SIDEルチアⅢ
殿下とエリザベートの婚約が解消されたのち、後釜に選ばれたのは私だった。――それは確かに、幼い頃から願い続けたはずの未来だ。けれど現実は、思い描いた筋書きとあまりに違っていた。
エリザベートは“改革の象徴”とまで呼ばれ、彼女が立ち上げた化粧品サロンは連日評判を呼び、貴婦人たちの社交話題の中心になっているというのに……。
本来のシナリオでは、エリザベートが社交界から追放されて――私は勝者として皇太子殿下の婚約者の座を手に入れるはずだった。
「……あんな豚みたいな女、婚約破棄してやる!」
誰もいない王宮の廊下で殿下が吐き捨てた言葉を、私は確かに聞いた。
エリザベートを貶めながら私を褒めそやす声は蜜のように甘く、胸の奥まで快感を染み込ませた。なのに彼女のほうから婚約を破棄してくるなど、誰が想像しただろうか。
「な、なんで俺が振られるんだ!?俺は王太子だぞっ!」
夜会の後で、顔を真っ赤にして喚き散らした。まるで、自分が世界の中心であると信じて疑わない幼子のように。傍にいた侍従も、官女たちも、言葉を失ったまま、殿下の姿を見つめるしかなかった。
「エリザベートがあんなに美しいだなんて……もっと早くに痩せていたら優しくしてやったのに!くそっ!」
胸の奥で小さな声が「違う」と呟いた。
これは私の望んだ物語じゃない。
私が夢見ていたのは、敗北して追われるエリザベートの哀れな姿。勝利者として美しいドレスに身を包み、殿下の腕に寄り添い、皆に祝福される私の未来だった。
それでも私は“新たな婚約者”に据えられ、表向きには王妃教育が始まった。
「ありのままの君でいい」
そう殿下は私に言った。けれど、実際に求められたのは、“王妃にふさわしい資質”だった。外見の美しさだけでは、どうにもならなかった。
王妃教育は苛烈だった。
礼儀作法に始まり、歴史と政治、外交儀礼、数ヶ国語の会話術。教養、舞踏、音楽――それらすべてが私を試す鉄の試練となった。だが、私は何一つついていけなかった。教本の文字は記号のようにしか見えず、叱られるたびに心は萎縮していった。
「これくらいのこともこなせないなんて、王妃として失格です」
新教育係は、無表情でそう告げた。どんなに泣いても、どんなにお願いしても、彼女の声色は変わらなかった。私が落ちこぼれであることを、彼女は厳然と突きつけてきた。
私は毎夜、枕を濡らしながら教本を抱きしめていた。ただの紙束が、まるで重たい石のように、私の胸にのしかかっていた。
私は、綺麗なドレスを着て、微笑んでさえいれば良いと思っていたのに。
政治? 外交? そんなの、男たちの領分だと思っていた。いや、ずっとそう教えられてきた。
「女が政治に口を出してもろくなことにならない」
「愛されることが女の務め」
「美しくあれば、それだけで価値がある」
そう、皆が言っていたのに。
私はただ、綺麗なドレスを着て、笑っていれば良いのだと思っていたのに。
政治? 外交? そんなの、男たちの領分じゃなかったの?
「女が政治に口を出してもろくなことにならない」って、男たちはずっとそう言ってたじゃない。
私の今の暮らしは、かつて夢見た理想とはほど遠かった。
殿下に選ばれさえすれば、何もかもが手に入ると信じていた。
最高級のドレスに身を包み、舞踏会とお茶会に彩られた毎日。香り高い紅茶、宝石のように繊細な菓子。殿下の腕に寄り添い、祝福を浴びながら、私はその中心で、ただ微笑んでいればいい――そんな風に思っていた。
でも、現実は――残酷だった。
鏡に映った自分の顔は、もはや夢見ていた「王妃」などではない。
寝不足で赤く充血した目。目の下には濃い隈がくっきりと浮かび、肌の艶もなくなっていた。頬も痩せこけ、笑顔を作ろうにも引きつってしまう。化粧をしても、疲労は隠せなかった。
そして何より――優しかったユリウスの瞳から、温もりが消えていた。
「帝国語すら話せないんですか!?これは外交の基本でしょう!」
彼の声が、容赦なく私の心を刺した。
かつてのユリウスなら、少し困ったように眉を下げ、それでも「君は努力している」と微笑んでくれたはずだった。でも今の彼は、冷たい目で私を睨みつけるだけ。粗探しをしているかのように。
「通訳がいるのだから、別に私が話せなくてもいいでしょう?」
私は反論のつもりでそう返した。
通訳を通せば、言葉の壁など問題にならないはずだ。私は、当然のようにそう考えていた。
けれど、彼はその場で絶句した。
何も言わず、ただじっと私を見つめるその目が、痛かった。失望がにじみ出ていた。怒りでも軽蔑でもない。ただ、心の底から「がっかりした」と言われたような――そんな目。
その直後、私は帝国の使者との会談で言葉を誤り、相手を激怒させてしまった。
「これは……侮辱か?」と、使者は低く、凍りついた声で呟いた。
その場の空気が、急速に冷え込んでいくのがわかった。宮廷の人々は息をひそめ、殿下でさえ私の方を見ず、ユリウスは眉間に深い皺を刻んでいた。
私はただ、困ったように笑うことしかできなかった。「ごめんなさい」も「知らなかった」も、この場では許されない。ようやく、それを理解し始めていた。
それから数日後、ユリウスが誰かに漏らした言葉が、私の耳に届いた。
「……これなら、エリザベート嬢が王妃になった方がマシだった……」
耳を疑った。あんなにも、「君こそ王妃にふさわしい」と、誰よりも真剣にそう言ってくれたのに。そんなこと言うなんて、信じられない!
殿下との関係もうまくいかない。
最初の頃はまだよかった。私が笑いかければ、殿下も微笑み返してくれた。けれど、王妃教育が本格化するにつれて、私たちの間には目に見えない亀裂が走り始めた。
「まだ教育は終わらないのか? 早く一人前になってくれ」
「こんなこともできないのか……エリザベートなら、すぐにこなしていただろうに」
その何気ない一言一言が、胸に針のように突き刺さる。
私の努力は「当然」として扱われ、どれだけ頑張っても評価されることはなかった。
やがて、耳にしたのはもっと残酷な噂。
――今のままでは、私は王妃としてふさわしくない。それどころか、殿下ご自身の資質も問題視されているという。
本来、殿下の王位継承は、優秀なエリザベートが隣にいることが前提だったのだと。
「エリザベートが婚約者のままだったら、どれだけ良かったか……」
……その言葉だけは。たとえどんな侮蔑よりも、どんな皮肉よりも、聞きたくなかった。私を選んだのは、他でもない殿下なのに。
今になって、エリザベート様のあの言葉が、痛いほど思い出される。
「殿下はルチア様の外見しか見ていない」
それが、真実だったのだと今になって思い知る。
そして、殿下の微笑みにも、私はもう温もりを感じない。あのころ夢見た“理想の王子様”の面影すら、今では霞んで見えた。
とうとう明日が最終話になります!19:10更新予定!
面白いと思っていただけたら、☆マークから評価・お気に入り登録をしていただけると嬉しいです。




