当に、殿下は……勿体ないことをした」
殿下、逃がした魚は大きかったようですよ。
だが、見た目だけで判断していたのは殿下だけじゃない。自分の愚かさを思えば、他人のことを責める資格などない。
驕っていたのは、きっと俺自身なのだ――そう、痛感していた。
――ならば、せめて。
二人の幸せを祈ろう。
それが、騎士としての、そして男としての、俺にできる唯一のことだった。
実はほのかに恋心が芽生えていたジャン視点の話でした。
ジャンは良い奴ではあるのですが、脳筋でして……。
今後、彼は成長できるのか!?
只今、新たにサロンに訪れた女性のエピソードを執筆です。そちらにジャンも登場する予定です。
早ければ来週に投稿します。ぜひ読んでいただけると嬉しいです。
また連載中の『追放聖女の異世界ライフ!~ちっちゃくてかわいい精霊たちと冒険を満喫するので、追放した国には帰りません!~』もよろしくお願いします。




