番外編 もう一人の悪役令嬢Ⅲ
午後のサロンは静かだった。
今日は医師のカミルと共に、ブリジットの体調について話し合う予定だった。今のままでは何時倒れても可笑しくない。無理なダイエットはリバウンドもするし、かえって良くないと説得するつもりだった。
けれどその静寂は、唐突に破られた。
――バンッ!
重いドアが勢いよく押し開けられ、金属の取っ手が悲鳴を上げる。花瓶の水が震え、控室から出ようとしていたスタッフが小さく息を呑んだ。
「ブリジット!ここにいたのか!」
怒気を孕んだ低い声が響く。
現れたのは、栗色の髪を後ろで束ねた長身の青年――フレディ・フェルスター。
乙女ゲームでは、誰にでも柔らかな微笑みを向ける好青年だった。だが今、その眉間には深い皺が刻まれ、瞳は血走り、彼本来の柔らかな印象とはまるで別人のようだ。
ブリジットは目を見開く。慌ててソファから立ち上がろうとして、体がふらりと揺らいでテーブルに手をついた。
彼女の顔色は悪く、無理な減食が影響が出ているのは明らかだった。
「フ、フレディ様……?」
「こんなところで何してるんだ!帰るぞ!」
フレディは一歩で詰め寄り、彼女の手首を掴む。
その手は強く、掴まれた腕はたちまち赤くなった。
「あっ……い、痛い……」
か細く訴える声。
――あのフレディが女の子相手に?婚約者相手には、こんな乱暴な振舞いをする人だったなんて。
かつての殿下と私の姿に重なって、怒りが込み上げてくる。
「ちょっと、何をしているの!?」
私が叫ぶと、フレディは憤然と振り返り、鋭く私を睨んだ。
「お前のせいだ!ブリジットがどんどん痩せて、倒れそうになってるのは、全部お前のせいだろう!」
「……何ですって?」
怒りが、胸元からせり上がる。けれどその先にあるのは、戸惑いだった。
「私は彼女に無理をさせるようなことはしていないわ。健康を損なってまで痩せろなんて、口が裂けても言わない!」
「なら、どうしてこんな顔をしてる!」
彼が引き寄せたブリジットの頬はこけ、額には汗が浮かんでいた。
必死に笑みを作ろうとするが、それは痛々しいほど歪んでいた。
「こんな場所にいたら、ブリジットがブリジットじゃなくなっちまう!」
その言葉に、私は一瞬、息を詰めた。
――この人、本気で心配している?
ゲームのフレディは、誰にでも優しく、女の子に手を振る難派な男性の典型だったはず。ブリジットが必死に彼に釣り合おうと努力している間も、別の令嬢と噂になることすらあった。だから、フレディはブリジットに無関心なのだと思っていた。
でも今、私の前にいるのは――違う。
取り乱し、怒鳴り、彼女を連れ戻そうとする彼は、本気で彼女の事を心配していた。それは愛情からくる恐れと焦りの現れだった。
「ダイエットなんて止めてくれ、ブリジット。俺は、幸せそうに食べる君が好きなんだ。今の君は見てる俺もつらいよ」
「……ごめんなさい。私、あなたに……ふさわしい人になりたくて……」
「ブリジットはもう、十分すぎるほど素敵だよ」
その言葉に、私は息を呑む。
フレディ様は、ずっと、ブリジットだけを見ていた――
それを、私は勝手な先入観で否定していたのだ。
そっと目を伏せた私に、彼の声が重く響いた。
「そもそも“痩せていなければいけない”なんて風潮そのものが間違っているんだ!」
その声音には、怒りと痛みと、そして切実な嘆きが入り混じっていた。
「エリザベート嬢、君がサロンを開いてからというもの、世の中はすっかりダイエット一色だ。まるで、誰もが細くなければならないとでも言うような風潮が広まってしまった……そんな空気を作り出したのは、他でもない君だ!」
フレディの言葉は、まるで頭を打たれたような衝撃だった。
……痩せた体が美しいという価値観。
私自身、どこかでその固定概念に囚われていたのかもしれない。無理な絶食を否定してきたつもりでも、結局は“見た目”を追い求める競争の一端に加担していたのではないか――それに気づいた瞬間、まるで背筋に冷たい水を浴びたようだった。
「ありのままのブリジットが俺は好きだ。なのに、痩せなければいけないと苦しんでいる。そう思い込ませた、この社会が憎いよ」
その声には、彼女を奪われたような喪失感がにじんでいた。
私は唇を噛み、目を伏せた。自分の想いが、誰かを苦しめていたのかもしれない――そう思うと、胸が締めつけられる。
「ごめんなさい、フレディ様……ブリジット。私……」
謝罪の言葉を口にしようとしたその時、
カミルの穏やかで落ち着いた声が割って入った。
「いいえ、エリザベートは間違ってなどいません」
「カミル……!」
彼はまっすぐにフレディを見据え、静かに言った。
「フレディ殿、あなたの心配も分かります。でもまず、理解してほしいのは、ブリジット嬢が痩せるべき理由は、見た目ではなく健康のためです。……“貴族病”をご存知でしょうか?」
「貴族病……?」
フレディが眉をひそめる。
貴族病。この世界でも多くの人を苦しませている謎の病。――前世では、糖尿病と呼ばれていた。
「脚の末端が壊死したり、視力を失ったりする恐ろしい病です。原因不明とされていますが、実は“肥満”が関与しているとする説が近年有力なのです」
息を呑むフレディに、カミルは静かに続けた。
「なぜ上流貴族に多く発症するのか。それは偏った食生活と、極端な運動不足が長年積み重なった結果だと考えられているのです」
「……そんな……」
「あなたも、ブリジット嬢に長く元気でいてほしいのでしょう?」
「もちろんだ。……病気なんてしてほしくない」
「ならば、ダイエットの大切さを理解してくれますね?」
カミルは静かに、けれどはっきりと告げた。
「とはいえ、食事を抜いて痩せようとするなど、言語道断です。正しく食べ、必要な栄養を摂りながら、生活習慣を整え、運動を続ける。これが、美しさと健康を両立する唯一の道です」
サロンに、慈しみのこもった説得が染み渡った。
フレディはブリジットをまっすぐに見つめ、しばらく考えた末に、こう言った。
「ほんとは…ッ、大好きなブリジットが一ミリだって減ってしまうのは嫌だけど……、いつまでも君には元気でいてもらいたいから……ただ、無理なダイエットだけはしないでくれ」
「フレディ様……」
フレディの言葉を聞いても、いまだ苦しそうな顔をしているブリジット。
私はそっと彼女のそばに立ち、フレディを見据えた。
「フレディ様。貴方は、ブリジットにダイエットの動機を聞きましたか?」
戸惑いながら、フレディは首を横に振った。
「貴方がどの女性にでも優しいから、ブリジットは不安になったのです。最近だって伯爵令嬢と二人きりでいた噂が広まり、彼女は深く気に病んでいました」
「待ってくれ!彼女は具合が悪いと言うから介護をしただけだ!」
目を見開き反論する彼に、私もまた首を振る。
「けれど、ブリジットは傷付いたんです。婚約者がいる身なら、誤解を与えないように配慮すべきだったのではありませんか?」
私が穏やかに諭すと、彼の表情がわずかに揺れた。
ブリジットはうつむきながら、小さな声で言う。
「私、あなたに捨てられたくなくて、あなたに似合う自分になりたかっただけなの……」
彼女の肩に手を添えながら、言葉を重ねる。
「これ以上、彼女を不安にさせないであげてちょうだい。それから……貴方の為に変わりたいと思った、その思いは否定しないであげて」
攻略されなかったフレディはブリジットとちゃんと愛を育んでいたようです。
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