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SIDEルチアII

思い出すのは、あの晩のこと。

あの日からすべてが変わってしまった。


王宮の大広間。

燦然と輝く水晶のシャンデリア、夢のような光を踊らせる無数のキャンドル。どこを見ても、完璧な舞台。

ここが、私の“主役”として輝くはずだった場所。


なのに――。


「……誰?」


男女のたちのざわめきが広がる。ざわめきが広がった。男女の目が、一斉に階段の上に注がれる。


「う、うそ……エリザベート様……!?」

「あれが、まさか、あの……?」


その名を耳にした瞬間、私の笑みは凍りついた。

手にしていた扇の骨が、冷たく軋むのがわかる。私は無意識のうちに、ゆっくりと視線を上げた。


そこには、知らない女がいた。


……違う。知ってる。でも、信じられない。


濃紺のドレスは星々を散りばめた夜空のように煌めき、銀糸の刺繍が天の川のようにゆるやかに流れていた。揺れる裾はため息のような音を立て、人々の視線を吸い寄せる。

完璧に結い上げられたハニーブロンドの髪。エメラルドの髪飾りが、彼女の横顔を宝石のように彩っていた。


あれが――あれが、“あの”エリザベート?


かつて、太っていて、卑屈で、私の言葉にまともに返せなかった、愚かで滑稽な令嬢が?

あんなに堂々と、美しく――まるで別人。


ありえない。嘘でしょ。どうして? どうやって?


足がすくんだ。胸の奥がじりじりと焦げるように熱い。

私は彼女を見下していた。誰よりも強く、深く。


でも今は、どう?

あの視線は?この空気は?誰もが、彼女を中心にして動いている。


「……エリザベート?」


その名を、彼が呼んだ。私の傍にいて、私だけを見ていたはずの――アルフォンス殿下が。

彼の声が、震えていた。まるで、心を奪われた男のように。


「なんて美しいんだ。今宵の夜会の主役はお前だ、エリザベート」


その瞬間、私の心が裂ける音がした。

殿下が、手を差し伸べている。いつもなら私だけに向けてくれた、あの優雅な所作で。


「踊ってくれ、エリザベート。今の君に相応しいのは、俺しかいないだろう?」


信じられない。彼が、彼女に――

この私の前で、彼女に。


心の奥で叫ぶ声に、扇が震えた。


……いや、違う、違う。これは一時の気の迷い。彼は私を選んだのよ。いつも笑って、優しくて、彼が守ってくれたのは私だけ。いいえ、奪われてなどいない。

彼女のような人に、負けるはずがない。


そう思いたいのに。視線が、すべて、彼女に集まっていく。

羨望、驚嘆、そして……賛美。

ああ、誰も、私を見てなどいない。私がどんなに努力して、笑顔を作って、気品を保ってきたかなんて、誰一人知らない。


そう。それなら、修正すればいいだけ。

舞台の筋書きを、私の手で正すだけの話――そう、私は間違ってなどいない。


「皆様、どうかお耳をお貸しくださいませ!」


ざわつく空気のなか、私は胸を張る。


「この夜会の最中に失礼を承知で申し上げます。……けれど、エリザベート様について、皆様に知っていただくべき重大な事実があるのです!」


脚本通り。感情を込め、震える声で。

嘘ではないのだから。エリザベートがどれほど腹黒くて、嫉妬深い女か。どれほど、私をいじめてきたのか、会場の人間に訴える。


「……私は長い間、苛めを受けていましたの」


「……それ以来、私は周囲から奇異の目で見られ、体調を崩しました……」


言葉を繋げるたびに、会場の空気が揺れるのが分かる。


そして――ユリウス様が、静かに前に出た。

その背中が、これ以上ないほど頼もしく見えた。


彼は、私の“味方”。エリザベートを断罪するために、共に計画を練ってくれた人。彼女の過去を掘り起こし、些細な言動を悪意に変える脚本を作ってくれた。

“真実”なんていらない。必要なのは、彼女を悪役に仕立てあげる、もっともらしい「物語」だけ。――人の心を動かすのは、証拠ではなく、共感だから。


だけど――


カミルという男が現れ、空気が一変した。


冷たい瞳。揺るぎない言葉。

私の“証言”が、まるで幼稚な演技に過ぎないと断じるかのような論理。

そのすべてが、私の足元を崩していく。

反論しようとしたその声が、自分でも驚くほど弱かった。


いつもなら――ほんの少し涙を浮かべて、哀れっぽく振る舞えば、それだけでよかった。誰もが私に同情し、慰めの言葉をかけてくれた。

信じてくれた。守ってくれた。なのに……どうして、今回は、通じないの?


こんなの、おかしいわ。

どうして……?私は可哀そうな女の子なのに。


視線が痛い。疑念、冷笑、そして失望。

嫌……こんなの、嫌……!


あの女を引きずり下ろして、皆に思い知らせるはずだったの。

王子に最も相応しいのは、誰よりも美しい私――ルチア・ブランシュだと、証明するはずだったのに!


だからこそ、舞台の中央で凛と響いたその一言は――まるで天から突き刺さる氷柱のようだった。


「……私、エリザベート・グラシエルは、アルフォンス殿下との婚約を、ここに正式に破棄いたします」


その瞬間、時間が止まったように思えた。ざわつく声、視線、呆然とした貴族たちの顔が次々と視界に入り込むのに、私の耳には何も入ってこなかった。


ただひとつ、確かなのは。


“この女、自ら舞台から降りた”


──違う。違うのよ。


その役目は、私が果たすはずだったの。


エリザベートが傲慢に振る舞い、嫉妬に駆られた末に婚約を反故にされて、哀れな悪役令嬢として舞台から姿を消す。その時初めて、聖女のように清らかな乙女である私が、称賛のなか王子と結ばれる筋書きだったのに。


「……まさか、自ら婚約を破棄なさるなんて。そんなこと、夢にも思いませんでしたわ」


乾いた声が、喉の奥からひねり出された。

笑みのつもりで浮かべた唇は、わずかに引きつっていた。視線が合った瞬間、彼女は静かに微笑んでみせた。勝ち誇るでもなく、哀れみでもない。まるで、すべてを手放した者だけが持つ“自由”の色を纏って。


「それに──あなたと殿下、案外お似合いなのよ」


その言葉に、身体がこわばる。

何かを言い返そうとして、扇を握る手が震えた。


何? 何なの、この感情は。

怒り? 違うわ、これは──


恐れ。


私は、エリザベートが嫉妬して取り乱す姿を期待していた。

惨めにすがりつき、みっともなく涙を流す。

そのすべてが、“私の正しさ”を証明する舞台装置だったのに。


だけど彼女は、違った。


潔く、凛々しく、笑って去っていく。

この場に残された私のほうが、まるで浅ましい悪役令嬢のようじゃない──!


「……私は、陛下のご子息として相応しい振る舞いを求めて……当然のことを……」


ようやく言葉を紡ぐも、それはどこか虚ろで、台詞のようだった。


「ええ。その“当然”こそが、あなたたちがよく似ている証拠だわ」


ぐさりと突き刺さる言葉。

私と殿下が似ているですって?

人を表面でしか見ず、内面には関心を持たない──?


ちがう、ちがう。そんなはずない。

私が目を向けてきたのは……地位。立場。理想の未来。

“王妃”という座にふさわしい自分になるため、努力してきた。

それが悪いとでもいうの……?


でも──


……殿下は、私の夢の話を、聞いたことがあったかしら。


ふと浮かんだ疑念に、喉がかすかに鳴る。

王子は、私のドレスを褒めてくれた。微笑んで、整った顔を評価してくれた。

でも……その先は?


扇がふるえる。白く塗られた指先が、目に見えて震えていた。


「私はこの舞台からは、降りさせてもらうわ。

そして、これからは──私自身の物語を生きるの」


その言葉が残響のように脳内を支配する。


──じゃあ、私は?


私は、何のためにここに立っているの?


華やかな衣装。完璧な微笑み。計算された仕草と敬語。

“理想の王妃”になるために削ってきたものが、空っぽだったとしたら?


彼女の去ったあとに残された私は、まるで空席を飾るだけの空虚な代役。じゃない


「……うそ。こんなの、うそよ……」


唇がかすかに動いた。けれど誰にも届かない。

もう拍手も賞賛も、ない。


舞台の中心は、私じゃない。


いいえ、最初から、この物語の主役は、──私じゃなかったのかもしれない。

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